ハンナ・アレント「責任と判断」 信じられないこと

しかしこの長期的な展望と記憶につきものの栄光の瞬間はまだ訪れていません。そしてこの機会においてわたしたちに求められているのは、建国の父たちの「思考、発言、行動の異例なまでの質の高さ」をふたたび確認することでしょう。わたしたちがこの営みに誘惑されるのは、ごく自然なことです。この質の高さを再確認することは、まさに建国の父たちの「異例なまでの質の」高さのために、至高の瞬間においては不可能なことだったのではないかと考えたくなります。人々がいまのわたしたちとアメリカの建国の時代を隔てる恐ろしいほどの距離を自覚するからこそ、多くの人々がルーツを探し始め、起きたことの「根深い原因」を探し始めているのだと思います。

こうしたルーツや「根深い原因」というものは、それが作りだした外見のうちに隠されてしまうという性質があるのです。調査や分析の対象となるものではなく、解釈と考察という不確実な方法でしか手がとどかないものなのです。こうした思索の内容はもってまわったものとなることが多く、ほとんどいつでも、事実についての記録の公正な検討の前提となっているものに依拠しているのです。第一次世界大戦や第二次世界大戦の勃発の根深い原因については、多数の理論が提示されています。こうした理論は、憂鬱な後知恵に基づいたものではなく、資本主義や社会主義の性格と運命、工業時代やポスト工業時代の性格と運命、科学と技術の役割などについての考察が、やがて確信へと固まっていったものに基づいているものなのです。それでもこうした理論には、語りかける聴衆の暗黙的な要求のために大きな制約を受けています。人々が要求するのは、そうした理論がもっともらしいものであること、すなわち特定の時代にごく理性的な人間がうけいれられるものであることです。信じられないことをうけいれるように要求をすることはできないのです。

ベトナム戦争の狂乱のうちのパニックのような終焉を目撃していた多くの人は、テレビで見たものを「信じられない」と考えたと思います。そして実際にこれは「信じられない」ものでした。希望または恐怖のもとで予想することのできないもの、運命の神がほほ笑むときに私たちが祝い、不幸が訪れるときにわたしたちが呪うのは、現実のこうした側面なのです。根深い原因についてのすべての思索は、現実の時代の衝撃からありうることだと思われ、合理的な人間が可能であると考えられることで説明できるものへと戻っていくのです。こうしたもっともらしさに異議を唱える人々、悪しき便りをもたらす人々、「事態をありのままに語る」ことにこだわる人々は決して歓迎されず、ときには許してもらえないものなのです。そしてみかけには、「深い」原因を隠すという性質があるとすると、こうした隠れた原因についての思索は、事態の真のありかた、事実のむき出しの残酷さを隠して、わたしたちに忘れさせるという性質があるのです。


ジェローム・コーン編 ハンナ・アレント「責任と判断」

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