「ある」ということが「なる」こととして

木田元
ハイデガーは、「ある」ということを「つくられてある」と見る存在了解は一体どういう生き方としている人間によっておこなわれるのか、これを明らかにしようとした。彼の考えでは、それは非本来的な生き方をしている、非時間制を生きている人間に違いない。過去はもうない。未来はまだない、だから、ただひたすら目の前にあるものとかかわりあう。あるのはこの現在だけという非本来的な時間性を生きている人間には、「ある」ということが「つくられて、現に目の前にある」というふうに受け取られる。ところが、もしも人間がハイデガーのいう非本来的な生き方から脱して本来的な生き方をするようになれば、つまり本来的な形で自分を時間化すれば、もっと違った存在了解が可能になるんじゃないか。そういう話のすじで、非本来的な時間制に対して、本来的な時間制という概念を持ち出してきます。

つねに自分自身の究極の可能性である死へ先駆し、過去をも「すでに過ぎ去ったこと」として捨てるのではなくつねに生き直し、それに新しい意味を与えなおすような形で過去を生きる。そして現在を直視し、瞬間として生きるような生き方、時間化の仕方もある。こういう本来的時間性を生きている人間にとっては、「ある」ということは、違ったふうに見えてくる。どういうふうに見えるかというと、「ある」ということが「なる」こととして見えてくる。もし人間が西洋文明をずっと支えてきた非本来的なあり方を捨てて本来的な生き方に立ち戻れば、存在了解も変わってくるし、存在者全体の意味も違ったものになってくる。ここで文化の大転換が可能になると、ハイデガーは考えたんです。

ただし、一人や二人の人間が生き方を変えたからといって、どうなるものでもない。しかし、もし一つの民族が、それを世界史を領導するような生き方に転換したら、ひょっとすると事態が変わってくるかもしれない。ハイデガーが当初考えていたのは、二十世紀初頭以来次第に高まりを見せてきた「ドイツ青年運動」です。ハイデガー自身この運動にコミットしていました。この運動は、1913年にホーエーマイスナーで行われた大集会でピークに達したものの、第一次世界大戦の開戦でぽしゃってしまいます。あんな形で民族の浄化が果たされれば、文化形成の方向をシフトできるのではないかとハイデガーは考えたのでしょうが、これは現実性に欠けることになってしまったので、次善の策として選んだのがナチスだったのではないでしょうか。しかしとにかく人間が生き方を変えることによって文化形成の方向を変えることができるかもしれないとまでは、「存在と時間」で考えていたようなんです。

木田元・竹内敏晴「待つしかない、か。: 身体と哲学をめぐって」

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