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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(7)

第1章 運命の寓意

プラハ 美術史研究所

 石畳が細かい雨に黒く濡れている。15世紀の宗教改革者の名前が付けられた細い通りにひと気はなく、頭上では宙吊りになった人形が雨に打たれながら通りを見下ろしている。その下を男がひとり小走りに駆け抜け、通りに面した三階建ての淡いクリーム色の建物に飛び込んだ。彼は被っていたフードを上げると両肩の雨を払い、ちょうど奥から出て来た若い女性に声をかけた。
「やあラウラ、所長は?」 
 女性は黙ったまま手にしたペンで階上を示すと横の部屋に向かおうとした。
「イベントのほうはどんな感じ?」
 彼女は立ち止まって少し早口に答えた。「修羅場。毎度お馴染みの」
「ああ、そうだったね」
「そ。常に何かしら問題が持ちあがるし。それに私、いまちょっと急いでるから」
 笑顔を残して部屋に入っていくラウラを見送りながら彼は奥の編集室に向かった。自分のデスクまで来ると、隣りの席のカミルが顔を真っ赤にして受話器を握りしめている。
「何度言ったらわかるんですか。締め切りは来週の水曜なんですけど」
「誰?」ヴァーツラフが声に出さずに聞くとカミルは電話口を押さえて囁いた。
「シュヴァルツェンベルク教授」
「それはお気の毒」
「ヴァシェク!」
 部屋の向こうから編集長が怒鳴った。
「なんです?」彼も大声で答える。
「例の図版は手に入ったか?先週から待ってるんだぞ」
「すいません、すぐやります」
「まったくクラーラにも困ったもんだ、この忙しい時に。ええと、アンナはどこだ?アンナ!」
「アンナは本部です」
 誰かが怒鳴り返す。ヴァーツラフはコートを脱ぐと郵便物のチェックもせずにそそくさと編集室を出た。チェコ科学アカデミーの美術史研究所は、古代から現代に至るチェコの芸術一般を対象とする研究機関だが、特筆すべきは、神聖ローマ皇帝ルドルフ二世時代の視覚芸術・文化に特化した論文誌『ステュディア・ルドルフィーナ』を刊行している点だ。年一回の締め切り時期はいつも編集室は戦場のようになる。
  二階の奥まった部屋に近づくと、ドアが少し開いているのか、暗い廊下にまで話し声が漏れてきている。
「…れないのか。彼がいないとこのプロジェクトは進まないんだが、ああ、入りたまえ。いや、ヴァーツラフだ。びしょ濡れで今戻ったところだ。じゃあマルティンのことは頼むよ。なんとか説得してくれ、アーカイブも使わせるからって。そうだ。君の言うことなら聞くだろう、ミロシュ。お願いするよ」
 所長は電話を切ると立ち上がってヴァーツラフを迎えた。
「ワルシャワではたいへんだったらしいな。君には、なんというか、騒動を呼び寄せる才能があるらしい。とにかく座ってくれ、ヴァシェク」
 胸の前で腕を組んだ彼女は面白そうにヴァーツラフを眺めた。彼は何と答えていいのかわからないので黙っていると所長は自分の椅子に座った。
「確か、あの二人は去年も揉めたんじゃなかったか」
 ヴァーツラフはポーカーフェイスを決め込んだ。「覚えてません」
「おっと、古傷に触れたかな」
 彼は所長に促されてソファに座り、広くはない部屋を見回した。奥の壁には16世紀の画家が描いた、妙に妖艶なローマの戦う女神の絵画が掛かっている。本物は確かウィーンの美術館に保存されているはずだ。以前この部屋に入った時には、ブリューゲルの聖書を題材にした絵が掛かっていたようだったが。
「ここにもスプランヘルか」彼は内心舌打ちした。
「なにか?」
「いえ、なんでもありません」
「で、首尾は?」
 所長はデスクに肘をつき、両手の指を組みあせた。どうしていつ会ってもこの初老の上司は活力にあふれて見えるのだろう。ヴァーツラフは雨に濡れた体が徐々に冷えていくのを感じた。
「おそらく本物でしょう。最終的な結論はもう少しかかりそうですが」
「やはりな。よくやってくれた」
 彼が何気なく周囲を見回すと所長が表情を崩した。
「ここなら大丈夫だ」彼女は煙草を一本取りだして火をつけた。デスクには当然のように灰皿が置いてある。
「え、煙草がですか」
「はは、盗聴のことだ。あらゆる電波からシールドされてる」
「そもそもなんでこんな部屋があるんです。国立の科学アカデミーなのに」
「国立だからさ。専門以外にも周辺情報のリサーチとかいろいろあってね。ほら、例の保健省の情報漏えい事件以来、議会も神経質になってるんだ。おかげでこの部屋にまで文句をつけられて、こっちはいい迷惑だよ」
「そうですか」ヴァーツラフは所長席の背後の雨に打たれる窓に目をやり、ちょっと身震いした。明らかに風邪の前兆だ。
「今回の件ですが、いろいろ突発的な事件が続いて混乱させられましたけど、深刻な問題はありません。事態は収拾に向かってます」
「本当に大丈夫なのか」
「ええ、大丈夫です。ただ、ワルシャワ国立美術館の館長はたいへんみたいですよ。とにかく相手が悪かったようですね」
「でも実際にやったのはサー・ジェフリーなんだろう」所長はタバコをもみ消し、椅子に座りなおした。
「それはそうなんですけど、アグネス・スワンはずっとサー・ジェフリーが館長だと思いこんでて、それで話がややこしくなっちゃって」
「そうだったのか」
「いくら美術館の人が説明しても、そんなはずはない、わたしの目に狂いはないと言いはって。美術館の理事が館長選任の議事録まで持ち出して、たいへんだったそうです」
「やっかいな話だな」
「そうなんです。で、なんとか誤解はとけたんですが、それでもなぜか、とにかく美術館への支援は打ち切ると」
「本気なのか」
「まあそこまではいかないでしょうが、ただでは済まないでしょう。カチンスキは失脚するかもしれません」
「サー・ジェフリーや君だって無事には済まないんじゃないのか。訴訟とか」
「それはないでしょう。とにかくカチンスキに怒り狂ってますから」
「そうなのか」
「彼も悪いんですよ。すぐに謝りに行けばいいものを、自分は悪くない、そもそも勝手に検査室に入った彼女が悪いんだと公言しまくってるそうです」
「確か実業畑の人間だったな。よくは知らんが」
「僕も初対面でしたけど、美術についてはズブの素人ですよ。なんであんな人間が選任されたのかわかりません」
「サー・ジェフリーはどうしてる」
「さあ。アグネス・スワンの件については死んだふりしてます。静観ですね」
「IDG保険の方は?」
 ヴァーツラフは首をすくめた。
「そもそもあれだけの名士にけんかを売るほど彼女もバカじゃない。矛先はカチンスキ一択ですよ。要するに、アグネス・スワンも自分のメンツのためにスケープゴートを欲しがってるだけじゃないんですかね」
「それならいいんだが。とにかくあのマエストロは美術界の権威というだけでなく、政界や王族にまで人脈が及んでるという噂だ。引退したとはいえ、その影響力は無視できないだろう」
「そんな立場の人があんなことしますか、普通?」
「一番たちが悪いのはサー・ジェフリーということか」
「決まってますよ。あの人はマジでヤバいです。命がいくつあっても足りません」
「まあ、そう怒るな。おかげで発掘調査のメドもたちそうだ」
「クンストカマーですか」
「ああ、ワルシャワが急に態度を硬化させてな。理由がわからなかったんだが、君の話で察しはついたよ」
「僕にとってはどうでもいいことですけどね」
「財政難の美術館に新たな目玉が誕生しようとしてるんだ。手放すわけにはいかないだろう。特にそれが膨大な集客を見込めるかもしれないとなればなおさらだ」
「それより、肝心なのは内容です。サー・ジェフリーはそのことになると途端に無口になるんですよ」
「正式な最終報告書は4週間後だ。プフィッツナー博士の報告書と合わせてワルシャワに送られる。だがうちとしては事前にその報告内容が知りたい」
「発掘のためですか」
「無論だ。例の文章が本物だとすれば、我々にとってあの絵自体の帰属は問題ではなくなる。課題はもはや新たなクンストカマーの発掘調査に移るんだ」所長の口調が冷徹なものに変わった。ヴァーツラフが寒気を覚えたのは雨に濡れたせいだけではないようだ。
「そこで、君にはしばらくチューリッヒに滞在してもらう」
「え…」
「サー・ジェフリーに張りついて内容を探るんだ」
「僕に、スパイしろと?」
「言葉を慎みたまえ。報告書作成の手伝いだよ。君は鑑定作業を手伝っただろう、自然な流れじゃないか。だが手伝っている間にたまたま内容を知ってしまうこともまた、よくあることではある」彼女はにやっと笑ったがヴァーツラフにしてみれば冗談ではない。
「やっぱりスパイじゃないですか」
「私はそんな単語は使っていないが」彼女はヴァーツラフから目をそらし、壁に掛かったミネルヴァに向かってつぶやいた。
「お願いしますよ、クラーラ。冗談じゃない。今度こそ僕は殺されちゃいます」
「まさか。彼の一番のお気に入りじゃないか。何の心配もいらないだろう」
「おおありですって。僕は一番でもお気に入りでもありません。そもそもあの人には二回しか会ったことないんですよ?」
「二回も共に修羅場をくぐり抜けてきたんだろう?もう立派な戦友だ」
「やめてください。彼を怒らせたら今度はリボンどころじゃすまない、首をちょん切られますよ。あの人ならやりかねない、僕にはわかるんです」
「やっぱり君しかいないな。そこまであの偏屈な老人を理解してるんだから」
「待ってくださいよ。そうだ、ラウラはどうです。サー・ジェフリーは若くてきれいな女性に弱いんです。所長も知ってるでしょう」
 彼の一縷の望みはあっさりと一蹴された。
「あいにく彼女は別のプロジェクトで忙しい」
「じゃあアンナは?彼女も僕なんかよりよっぽど…」
 所長はヴァーツラフをまっすぐ見つめた。「ヴァシェク、やはり君しかいないんだよ。心配するな、クリスマスまでには帰れるさ」
 話は終わったというように所長は立ちあがって煙草に火をつけ、背後の窓から陰鬱な雨にけぶるフソヴァ通りを見下ろした。「チューリッヒは晴れだろう」
 プラハの街は幾多の塔も無数の赤い屋根も灰色の石畳の広場も、あらゆるものが冷たく細かい雨に包まれてじっと息を潜めていた。

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