昭和の本屋
考えてみれば、金龍堂書店というのは、ヘンなところに立っている。店の左の路地を行けば、まだ純粋な小学生達の通う笊座小学校である。右の一つ向こうの路地を行けば、笊座からはみ出して来た、横切手街の「ソープ通り」のはずれである。学習参考書とアダルト物という、街の本屋を成り立たせる二大要素が、店の背後に控えているのである。学習参考書――略して「学参」は、昔から商売の柱としてあったが、今ではその他の柱がほとんどロクな役回りを果たさない。本屋に来る客は、まるで駄菓子屋に来る客のように、千円以上の買物を清水の舞台から飛び降りるみたいに考えている。ところがアダルト物は、値段が違うのだ。どんな安いビデオだって千八百円はする。それでもそれを買う客は、「高い」とは言わない。売って嬉しいものではないが、売れれば嬉しくなるのもしかたがないと、背に肚は変えられないフツーの本屋は思う。ところが金流堂書店の親父は、「ついに売って嬉しいものが来た」と思った。「自分の扱う商品が自分で簡単に理解できるということは、こんなに心安くも嬉しいことなのか」と、善なる金龍堂書店のオヤジは思った。
しかしその妻は、当然そう思わなかった。そのシュートメは、「目が遠い」ということをいい口実にして、もう商品をろくに見なくなっていた。老眼鏡をかけて、ビデオのパッケージの裏に書いてる値段を見て、「へー」と言って、それっきりだった。ヒロミの母親のマツコにとって、「この頃の若い人は、平気で高いものを買いよるな」と、ただそれだけだった。「肝心の本屋が自分とこで売っとうもんの値段にびっくりしとうけん、店かてはやりよらんのや」と、そう思えばエラソーな経営者面してしまえる金龍堂書店のツルリ・ヒロミなのであった。
金龍堂書店の「アダルトコーナー」は、店の右奥――レジの横にある、店の中央には、店内を左右に仕切るようにして高い文庫の棚が置いてあって、その左側には小中高校生用の学参と、子供向きの漫画と読み物の単行本が置いてある。右側の棚は大人向きの文芸書や実用本である。回転の早い週刊詩は、店の外の台においてある。その他の雑誌類は、単行本の棚の前の平台に一列に並べておいてある。お子様向きの雑誌と主婦や家庭向きの雑誌は、店の左側の棚の前である。それ以外の雑誌は、みんな右側に持って行った。「アダルトコーナー」設置をきっかけにして、それまでゴチャゴチャしていた店のレイアウトは、店主によってそのように一新されたのである。
「そげんもん置いて、小学校の先生から文句来よったらどうしようるの」と、小学校相手にかろうじて知性と教養を成り立たせて妻のヤスヨは言ったが、学校の教師というものを生まれてから一度も恐れたことのない夫のヒロミは、へでもなかった。こわいのはただ、「自分じゃやってるくせに、人のやっていることには文句を言う、そこらのババ―」だけだっただからである。そこで金龍堂書店は、かつて東西を仕切っていたベルリンの壁のように、中央に高い文庫の台を新たに設置して、「文句を言いたいババ―をその付属物であるガキ」は棚の左側へ、「文句を言いたくない成人男子」は右側へ入ればすむようにしてしまったのである。だから、出産育児関係の雑誌は、「アダルトコーナー」とは切り離された店の左側においてある。性と生殖は別で、男は“事前”にだけ関心があって、“事後”には関心がなかったからである。
「大体、本読む男なんかスケベに決まっとう」というのが、長年の経験から割り出されたツルリ・ヒロミの判断である。「ただスケベだけや恥ずかしいから、言い訳に本を読みおろうさ」というのが、ツルリ・ヒロミの判断である。大体普通はあんまり使われない「濡」だの「蠢」だの「悶」だの「疼」だの「聖」だのという感じの氾濫するアダルトビデオの背中は、意味もなく漢字の多い文芸書の棚とマッチするのである。ただ。同じ文芸書でも、女流作家の書いたものは、よほどスケベなものでもなかったら男は買わないから、そういうものはみんな、店の左側に追いやられたのでしまったのである。おかげで、本当だったら「店の中央」にあるべきはずの文庫の棚が、中欧からやや右よりになってしまったのはしょうがない。商売になることを考えたら、女子子供向けの本や雑誌の方が数は多くなってしまうからである。
北に面した店の左側は東で、右側は西側だ。ということは、女子子供の世界にはあまり午後の日が当たらないということである。だから、「その代わりこちらを広くしました。暗くないでしょう?読みやすいでしょう?」というのが、まさか本気でそんなことを考えているはずがない金龍堂書店の親父、ツルリ・ヒロミのインテリア・プランだったのである。
そこまではよかった。しかし、そうそう現実はオヤジ達の望むようには出来ていないのである。そのように出来ていたら、ツルリ・ヒロミだって「ああだ、こうだ」のインテリア設計に頭を悩ませる必要なんかなかったのである。
問題は、立ち読みが当たり前の本屋に並べられているくせに、「アダルトコーナー」のビデオは、中を見ることが出来ないことである。ビニールやらなんやらで、全面をパッケージして覆ってある。「ダビング禁止」を宣言するためのものか、そのビニールにくるまれた中の箱には封緘用のシールが貼ってあるものさえある。ツルリ・ヒロミには、それがくやしくてならない。なんで店の商品を手に取って、その「中身」を点検することが出来ないのか?自分の店で売っているものがどんなものか知らずに正しい商いが出来るのであろうか?本なんか読もうともしなかったツルリ・ヒロミは、またしてもここでオノレの罪業の深さに悩まされるのであったが、しかし、たとえそれを開けて取り出すことが出来たとしても、ツルリ・ヒロミには、それを一人で見ることが出来ない理由もあったのである。
家には高校三年生の娘を中学一年生の息子がいる。妻もいれば、ババーになった母もいる。狭くなった家の中にビデオはあるが、それがあるのはなんと、二階の娘の部屋の中なのである。いくらなんでも、十七歳の娘の留守中に部屋の中に入って、一人でエロビデオを見てるわけにはいかない。おまけに、十七歳の娘が部屋を空けるのは昼間ばかりなのである。どういうわけだが、今時の子供は平気で夜遅くまで起きている。中一の息子と高三の娘は、レンタルビデオ屋から借りて来たホラー映画のビデオを二人で夜遅くまで見ていることがあるが、いくらなんでもそこに、「お父さんもまぜてくれよ」と言って商売物のエロビデオを持ち込むことは出来ない。
初めそのビデオデッキは、一階の店の奥の食堂兼居間券夫婦の寝室になっているところに置いてある大型テレビの下にあったのである。ところが、一家団欒でテレビを見ているときには、一人だけ別に録画しといたものを見ることができない。テレビはもう一台、大型テレビを買った時、古くなったのが娘の部屋に置いてある。
「そやかてお父さん、野球見とって、あたしらに裏番組録画させてくれても、ここで見ることができへんもん!」と、娘のカホルは言い放った。「そや!」と、息子のケンジも味方した。
一番高価で新型の電気製品は一家の長の部屋にあるのに決まっているはずなのに、そうなってしまったビデオデッキが、そうなったがために一向に活用されていないというのである。「なァ、お母さんかてビデオ見とう思うやろ?」と、娘は母親まで味方に引き入れようとした。「ビデオ屋にはなんでもあるのよ。『ローマの休日』かて『風と共に去りぬ』かて」と、娘は、大型テレビの画面で野球中継と時代劇ばかりを見ようとして、一家から文化的色彩を奪い取ろうとする父親の姿勢を非難する色を見せた。
「そんならどうないせい言うんじゃ!」
父親は言ったが、娘と息子はそれには答えず、搦手から兵を繰り出した。
「だってなァ?」
母のカホルは弟のケンジに言う。
「うん」
息子はボサーッと突っ立ったまんま、嬉しそうに答える。
娘のカオルは、最後の切り札を出すようにして、こう言った――。
「お父さん、タイマー予約も出来んしな」
弟も言う。
「ボクが“取っといて”言うたの、ねーちゃんに言うの忘れたやろ」
「あたしがいつでも予約するんよ。人の予約ばっかりして、お父ちゃんらはそれを見とくからそれをエエかもしれんけど、あたしら、自分の予約したモン、なんも見よれんもんな」
弟は嬉しそうに拍手をした。
結局、「予約は娘のカオルの仕事である。大きなテレビは父親の独占物である。小さなテレビでも録画は出来る。父親は母親が娘に録画させたものは、娘の留守中にその部屋に入って見ればよい」という子供側の要求が通って、一家に一台しかないビデオデッキは、娘の部屋に持って行かれたのである、もちろん、ビデオを持って行ったその後で、娘が、「なんであたしの部屋に入りよる!」と怒鳴ったのは言うまでもない。
哀れなツルリ・ヒロミは、それがいかなる内容の物かも知らぬまま、自分の店の「アダルトコーナーに置いてある品を売るしかなかったのである。「宝の山に入りながら、手を空しゅうして帰るのか・・・」とはこのことである。
「アダルトコーナー」のビデオは、高額商品であることのほかに、万引きに遭いやすい理由のある商品である。「堂々と買いにくい」「18歳未満には売ってもらえない」の、その二点である。悪に心をひかれる年ごろで、恥ずかしがり屋で、性欲が旺盛で、自分の逃げ足と悪企みに自信があったら、さっさとこれを持って行ってしまう――だからこそ、レジの横に置いて、わざわざ監視しているのである。妻のヤスヨは知らん顔して天板をしているが、性善なるツルリ・ヒロミは宝の山の空しい番人である。
妻のヤスヨは、店番をしている時には学校帰りの中学生や高校生の男の子が店に入ってくると、すぐに臨戦態勢を取る。近所の奥さんと世間話をしていても、男の子達がそこへ寄ってこようとすると、その直前に「ちょっと!」と言う。ビクッとした子供が振り返ると、「そこ、子供はだめ」と言って、世間話の続きに入る。当然視線はチラリチラリと、レジから向かって左側の「アダルトコーナー」に走る。店番のカミさんがそんなことをする以前に、「ちょっと!」からの段階で「何が起こったか?」と思っている話し相手の近所の奥さんも、「いかがわしい痴漢予備軍とはこれか?」という目で、しげしげと監視をしてくれる。それが高校生じゃなくて大学や浪人やその他であっても、若い男がこっちに来たとなると、妻のヤスヨの顔はこわくなる。だから、近所の性欲旺盛なる青少年達は、「あのオバサンが店にいるときはやめた方がいいぞ」とささやき合ったり、一人でうなずいたりしている。
「本屋でそのテの物を買う時には、ぼけたバーさんが一人で店番をしている時を狙え」というのが鉄則だが、金流堂書店にはバーコードの読み取り機なんぞというものはなかった。エロ雑誌やそのテの単行本を買う時には、本の中に入っている取り次ぎに送るためのスリットを抜き取ればいいのだが、完全パッケージのビデオには、そんなものがついていない。だから追加注文とかそういうもののために、ビデオに関しては「売れたものの名前を書いとけ」という指令が、店主であるヒロミの方から出ていて、レジの机の中には、その題名を書くためのノートもあるのである。だから、昔気質(かたぎ)の商人(あきんど)の妻であるヒロミの母親は、勘定の前に「ちょっと待ってな」と言って、そのノートを取り出すのである。そして、老眼鏡をかけて裸のネーちゃんがすごいカッコをしているパッケージをためつすがめつして、タイトルを探すのである。「そんなもん、背中に書いてあるから、そこ見りゃいいじゃないか」というのは、短慮に走る若いもんのセリフで、金龍堂のバーさんはそうやって、やりたい盛りの青少年をおちょくっているのである。
初めはおちょくっといて、そのうちに本気になるのである。「エーと、これは、『ユリコは――』なんじゃろね、この後は?}と、やたら難しい漢字だと「早くしろよ、このクソババ―」と思っている青少年に対して訊くのである。訊かれても平気で答えられる青少年はそうそういないので、バーさんは老眼鏡の奥で、「読みがな」を探すのである。
「あ、“かゆい”か。読みがなついとった」と言って、「エーと」からやり直すのである。「『ユリコは、痒くてたまらない』と――」と、しっかり声を出してから、ボールペンで書くのである。たとえそこへ他の客が入って来ても、「商品は商品」と思っている昔気質の商人の妻は平気なのである。
だから、「あのバーさんのいる時もやめといた方がいい」というささやきやうなずきやらが、近所の青少年の間で起こるのである。初めはおちょくる気なのだが、そのうち本気で字が読めなくなってしまうから、当人はそのことによって、前半の「おちょくっていた」を忘れてしまうのである。災難は、満たされない性欲に泣く若者である。
そしてそこに、救世主のようにして登場するのが悲しき宝の山の番人、金龍堂書店に「アダルトコーナー」に設置して売り上げ増を狙った、我らの主(あるじ)ツルリ・ヒロミなのである。
さすがに自分の息子が中学生だから、中学生には絶対に売らない。しかし、高校生ももう十八に近づいていると思ったら、このオジサンは心やさしく売ってあげるのである。そこのところが、「18歳未満の方はご遠慮ください」とだけ書いて、「禁止」とも「売らない」とも書かなかった。買い手の自主性を尊重するツルリ・ヒロミの仏心なのである。
学校帰りの高校生が黙って雑誌を見ていて、それからなにげなさそうな顔で「文芸書」のコーナーに近づいてくると、その本屋のオヤジは、「そら来た」と思うのである。
その若者が、「文芸書」の棚に向けていた体をちょっとばかり左に向けて、そこで視線を上げようとすると、そこのオヤジは、タイミングよく「アンちゃん」と言うのである。
ギョッとした若者に向かって、その本屋のオヤジは、ニコッと笑いながら、「高校生やろ?」というのである。ヘビに魅入られたカエルのように、その十八歳未満の少年がコクッとうなずくと、その本屋のオヤジは、「ホントは売ったらいかんのやけど、売ったるけん」というのである。もちろん、デリケートな少年の心をおもんばかって、他に客の姿がないことを見届けてのことである。奥にはうるさいことを言うカミサンもいるので、ちょっとばかり声を落として言うのである。
「ホンマ?」というのと、黙ってうつむいてしまうのと、半分半分である。黙ってうつむいて知らん顔して出て行ってしまうこぞぅが、そのまんま二度と来ないのかと言ったらそんなことはなくて、汗ばむ手を握りしめて、ちゃんと後日ご来店に及ぶのである。
ツルリ・ヒロミのこの言い方は、「デリケートな年頃の子ォにいらん禁止をして万引させるよりも、ちゃんとと客にして売った方が店の被害は少ない」というのである。レンタルビデオ屋で身分証の提示を求められて会員証を作らされてしまった高校生は、それゆえにアダルトビデオを借り出すことが出来ない。ツルリ・ヒロミは、非情な社会の掟に泣く未成年の高校生達から、神のようにあがめられていたのであった。「あのオヤジがいる時に行けば大丈夫だ」と。
ツルリ・ヒロミは、デリケートな客の心情を察知して、客が「アダルトコーナー」の前に立っている時は、決してしげしげと見ない。お客様がお買い上げになる時でも、決して題名を読み上げて手間取らせることをしない。客とおんなじ無表情をして、お客様にバツの言悪い思いをさせない。「すべての商品は商品であることに於いて等価である」というポリシーにのっとって、すべてが円滑かつ人間的な処理をなされるのである。だから、「あのオヤジの時は大丈夫だ」なのである。
しかしここで、いささかなる疑問をお持ちの読者もおいでであろう。「本屋のビデオの品揃えがどんなにいいとも思えない。それに、そこは、“笊座”と言う繁華街をバックにしていて、“ソープ通り”というところも近くにあるというのだから、なにもそんな本屋に行かなくても、きちんとした品揃えのアダルトグラフィックの店はあるのではないか?」と。
まことにその通りなのである。しかし、すべての青少年に、果してその通りの割り切り方が出来るものであろうか?性欲というものは、その年頃において、突然身内から湧き出してしまうようなものなのである。「セックスとは日常と隔絶したところにあるものだ」と言っても、そのセックスへの扉は、日常と地続きのところにあるのである。学校を終えて、電車なりバスに乗って帰ってくる高校生が、おとなしく電車なりバスを降りて、なんにも考えずにスタスタと三百六十五日変わらぬ我が家へ帰って来るであろうか?その途中で、なんかモヤモヤした物を感じて、「なんかいいことってないかな…」と思わないであろうか?既にして、そういう青少年の胸中のモヤモヤを吸いこんで憧れに変えたイシハラ・ユージローもスティーブ・マックイーンも、更には吉永小百合さえも、あの胸ときめかせ笊座のメインストリートの大看板から姿を消し去っていたのである。
憧れというものは、常に日常とは地続きのところにある。性慾のモヤモヤも、おとなしく日常の道を歩いている青少年の肉体の中に、当たり前のようにして湧き上がるものなのである。わざわざ「スケベ」と表明しているようなところへ足を踏み入れるのと同じである。己が身体に宿った肉欲を天然自然のものと位置づけたい年頃の男共は、それだからこそ、「異次元」へではなく、日常の通い路の途中にある、誰でも平気で足を踏み入れる本屋のなかへ入り込むのである。
「なんかいいことってないかなァ…」と思って、ソープやアダルトグラフィックの店へ行くやつはいない。「なんもいいことないから一発抜こう」と思って行くのである。
「なんかいいことってないかなァ…」という純な思いだけが、本屋の一角に「アダルトコーナー」を出現させ、少年に、「優秀な女子の同級生と話をしてみたい」という中途半端な欲求を起こさせるのである。
それが日常と地続きでないものだからこそ、男達は割り切れぬ思いを抱えて、オタオタとするのである。それが日常と地続きになってしまえば、何事も「事もなしのアッケラカン」で、オバサンは男性ストリップに行くのである。
橋本治「人工島戦記」p528
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