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テルアヴィヴのシネマテーク
四方田犬彦
テルアヴィヴではずっとシネマテークに通っていました。
ロジャー・パルパース
そこでパレスチナ映画を観ることができますか。
四方田 できます。パレスチナ映画は、他にパリで見たり、西岸のラッマラー監督に直接会ったりしていました。あと一番よく行ったのは、スティーブン・スピルバーグ・ジュ―イッシュ・フィルム・アーカイブです。世界中の映画から、ユダヤ人のワンショットでも出ている映画をすべて集
「まったくの他者」と生きる
木田元
2002年ですね・・・。
竹内敏晴
ハイデガーは「待つしかない」と行った。ハンナ・アレンとはたしか「意志しない意志」というような形で取り上げています。日本であれを読んでもよく分からなかったという感じが残っていました。しかしこれまで主体性についてずっと考えてきたことに、そろそろ自分なりに決着をつけなくちゃならないという気分になってきています。
主体性の問題をことばでとらえていこうとすれば、
丸山真男と「なる」の思想
丸山真男と「なる」の思想
竹内敏晴
しかし今のお話は分かったけれど、それと日本とはどうかかわるのか。日本にヨーロッパと同じレベルで文明、文化の問題を受けとめている先端的な知識人の層がありますね。その人たちは、たとえばハイデガーやベケット、あるいはフーコーやデリダと問題を共有している。ところが日本に暮らす人々のいわば下半身はそういう問題意識と全然違うところにずぼっと入り込んでいる。私たちの生活その
ハイデガーの挫折と「転回」
ハイデガーの挫折
竹内敏晴
ぜひ伺いたいことがあります。ハイデガーは、もう待つよりしょうがない、意志的で理性的な努力はストップするんだということを言った。生成としての自然、フュシスに戻らなければならない。しかし生成の問題については、日本人はこれまでの歴史の中でいろいろ考えてきたのではないかというお話を前にされました。それは具体的などんなことをお考えにっていらっしゃるのか、伺いたいです。
木田元
「ある」ということが「なる」こととして
木田元
ハイデガーは、「ある」ということを「つくられてある」と見る存在了解は一体どういう生き方としている人間によっておこなわれるのか、これを明らかにしようとした。彼の考えでは、それは非本来的な生き方をしている、非時間制を生きている人間に違いない。過去はもうない。未来はまだない、だから、ただひたすら目の前にあるものとかかわりあう。あるのはこの現在だけという非本来的な時間性を生きている人間には、「ある