ネーブル・ヒロシ

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記事一覧

近代教育

「因習に隷属することをやめ、自分自身の頭でものを考えられるようになれ」――でスタートしたはずの近代教育は、因習に属令するばかりの愚かな前近代の民の間に、「学校」…

ノスタルジーと歴史

四方田犬彦 韓国映画や台湾映画が頑張っているのは、韓国人とは何かとか台湾人とは何かとか、そういうアイデンティティの問題に正面から向き合う映画を撮っているからです…

テルアヴィヴのシネマテーク

四方田犬彦 テルアヴィヴではずっとシネマテークに通っていました。 ロジャー・パルパース そこでパレスチナ映画を観ることができますか。 四方田 できます。パレスチナ…

昭和の本屋

考えてみれば、金龍堂書店というのは、ヘンなところに立っている。店の左の路地を行けば、まだ純粋な小学生達の通う笊座小学校である。右の一つ向こうの路地を行けば、笊座…

オバサンの男達

ところで、「男性ストリップに連れてけ」という趣旨のことを言ったのは、リョーイチの母親のミドリだった。言われたのは、息子のリョーイチだった。実の母が実の息子に「男…

大学進学競争

戦後という慌ただしい時代が終わって、昭和の三十年代の終わりの日本には、穏やかな安定した平和が戻って来た。そして再び獲得した前近代的予定調和の世界の中で、日本人は…

前近代系の人

前近代系の人の最大のネックは、背骨に叩き込まれたシツケだけで生きて行くことで、自分の頭でものを考えられないことだ。重要なのは、頭だけではなくて、背骨であり姿勢で…

「まったくの他者」と生きる

木田元 2002年ですね・・・。 竹内敏晴 ハイデガーは「待つしかない」と行った。ハンナ・アレンとはたしか「意志しない意志」というような形で取り上げています。日本…

丸山真男と「なる」の思想

丸山真男と「なる」の思想 竹内敏晴 しかし今のお話は分かったけれど、それと日本とはどうかかわるのか。日本にヨーロッパと同じレベルで文明、文化の問題を受けとめてい…

ハイデガーの挫折と「転回」

ハイデガーの挫折 竹内敏晴 ぜひ伺いたいことがあります。ハイデガーは、もう待つよりしょうがない、意志的で理性的な努力はストップするんだということを言った。生成と…

「ある」ということが「なる」こととして

木田元 ハイデガーは、「ある」ということを「つくられてある」と見る存在了解は一体どういう生き方としている人間によっておこなわれるのか、これを明らかにしようとした…

資本主義の曲り角

銀行あるいは金融機関が「曲り角に来ている」というのは、実のところとんでもない大変化である。これは、「資本主義が曲り角に来ている』ということでもあるのだから、ある…

ヨシミという女②

幸いに夫は元気だったので、世間の人がよく言う「欲求不満」の方は、そんなになかった。なにしろ夫のアキオは、主婦仲間片「あんたのところは理解があるわよねぇ」と言われ…

ヨシミという女①

三十を過ぎて結婚をしていて一字の母になっていて、夫は輸出で盛んに業績を上げている新興電機メーカーの出世の階段を上りかけている中間管理職のなりたてで、ヨシミはもう…

死刑廃止宣言

結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。人を殺す司法を望む人々は、二重の信念に動かされています。一つは、完全に有…

なぜなのか、な

第二百四十三段 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏…

近代教育

「因習に隷属することをやめ、自分自身の頭でものを考えられるようになれ」――でスタートしたはずの近代教育は、因習に属令するばかりの愚かな前近代の民の間に、「学校」という優位な砦を建築してしまって、「優れたことはすべて学校が教えてくれる」という迷信を、前近代から出ようとした民達の間に植えつけてしまったのである。その結果、近代教育というものは、「学校で教えてくれないことは何一つ知らないまんま」の人間達を

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ノスタルジーと歴史

四方田犬彦
韓国映画や台湾映画が頑張っているのは、韓国人とは何かとか台湾人とは何かとか、そういうアイデンティティの問題に正面から向き合う映画を撮っているからです。日本人はそんなことは考えない。日本人とな何かなんて考えなくて、とにかく安心できる映画をつくる。『ALWAYS三丁目の夕日』のようなノスタルジーです。日本人は今の日本を見たくないから、安易なノスタルジーに溶け込む。だから今の小津安二郎ブーム

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テルアヴィヴのシネマテーク

四方田犬彦
テルアヴィヴではずっとシネマテークに通っていました。

ロジャー・パルパース
そこでパレスチナ映画を観ることができますか。

四方田 できます。パレスチナ映画は、他にパリで見たり、西岸のラッマラー監督に直接会ったりしていました。あと一番よく行ったのは、スティーブン・スピルバーグ・ジュ―イッシュ・フィルム・アーカイブです。世界中の映画から、ユダヤ人のワンショットでも出ている映画をすべて集

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昭和の本屋

考えてみれば、金龍堂書店というのは、ヘンなところに立っている。店の左の路地を行けば、まだ純粋な小学生達の通う笊座小学校である。右の一つ向こうの路地を行けば、笊座からはみ出して来た、横切手街の「ソープ通り」のはずれである。学習参考書とアダルト物という、街の本屋を成り立たせる二大要素が、店の背後に控えているのである。学習参考書――略して「学参」は、昔から商売の柱としてあったが、今ではその他の柱がほとん

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オバサンの男達

ところで、「男性ストリップに連れてけ」という趣旨のことを言ったのは、リョーイチの母親のミドリだった。言われたのは、息子のリョーイチだった。実の母が実の息子に「男性ストリップが見たい」などという趣旨のことを言っていてよいのであろうか?その会話はこうだった。
母 男性ストリップいうのあるの?
息子 見たいんですか?
母 スミレさんが言うのよ。
その義妹 私がなに言うだの?
母 言うたやないのん、見たい

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大学進学競争

戦後という慌ただしい時代が終わって、昭和の三十年代の終わりの日本には、穏やかな安定した平和が戻って来た。そして再び獲得した前近代的予定調和の世界の中で、日本人はほんのちょっぴり欲を出した。「大学へ行けば出世が出来るんだそうな」と思った日本人達は、自分の子供を大学に入れようとした。親がそう思うその先に、「大学へ行けば四年間働かなくて楽が出来るんだ」と思った息子たちは、大学へ行く準備を勝手に始めていた

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前近代系の人

前近代系の人の最大のネックは、背骨に叩き込まれたシツケだけで生きて行くことで、自分の頭でものを考えられないことだ。重要なのは、頭だけではなくて、背骨であり姿勢であり、すべてを呑み込んで生きるためのもとでである身体なのだ。「どうしよう…」と思っても、現状を分析する能力もなければ知性もない。

「生きて行く」ということは、自分の体の中に自分の一切をつかさどる「思いこみ」という指令中枢を形成した上でのこ

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「まったくの他者」と生きる

木田元
2002年ですね・・・。

竹内敏晴
ハイデガーは「待つしかない」と行った。ハンナ・アレンとはたしか「意志しない意志」というような形で取り上げています。日本であれを読んでもよく分からなかったという感じが残っていました。しかしこれまで主体性についてずっと考えてきたことに、そろそろ自分なりに決着をつけなくちゃならないという気分になってきています。
主体性の問題をことばでとらえていこうとすれば、

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丸山真男と「なる」の思想

丸山真男と「なる」の思想

竹内敏晴
しかし今のお話は分かったけれど、それと日本とはどうかかわるのか。日本にヨーロッパと同じレベルで文明、文化の問題を受けとめている先端的な知識人の層がありますね。その人たちは、たとえばハイデガーやベケット、あるいはフーコーやデリダと問題を共有している。ところが日本に暮らす人々のいわば下半身はそういう問題意識と全然違うところにずぼっと入り込んでいる。私たちの生活その

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ハイデガーの挫折と「転回」

ハイデガーの挫折

竹内敏晴
ぜひ伺いたいことがあります。ハイデガーは、もう待つよりしょうがない、意志的で理性的な努力はストップするんだということを言った。生成としての自然、フュシスに戻らなければならない。しかし生成の問題については、日本人はこれまでの歴史の中でいろいろ考えてきたのではないかというお話を前にされました。それは具体的などんなことをお考えにっていらっしゃるのか、伺いたいです。

木田元

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「ある」ということが「なる」こととして

木田元
ハイデガーは、「ある」ということを「つくられてある」と見る存在了解は一体どういう生き方としている人間によっておこなわれるのか、これを明らかにしようとした。彼の考えでは、それは非本来的な生き方をしている、非時間制を生きている人間に違いない。過去はもうない。未来はまだない、だから、ただひたすら目の前にあるものとかかわりあう。あるのはこの現在だけという非本来的な時間性を生きている人間には、「ある

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資本主義の曲り角

銀行あるいは金融機関が「曲り角に来ている」というのは、実のところとんでもない大変化である。これは、「資本主義が曲り角に来ている』ということでもあるのだから、あるいは、ソ連をはじめとする社会主義国の崩壊に対して「勝った!勝った!」の大合唱をしている内に、もしかしたら資本主義は、曲り角を曲がってしまったかもしれない。

資本主義の根本は、当然のことながら、借金である。金の足りない事業家に金の余っている

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ヨシミという女②

幸いに夫は元気だったので、世間の人がよく言う「欲求不満」の方は、そんなになかった。なにしろ夫のアキオは、主婦仲間片「あんたのところは理解があるわよねぇ」と言われるような男だったのだから。

ヨシミはあきらかに欲求不満を抱えてはいたのだが、その欲求不満が世間の主婦たちの欲求不満とは些か質の違うものだったので、彼女はそれを「欲求不満」だとは思わなかった。

要は、彼女が「自分のことがよく分からない女」

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ヨシミという女①

三十を過ぎて結婚をしていて一字の母になっていて、夫は輸出で盛んに業績を上げている新興電機メーカーの出世の階段を上りかけている中間管理職のなりたてで、ヨシミはもう自分が“女”でなくともいいと、半分以上思いかけていた。若いときから自分が“女”であることは半分邪魔っけのような気がしていて、でも気がついたら自分は、もう“女”のやるべきことは一通り以上クリアーしてしまっていたのである。更年期が来て“女である

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死刑廃止宣言

結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。人を殺す司法を望む人々は、二重の信念に動かされています。一つは、完全に有罪の人間、つまり自分の行為に完全に責任のある人間が存在するという信念。もう一つは、こいつは生きてよい、こいつは死ななければならないと言いうるほどにその無過誤を確認した司法が存在する可能性があるという信念です。

私はこの歳になって、この二つ

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なぜなのか、な

第二百四十三段
八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか

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