「まったくの他者」と生きる

木田元
2002年ですね・・・。

竹内敏晴
ハイデガーは「待つしかない」と行った。ハンナ・アレンとはたしか「意志しない意志」というような形で取り上げています。日本であれを読んでもよく分からなかったという感じが残っていました。しかしこれまで主体性についてずっと考えてきたことに、そろそろ自分なりに決着をつけなくちゃならないという気分になってきています。
主体性の問題をことばでとらえていこうとすれば、どうしてもヨーロッパの理性や意志という思考の方向に行く。しかしその限界をハイデガーが教えてくれたんだとすると、いったい自分はどういう方向を向いたらいいのか、大雑把にいうと、そんな思いを持ったわけです。『ゴドーを待ちながら』にしても、ハイデガーやメルロ=ポンティの思想にしても、ヨーロッパの知性の歴史においては非常に意味のあるものだろう。我々にとっても、もちろんある面では意味がある。しかしそれは上半身のレベルであって、下半身にとってはいったいどんな意味があるのか。ヨーロッパ哲学ではこう言っていたからと安心して、ホイホイ受け入れるわけにはいかない。そういう感じが、お話を伺いながらずいぶんはっきりしてきました。ヨーロッパの知性は、かならずある普遍性を求めます。待つこと自体も普遍性として考えている。

木田 普遍性志向はきわめて強いです。普遍性を求めるという特殊性なのかもしれませんが・・・。

竹内 一遍に話が飛びますが、たとえばいまの日本の状況もそうだが、アメリカのテロ対策や特にパレスチナ情勢などを見ていると、普遍性の要求がいかに暴力的になりうるかということが、現実に目の前に突きつけられている感じがします。ハイデガーは、そういう意味での普遍性を求める力の方向ではダメだと言っているんだと思う。
ヨーロッパの普遍性志向は植民地に結実する。それに対抗するために別の普遍性の理念を掲げたのが「大東亜戦争」だといわる訳でしょう。普遍性の否定、正しさの押しつけを拒否していくことが、いまぶつかっている問題じゃないか。しかし拒否することの普遍妥当性を肯定したらまたワナにはまる。
そこで何が出てくるかというと、どうにもしょうがない。ただしぶとく生きつづけるということしか私には出てこない。見田宗介さんと対談したときに彼が教えてくれたんですが、宮沢賢治が「まことのことばが欲しい」ということをずっと言っていたと。そのとき、私がずっと欲しいと求めてきたものは何だろうと考えた。ふと出てきたのが、「殺されてたまるか」ということばでした。戦争への反撥が出発点ですが、いま、無意識であっても、生きようとする自分のからだがなんとも息苦しい、これは自分を殺しにかかってくるものだと感じたら、絶対にそれをはねつけるというかたちでしか私は生きてこなかった。しぶとく生きることの中には、自分の方から向こうに押していくだけではなくて、自分は行為しない、止まっているけれども引かないということもふくまれています。たとえばパレスチナも同じですが、いま選ぶとしたらたぶんその道しかないだろうという感じがします。向こうは向こうの正しさがあり、こっちはこっちの正しさがある。こっちの正しさと向こうの正しさがぶつかってしまったら何も成り立たないで、どちらかが滅びるより仕方がない。そういうところで、両方が自分の正しさをぜんぶ括弧に入れてしまって、どうやったらしぶとく生き延びきれるか、あるいはしぶとく生きることと向かい合っていられるかを、その場その場で具体的に考えていく。こういう探り合い方しかないんじゃないか。これが本来の普遍性を探し求める方向ではないか、普遍性は押しつけるものでなく、共同して探るものだろう。
日本の内部に戻りますが、私なんか戦後、この国土に住んでいる人たちのために日本政府がよいものであればいいなという考え方をしてきた、しかしいまの文部科学省の教育行政は、日本の国家がもっと発展していくために国民を操作しようという方向です、明治以来の伝統だ。そういうものに対してノーと言う。しかしノーと言ったあとでどう行動するのか。行動してまたぶつかりあってケンカすることでどっちが勝つかというようなかたちではなくて、そのことによって侵されないものを自分のからだにおいて明確にしていく。相手との間で、ここまではできるけれどここから先は譲れないという線を確実にしていく。
相手も同じ人間同士だからわかりあえるという考え方が、戦後ずっとあった。しかし障害を持った人間からいうと、それは半分の真理でしかない。もちろんそれに頼らないと生きてゆけない部分はあるけれど、「まったくの他者」、まったく通じ合えない相手のことを頭の片隅に置いておかないと生きてゆけない。それだけがいま考えられることで、そのためには普遍というものを一度括弧に入れてしまって、とにかくしぶとく生きてゆく。生きてゆくためにこれだけは絶対にいるという条件を「まったくの他者」との間に打ち立ててゆく。それしかできない。そうすると、もう主体性の根拠なんて言っていられない。いまどう生き延びるかということに対して、エクスキューズとしての自分の身を投げかけ、無根拠の中でうごいていくしかない。あとから意味を意識が発見してゆく。これは芸術創造のプロセスだと思えばニーチェの言う性の最高の形態ということになりますが・・・。
きょうはうまく考えられないことをズケズケ言っているので大雑把な言い方になるんですが、木田先生とお話するなかでそういうことを考えてきました。

木田 竹内さんのおっしゃることとうまく結びつくかどうかわかりませんが、僕はもう、人間がもっと便利に暮らそう、豊かに暮らそうという欲望を断念する以外に、人類の生き残る道はないのではないかと思っています。
いま人間は、自分たちが経済をコントロールし、技術をコントロールして、より便利で豊かな社会を作りつつあるなんて思っているみたいですが、僕にはとてもそうは思えない。むしろ資本や技術が自己運動を起こして、人間はそれに巻きこまれ、こき使われているだけじゃないかと思う。いまたとえば自分が資本の運動をコントロールしているという自信を持てるような資本家や、経済官僚や、実業家や金融関係者が一人でもいるものでしょうか。資本そのものが無気味な自己増殖の運動を起こし、人間はそれに奉仕させられ、駆使されているだけだと思います。
技術にしても同じことで、技術そのものが一種の自己分化、自己増殖、自己超克の運動を起こし、技術者なんて、それに奉仕させられているだけではないでしょうか。理工学部の連中からこんな話を聞いたことがあります。コンピュータ関係の技術者なんて、大学を卒業してから技術者として生きていけるのは十年足らずだというんですね。技術の進展のスピードが速くて、すぐついていけなくなる。もっと新しい高度の技術を習得した卒業生が次から次に送り出されて来る。あとは管理職になるか、その能力のない者は窓際族になるしかない。次の世代だって同じことらしい。技術者が技術を駆使するとかコントロールするなんてとても言えたものじゃない。技術がいわば自己展開するのに奉仕して、あとは使い捨てられるだけだということです。そして、その技術の自己運動の結果、産業廃棄物の山ができ、次々に災害が発生し、地球の温暖化が進み、核戦争の危機が高まる。それをコントロールしようとか止めようとかしたって、誰にもそんなことはできない。
そうした資本や技術の自己運動を養ってきたのが、もっと便利に暮らしたい、豊かに暮らしたいという人間の欲望ということになるかもしれません。いや、それはもっと前の話で、今ではその欲望だって資本や技術の運動によってつくり出されているのかもしれない。だとすれば、もうどうしようもないことになるけれど、せめてそうした欲望を断念するくらいのことしかできないような気がします。飛行機をこれ以上速く飛ばしたり、リニア・モーター・カーなんてものを走らせて、これ以上速く日本の中を移動したりしなくたっていいじゃないかと、僕なんか思うんですが。でも誰しもが速くなり、便利になり、豊かになることはいいことだと無条件に思っている。僕には、人類が自滅の道を突っ走っているようにしか思えません。
いまとなっては手遅れだと思いますが、ハイデガーがもう一度自然との自然な関係を回復するしかない、それも意図的になんとかしようとしてもどうにもならないので、そうなるのを待つしかない、というのもわかるような気がします。もし幸運にもそういうときがくるとして、それまでなんとかしぶとく生き残る、ということならよくわかります。まあ、どっちみちわれわれはそこまで見とどけることはできないし、見とどけないですむわけですが。

竹内 おっしゃっていることは、実は哲学の王道ではありませんか?プラトンの「ポリテイア」に魂の三部分の説がありますね。金銭その他の欲望の部分、名誉と勝利を目指す部分、そして理性、学ぶことをする部分――ただしこれに二部分あって、最上は皆を愛する=フィロ・ソフィア=哲学によってまことの善を求める、がもう一つは計算し計画する理性。木田さんの語られる現代は、欲望のヒュドラ(七頭蛇)がライオンにまたがって技術の理性をかかえこみ、のさばり返って歩いている姿ですね。愛智=哲学は隅っこに押しつけられて影も見えぬみたいだが、実はこれのみが神的な光を宿して他の部分の不幸を知り、それをコントロールする役目を持つ――それを思い出しました。
私は無明を抱えて、なんとか愛知の道を学ぼうと務めるにすぎない者なので、「しぶとく生きる」という言い方しか見つかりませんが、これは「待つこと」でもあろうかとは思っています。「待つ」とは何もせず坐っていることでなくて、仕掛けよう支配しようとすることを絶つこと、生起してくるものへ向かって身を謙虚に保ちつづけることだろう、と。
仮面のレッスンに「火になって燃える」という課題があります。表情のない面を着け床に横たわって、ただ心と集中を深めてゆくと、突然からだの内から波うつ火が噴き上げて来る。この「来るものを待つ」のには自分を澄んだ一点に、と言ってもよいし、ただカラッポになって、ということもできる。自分を追い詰め続ける正確さが要ります。エネルギーを使い果たすような、この身を澄ます努力が「待つ」ということだろうと思う。

さいごにのこるもの

竹内 しぶとく生きるという覚悟の上に、これまでからだのことをやってきました。それはからだが本当に生きるということ、からだがある指向性を明確に持つということを狙ったのですが、本音の底ではずっと「精神」というものが欲しかった。精神といっても、意識などをふくめたいわゆる心のはたらきのことではない。自分を生き、自分を否定し、自分を越えていく思考の方向を掘り起こそうと手探りしていくはたらきといったら近いでしょうか。その精神を、生活することと切り離された超越的見地に立つことではなく考えたい。「なる」には自己否定の契機がない。日本の精神史のなかで、外来の原理でなく、内から自己否定の契機を芽生えさせていったことがどれだけあるのだろうか、と思うんです。エクスターズとして行動に身を投げかけ行動を選んで動いていくからだそのものが、どういう言葉を生み、そういう方向を生み、自己否定さえ生んでいくか、もう一つ先を探っていくことだけに力を尽くしていくしかないと感じています。
ある意味で、主体性という確固たるものが自分のからだになければ安心できないという思いを捨てるべきではないか。もし真に主体性というものが日本人に可能だとしたら、固定した、理性的普遍性に対応するようなきちんとしたものではない。なにか別のかたち――フュシスに気づきつつそれに造形してゆくような――になるだろうと、いま思いはじめています。

木田 おっしゃること、何となくわかるような気がします。普遍性志向も妙なことになってしまうし、主体性を持ち出すと、これまた人を傷つけるだけのことになってしまいそうな感じです。

竹内 そうなんです。前にちらっと言いましたが、非常に不思議に思うのは、アメリカ合衆国政府が神のことをしきりに口にする。ブッシュ大統領が中国に行って、アメリカ人の80%は神を信じているといったでしょう。しかしキリストのことはひとことも出てこない。どうしたんだと、どうしても突っ込みたくなります。キリストのことを思えば、愛の問題が出てくるはずだと思うのに、その影すらない。近代的な思考が確立したときに、愛は出てこなくなるんじゃないか、と。

木田 自我の思考では・・・。

竹内 愛の問題は出てこなくなる。一つの底流する気分として、しなきゃいけない何かとして観念はあるのだろうけれど、正義が犯されたことに対する復讐だとわきたっているアメリカの現実を見ていると、隣人愛についての思考は死んだとしか思えない。

木田 だからですか、近ごろアメリカはキリスト教じゃなくてユダヤ教の国だっていう人がいます。

竹内 そういうふうに言うんですか。私も最近、そう感じます。十字架以前だ、と。

木田 キリストは本当に自分が十字架にかけられましたからね。

竹内 十字架なんて影も形もないという感じです。

木田 神はいても、愛はない。

竹内 そういう意味で、十字架の問題を真剣にかんがえる思想かなり宗教家が出てくる時期ではないかと思うんですが、その気配がない。 

木田 そうですね。

竹内 バチカン自身がよろよろしていますものね。

木田 バチカンは第二次大戦中、ナチズムに対してさえ抵抗できなかったくらいですから。

竹内 こんなときに、どうしてキリスト教が明確に発言しないんだろうか。私はキリスト者に対していささかガッカリしているんです。天皇制の問題を考えたときに、天皇制に対して一番抵抗力を持ちうるのはキリスト者だろうと思ったから、私は何遍かキリスト者に対する期待を書いたことがあるんです。仏教はどうも信用ならない、キリスト者ががんばってくれなきゃ困るといったことがあるんだけれど、いまの状況を見ていると、もう全然あかん。

木田 本当にキリスト教を旗印に掲げるんだったら、十字架にかけられたキリストをもっと問題にしていいはずですがね。

竹内 いまこそ、そうだと思うんですけれど・・・。

木田 そんな気配まったくない。

竹内 ガッカリきてます。

木田元・竹内敏晴「待つしかない、か。: 身体と哲学をめぐって」

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