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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(6)

これは、400年前の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の仕掛けた謎を追って、美の迷宮をさまよう美術史ミステリーです。2019年に書いたものなので、新型コロナウイルスやウクライナ侵攻のない世界が舞台になっています。言うまでもなく、これはフィクションなので実在する人物、団体とはいっさい関係ないのですが、もはやパラレルワールドものとして楽しんでいただくのもアリです(転生はしませんが)。

第1章 運命の寓意

ワルシャワ国立美術館 2

 テーブルはエミリアだけを狙ったかのように周囲の測定器をたくみに避け、床のケーブルを乗り越え、正確に彼女に向かっていった。そして定められた運命に従って彼女の背中に激突し、倒れこそしなかったものの、その場でバウンドして上に載っていた光度計を振り落としてやっと止まった。その衝撃で光度計はめちゃめちゃになり、エミリアは悲鳴をあげ、無惨に床に這いつくばってしまった。測定班のスタッフも含め、その場にいた全員が声もあげられずに立ちすくんでいると、倒れたエミリアは無言でゆっくり身を起こした。彼女はたまたま床に落ちていた大きなハサミを持ったまま、無言でまっすぐサー・ジェフリーに近づいてくる。ヴァーツラフはその姿に恐怖を覚えたが、全員金縛りにでもあったようにその場から動けず、一言も声を出せないようだ。ついにエミリアがサー・ジェフリーの真ん前にハサミを持って立ち止まると、老大家はようやく声をかけた。
「な、なあ、エミリア、わしは…」
  彼女は無言のままサー・ジェフリーのネクタイを引っ張るとそのままハサミでジョキジョキと切り落としてしまった。サー・ジェフリーは最初、何が起こったのかよくわからなかったようで、呆然とその場に突っ立っていたが、次第に顔色がどす黒くなって体中がプルプル震えだした。エミリアからハサミを奪い取ると、息をつめて自分の胸を見下ろした。
「キサマ、何をしとるんだ!」
「あなたこそ、ご自分が何をしでかしたかわかってるんですか!」エミリアは後ろの壊れた光度計を指し示した。「故意にやったんですね。去年の仕返しですか。蛇のように執念深いんですね。復讐のつもりですかっ」
「なんだと?このわしが!そんな卑怯なことをするはずが、」
「現に」彼女は痛む腰をさすってみせた。「こうして被害が出ているんですから。それともあなたは、誰も触っていないのにあのテーブルが勝手に私に向かって突進したとでもおっしゃるつもりですか、サー・ジェフリー」
「な、なんと!そうは言っとらんぞ」
「ではやはり故意だったんですね」
「そうじゃない!」サー・ジェフリーはただでさえ怖い顔を真っ赤にして両手を振り回した。
「わしはな、あんたに対しては小指一本上げとらんのだ。わしがそんな卑劣で腰抜けめいたことをすると思っとるのか」
「ええ、以前からずっとそう思ってましたよ」
「なんたることだ。いったいわしが何をしたと言うんだ」
「それじゃあ、教えてさしあげます。あなたは前々から理不尽な嫉妬心を私に抱いていて」
「ちょっと待った。わしは君のやっとることは感心しないが、嫉妬などこれっぽっちもしておらんぞ」
「要するに私が邪魔だったことは認めるんですね。チャンスがあったら痛めつけてやろうと常日頃から狙ってたんです。そして今日私は、ああ、自分で自分が情けない!そう、無防備にもこのハイエナに背中を向けて立っていたんです。さっき、ひょっとしたらこの人は根は善良なのかもしれない、などと一瞬でも考えた私がバカでした」
「だから、これは事故だと言っとるじゃないか」
「事故ですって?あれのどこが事故なのか誰か説明できる人います?私は直前に警告を聞きましたよ。いけません、サー・ジェフリー、とね。それは明らかにこの卑劣なハイエナが私を狙ってテーブルを押し出すのを諫めるカチンスキ館長の声でした。私に危険を知らせてくださったんですよね、館長」
 カチンスキが何か言いかけた時、サー・ジェフリーが割って入った。「わしは押されたんだ、あの時誰かにな」
「まあ、ずうずうしい。他人に罪をなすりつけるつもりですか」
「いや、本当のことなんだ。誰かに背中を押されて、そのはずみでテーブルがあんなことになってしまったんだ。あれは不幸な事故だったんだ」
「誰がそんな都合のいい作り話を信用するもんですか。ここには証人がいるんですからね」
「私の責任です、プフィッツナー博士」意を決したようにカチンスキが口を開いた。「あのテーブルにはロックがかかっていなかった。これは私のミスです」
「まあ館長、お優しいんですね。でも、本質的な問題は、このいやらしいハイエナのやったことなんです」
「だからわしはやっとらんと言っとるだろう」
 ドアが開いてさっきの若い女性が中を覗き込んだ。あの騒ぎに恐れをなして逃げていたが、我慢しきれなくなったらしい。
「すみません、すみません。ひょっとして子供たちを見かけなかったでしょうか」
「あなた、どうやってここに?入口で止められませんでしたか」カチンスキが少し不機嫌そうに尋ねる。
「外には誰もいませんけど」
「おかしいな。そんなはずはないんだが」
「でも、本当なんです。子供たちが道に迷ってしまって、わたし、探しに行くところだったんです」
「そういえば、さっき廊下で…」
 コヴァルスキが言いかけた時、だしぬけに内線電話が鳴りだした。室内は神経を逆なでするような不快な呼び出し音に包まれた。
「あの、さっきって、」
 若い女性が言いかけたが、エミリアにさえぎられてしまった。
「あの、出たほうがいいんじゃないですか」
「そうですね」事務局長は内線電話の受話器を取ったが、すぐにカチンスキに差し出した。「館長、受付からです」
「なんだ、この忙しい時に」カチンスキが受話器を受け取ると、彼の表情が一変した。「なに?わかった。すぐ行く」
 館長は電話を切るとエミリアとサー・ジェフリーに向き直り、早口でわびた。
「たいへん残念ですが、来客なもので、ちょっと失礼します」
 そう言うが早いか、カチンスキはそそくさと部屋を出て行った。コヴァルスキは怪訝な顔でそれを見送っていたが、再び内線電話が鳴った。彼が電話に出ると、相手の興奮した声は部屋中に響いた。
「館長はいますか!館長は!」
 コヴァルスキは思わず受話器を耳から遠ざけた。「たった今出ていきましたよ。なにごとです?」
「たいへんなんです!子供が、子供たちが館長室になだれ込んで大暴れしてるんです。すぐ戻った方がいいと思います」
「なんだって?いや、子供たちなら、さっきこの廊下を向こうに行ったみたいだが」
「私の言うことを疑うんですか、いま私の目の前で起こっていることがどんなに、あっ、危ない!」
「もしもし、もしもし?だめだ、切れてる」コヴァルスキは受話器を見つめたままつぶやいた。
「早く行ったほうがいんじゃないですか?」
「あの、もしかして今の電話は…」若い女性が消え入るような声で誰にともなく尋ねた。
「どうもそのようですな」サー・ジェフリーは凶悪な目つきのまま若い女性にうなづいた。
「ああ、どうしましょう」彼女は両手を絞って身をよじらせた。ヴァーツラフは彼女の手を取って出口に促した。
「さあ、ともかく館長室に行かれたほうがいいでしょう。事務局長、ご案内をお願いできますか」
「え?ああ、そう、もちろんです」
「私が目を離したすきに…」
「大丈夫ですよ、たぶん」
 二人が出ていったあとの室内はガランとして今までの喧騒が嘘のようだ。部屋の奥ではエミリアのスタッフが黙々と撤収作業を続けている。その時ドアが開いて、明るい色のスーツに身を包んだ恰幅のいい女性がゆっくりと入ってきた。胸には鮮やかな色のリボンを結んでいる。
「すみませんが、こちらにタデウシュ・カチンスキ館長はいらっしゃいますか。スタッフの方にこちらだとうかがったものですから。いえね、わたしもこちらまであつかましくお邪魔するつもりはなかったんですけどね、それにしても一時間以上人を待たせるっていうのも、ちょっとどうかと思いますわ。だってそうでしょう、言いたかありませんけど、これでもあたくし、忙しい身なもんですからね。ストックホルムで国王に拝謁した時も確かに待たされはしましたけど、一時間てことはありませんでしたよ。それに、マドリードで枢機卿にお会いした時でもこんな扱いは受けてませんわ。ですからあたくし、こんなところまでわざわざ出向いてまいりましたのよ。そもそも何度伺っても受付の方は、館長はすぐに参りますの一点張りで埒が明かないものですから、ええ。それにしても最近の若い方っていうのは、みなさん、なんて言うか、あんな感じなんでしょうかねえ、本当に。ああ、これは館長、お初にお目にかかります。たいへんお忙しいところを恐縮ですけどね、少しお時間、よろしいでしょうね」
 全員の注目を一身に集めたその女性はハイヒールの音高く進み出て迷いなくサー・ジェフリーの前で立ち止まると、彼を上から下まで値踏みするように眺めまわした。彼の無残に切り取られたネクタイに目を止めて片方だけ眉を上げたが何も言わなかった。
「わしは…」
「いいえ、謝罪は必要ありませんよ。お忙しい方だということはよおく存じておりますから。国立美術館の館長さんともなれば、そりゃあたいへんな重責だくらい、あたくしにもわかります。政府高官や高名な芸術家とのおつきあいも、それはそれで気苦労が多いことでしょうとも。ええ、あたくしにも多少覚えがありますからね、それはよく存じておりますわ。あの手のクラスの方は、なんというか、館長もご承知のように、一般常識をあまり重んじていらっしゃらない風がございますもんですから。でもねえ、やはりものには限度というものがありますでしょ。そうですよね、館長。あたくしもね、あまり口うるさいことは言いたかありませんよ。特に今のご時世では言ってもせんのないことがたくさんありますからねえ。けれど誰かが言わなくちゃならないこともあるんです。さもないとこの世から礼儀や秩序というものが失われてしまうじゃありませんか。ねえ館長、あなたもこれには異存はございませんでしょう。礼儀や秩序の失われた世界!なんと恐ろしいことでしょう。そうなったらもう、この世の終わりですわね。もしそんなことになったら一日でも我慢できませんわ。あたくし、昨今の若い方の言葉の乱れとか、服装のでたらめさなんかを見ますとね、もう世界の終わりは始まってるんじゃないかと思いますのよ、大袈裟でなくね。言葉っていうものは、それはもう秩序のかなめ、アルファからオメガですからねえ。そうはお思いになりません、館長さん。それに、あたくし常々思ってるんですけど、」
 彼女がいつ果てるともなく延々としゃべっている間に、サー・ジェフリーの目に危険な光が宿ったのをヴァーツラフは見逃さなかった。マエストロは、さももっともだという顔をしながら、さっき無意識にエミリアから奪い取った大きなハサミを背中で握り直し、獲物に飛びかかるタイミングをはかっているように見えた。ヴァーツラフは思わず叫んだ。
「だめです、逃げて!」
 だがサー・ジェフリーは止める隙もあらばこそ、目の前の女性のリボンを引っつかむと、あっという間にハサミでちょん切ってしまった。
「ふははは、やったぞ!」
 サー・ジェフリーは勝ち誇ったように雄叫びをあげ、切り取ったリボンを高々と掲げた。女性のほうは身動きもできずに、ただ視線をサー・ジェフリーと自分の胸元の間を往復させていたが、突然美術館中に響き渡るような金切り声をあげると、信じられないスピードでドアから飛び出した。
「マエストロ!」
 エミリアが非難するように叫んだが、その目には共犯者めいた笑みが浮かんでいる。サー・ジェフリーは当然のように切り取ったリボンとハサミをそばにいるヴァーツラフに渡すと、満足そうに溜め息をついた。エミリアは悪戯っぽく笑った。「あなたって方は」
 サー・ジェフリーは無表情のまま知らん顔をしている。
「正直、ちょっとスッとしましたけど」
「そうか?」巨匠は無邪気に顔を輝かせた。
「でも爵位を持つ人のやることではありませんね」
「ううむ、なあ、君は見なかったか、あの鼻持ちならん態度を」
「でも初対面の人にいきなりあれは、」
「些細なことだ、些細な」
「わたしに光度計をぶつけたのも些細なことですか」エミリアの顔つきが変わった。
「それは、」
 とっさにヴァーツラフが間に入った。「プフィッツナー博士、撤収をお手伝いしますよ」
「え,どうしたんです?もう終わりますし」
「僕も少しは役に立ちたいんです」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「それにしても、ここのセキュリティは満足に機能しておらんようだな」マエストロは自分のことなど棚に上げて美術館のあら探しを始めた。
「確かに。大丈夫なんでしょうか」
「ふふん、どうなるか見ものだな。それにしても、なぜあんたと会う時はいつも騒ぎが持ちあがるんだろうな、お嬢さん」
「そうでしたっけ」
 エミリアが知らん顔で答えた時、ドアが開いてさきほどの職員が入って来た。
「館長!あれ、いませんか」
「カンディンスキー君なら、いま受付に行っとるよ。なにやらパニックになっとったようだが」
「そうなんですか。でも受付にアグネス・スワンはいないと思いますよ。あの人は今ごろ駐車場か、さもなきゃ…」
「待て待て、君は何の話しをしとるんだ」
「え、だから、たった今IDG保険のアグネス・スワンが、もの凄い勢いで飛び出していったんです」
「誰がどうしたって?」
「IDGのアグネス・スワンですよ、大口スポンサーの」
「それってもしかして、似合わないスーツに趣味の悪いリボンの中年女性ですか?」
 エミリアが率直な印象を伝えると職員は大きくうなづいて、
「まさに、その方です」
と答えた。エミリアとサー・ジェフリーは顔を見合わせた。
「館長はいったいなにをやらかしたんです?あの人、凄まじい形相でおもてに飛び出して行きましたよ。大声でなにか叫びながら」
 そう言って職員は館長を探しに部屋を出ていった。

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