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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(8)

第1章 運命の寓意

チューリッヒ州オッシンゲン 1

「遅かったな」
 ドアが開いた時ちょうど稲妻が光り、マエストロの悪鬼のような顔が闇に浮かび上がった。チューリッヒ郊外のドイツ国境にほど近い田園地方に建つ一軒家。引退した美術界の大物が住むこの建物をヴァーツラフが訪ねるのはこれが二度目だが、一度目の時も深夜だったので外観をちゃんと見たことがない。
「すいません、こんな時間に」
 雷鳴に負けじと大声で答えると、豪雨に追い立てられるようにヴァーツラフは屋内に飛び込んだ。確かクラーラは、チューリッヒは晴れだと言っていなかっただろうか。夕方着いたチューリッヒ空港はプラハ以上の激しい雷雨だった。ヴァーツラフはびしょ濡れになりながらレンタカーを借り、一時間ほどの距離のこの村をめざして高速に乗ったのだ。
「すいません、最寄りのインターで降りそこなっちゃって」
「それでシャフハウゼンまで行ったのか」
「ええ、さんざん迷いましたよ」
「こんな天気だ、カーナビは役に立たんさ」
 ヴァーツラフがサー・ジェフリーの家に入るのはこれが初めてだった。意外なことに、天井の高い玄関には殺風景なほど何も置いていない。一般的な家庭でも絵の一枚や二枚飾ってあるものだが、この玄関ホールからはそうした生活の潤いを感じさせるものはいっさい排除されていた。
「こっちへ」
 うながされて玄関わきの部屋に入ったヴァーツラフは息をのんだ。目の前に広がるのは、言うなれば現代のクンストカマーだ。種々雑多な本やモノが圧倒的な物量で迫ってくる。壁いっぱいに本棚が据えつけられ、本や画集、写本のファクシミリ、カタログ・レゾネ等がびっしりと詰め込まれている。陳列ケースには南半球からの出土品やら古いガラス瓶やら木彫りの不気味な人形やらなにかの動物の頭蓋骨やら、得体の知れないモノがあふれかえっている。突き当りの壁には小さな暖炉があり、その上に二つの複製画がかかっている。ひとつは胸元をはだけた若い花嫁の肖像で、もうひとつは凸面鏡に写した画家の丸い小さな自画像である。片隅にはなぜか鎖で縛られた等身大の人体骨格模型があり、その隣りには大きめの木製三脚に年代物の望遠鏡が据えられている。本棚の反対側のテーブルも雑多な鉱物標本だの古代の化石だの分厚い写真ファイルだので埋めつくされ、その脇の椅子の上には、400年前の神聖ローマ皇帝の奇妙な肖像画の複製が額に入れて立てかけてある。さらにデスクや床にも大量の本が積み上げられ、椅子の上にも本の山ができている。部屋は厚いカーテンに覆われ、デスク上のランプだけが小さな明かりを投げかけていた。ヴァーツラフは一瞬、ディオゲネス症候群という言葉を思い浮かべ、それを必死に振り払った。暖炉には火が赤々と燃え、室内は暖かかった。サー・ジェフリーは手近の椅子の上に積みあがった本の山を手荒く払いのけてヴァーツラフに座るようすすめた。
「やりたまえ」
 マエストロは彼にスコッチの入ったグラスを手渡し、自分もグラスを持って大きなソファに巨体を沈めた。
「先生、ご迷惑じゃなかったですか、結局押しかけてしまって。なんでも言ってください。そのために来たんですから」
「まあいいさ。どうせクラーラの差し金だろう」
「いえ、別にそんなことは…」
「ふむ、まあ、それはたいしたことじゃない。そうだな、せっかく来たんだから、君にも少し仕事を手伝ってもらおうか」
 マエストロの意外な言葉にヴァーツラフは飛びついた。
「ありがとうございます。助かります」
「ふん、きみも苦労が多いな」サー・ジェフリーは嘆かわしいほど公共心には欠けていたが、意外なことに人情には厚かった。
「それよりも気になっとることがある。あのカンディンスキー君だが、彼は本当にあそこの館長なのか」
「カチンスキですか?そのはずですけど。そりゃ確かに少し変わってはいますが」
「前の館長を知っとるかね。それはよくできた人物でな。だからよけい気になるんだ」
「着任したばかりとは聞いてますけど」
「この狭い世界で、しかも駆け出しと言うにはちと薹が立ちすぎとるのに、わしが名前すら聞いたことがないというのは不可解だの。君は彼の評判を聞いたことはあるかね」
 ヴァーツラフは首を振った。「たぶん、美術界の人間じゃないんでしょう。ちょっと銀行の人みたいなところがありますね」
「わしもそう睨んどる。なにか魂胆があるのかもしれんな」
「カチンスキがですか。あんな人間に何かできるとは」
「奴はただのコマだろう。背後に誰かいるのかもしれん。どうもこの件には、わしらの知らない裏がありそうだ」
「裏って?」
「つまりだ、まず今回のスプランヘルの絵だが、いまだに帰属が決まっておらん中途半端な存在だ。そうだったな?」
「そのとおりです」
「あの絵を調べたのは本当に偶然だったのか、それとも何か別の意図があったのか」
「通り一遍の検査だったので改めて綿密な調査をということでした。僕には先生のおっしゃることがよくわかりませんが」
「そうか。ところで、今回の話は誰がエミリアに依頼したのかね」
「それは、」
「もうひとつ知りたいことがある。あのカンディンスキー君が館長になった時期と、彼女に依頼したのとどっちが先だったか」
「それで何かわかるんですか」
「たぶんな。どうだ、調べられるか?」
 ヴァーツラフはちょっと考えていたが、スマホを取り出してなにやら始めた。
「先生、ここって Wi-Fi 飛んでます?」
「なんのことだ」
「ネットの無線です」
「インターネットか。ふん、そんなものはない」
「直接彼女に聞くのが一番早いと思いまして」
「エミリアか」
 ヴァーツラフはバッグからモバイルルータをひっぱり出した。マエストロは葉巻を取り出して火をつけている。
「もしもし、プフィッツナー博士?突然すみません、プラハの芸術史研究所のヴァーツラフ・モラヴェツです。いま、お時間よろしいですか。あ、ありがとうございます。実はいま、サー・ジェフリーとご一緒してるんですけど、はい、はいそうです。はい?いえ。そうではなくて、少し教えていただきたいことが。え?いえいえ、決してそんな…。はい。はい。はい、ですから、え?」
「何をやっとるんだ」サー・ジェフリーは憮然として自分のグラスにスコッチを注いだ。
「はいはい。ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
 ヴァーツラフがスマホをサー・ジェフリーの前に立てかけた。「いまプフィッツナー博士とつながってます。直接お尋ねになってください」
 スマホの画面にはエミリアが映っている。マエストロは眼鏡をかけてから、画面をのぞき込むように身を乗り出した。
「このまましゃべればいいのか、ヴァシェク?」
「そうです。TV電話みたいなものですよ」
「そうなのか。エミリア、聞こえるかね」
 マエストロが大声でスマホに呼びかけると、画面の中の小さなエミリアがうなずいた。
「聞こえてます。あなたの大きな顔も見えてますよ、サー・ジェフリー」
「おお、わしの姿もそっちで見られるのか。妙なものだな」
「そうですね」と言ったまま小さな画像はフリーズした。悪天候の影響かもしれない。
「どうした、エミリア?」
「あれ、固まっちゃいましたね。ちょっと待ってみてください。雨の日はよくこうなるんですよ」
「なんだ、もろいものだな。使えんじゃないか」
 マエストロはさげすんだようにスマホを睨みつけた。ヴァーツラフはルータをあちこちに移動させて状態のいいところを探っている。
「…は水に流してもいいと思って…」
「あ、つながった」
「おおい、エミリア、聞こえとるか」
「聞こえてますよ。なんか電波が悪いですね」
「そうなのか。こんなのでまともな話ができるのか」
「大丈夫です。何かお聞きになりたいことがあるとか」
「おおそうだ。いくつかあってな、一つは、『フォルトゥナ』の件は誰に頼まれたのか、もう一つはその時期だ。あと、君の前に赤外線調査した者がおるだろう。それがどこの誰かも知りたい」
 画面の中のエミリアは目を細めた。「サー・ジェフリー、これは何の調査です?何を調べてるんですか」
「いや、まだほんの思いつきの段階でな。今回の件はいろいろ腑に落ちんことがある。何か裏があるとは思わんかね、お嬢さん」
「そうですか。私は別に何も感じませんでしたけど」
「わしも老いぼれて勘が鈍ったのかもしれん。それならそれでいい。だがな、今回の件はどうも引っかかるんだ。あんたはあのカンディンスキー君をどう思う?」
「館長ですか。変な人だとは思いますけど。いえ、変というより畑違い、ですかね」
「モラヴェツ君も同意見だ」
「そうなんです」ヴァーツラフはサー・ジェフリーの隣に立ってスマホを覗き込んだ。「僕は最初、銀行の人かと思いました。でも、もしそうならあんなにそそっかしくないだろうし、いい加減でもないですよね。そこが不思議です」
「言われてみると、確かにどういう人物かよくわからないですね。妙に芝居がかってて。もしかしたら役者かも」
「まさか。あれが演技だったって言うんですか、あのすべてが」
「ふむ、興味深い見解だな」
「そんなの無理ですよ」
「待て待て、そうとも言いきれんぞ。可能性はある。彼がアグネス・スワンをさんざん待たせたんだし、わしの背中を押したのも彼だ。それに館長の立場なら研究棟のセキュリティを解除したり、自室の鍵をかけないことも簡単にできる」
「内線電話の受話器をはずしておくことも」
「なんだそれは」
 だが画面の中のエミリアは再び固まってしまい、サー・ジェフリーは悪態をついた。
「役に立たんな、こいつは」
「ちょっと待ってください」
 ヴァーツラフはまたルータの向きを変えてみている。機嫌をそこねたマエストロはスコッチを瓶ごと持ってくると無造作にテーブルに置いた。外では相変わらず雷鳴が轟いている。
「声だけはつながりました」
「こうしょっちゅう切れると落ち着いて話しもできんな、エミリア」
「しょうがないですよ。そっちは嵐なんでしょう?」
「まあそうなんだが。どこまで話したかな。ああ、そうだ。内線電話がどうとか言っとったな」
「そうです。あなたがたが来る前に職員の人が来たんです。内線電話が通じないからアグネス・スワンの来訪を館長に伝えられなかったそうです」
「ふむ。カンディンスキーがスワンをそれほどまでに避けるのはなぜだ。あの二人は面識はないはずだろう」
「そういえば受付から電話がかかってきた時も、」
「急にそそくさと逃げ出しおった」
「……室に混乱を引き起こ……リットはなんでしょう。まさか調査の妨害とか」エミリアの声は途切れがちだ。マエストロは声が途切れるたびに顔をしかめている。
「本物の館長がそんなことするでしょうか」ヴァーツラフが椅子に座ったまま言った。声だけならいちいち移動する必要はない。
「誰かに弱みを握られとるとか」
「でも、もし本当にそうだとしても、その目的は何です?なんのためにあんなことをしたんでしょうか」
「誰かが操ってたりして」エミリアも乗ってきた。この手の話しが嫌いではなさそうだ。「あるいは誰かがなりすましていたのかも」
「ふうむ。わしらはとんでもない勘違いをしていたのかもしれんな」
 彼らは顔を見合わせた。いままでケチな道化だと思っていた人物が突然別の顔を現したように感じたのかもしれない。エミリアは思わず誰もいない自室の背後を振り返った。
「バカバカしい質問かもしれんが、わしらが会ったのはいったい誰なんだ」

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