コザ銀天街
私が沖縄で縁のあった場所。
それは、コザの銀天街。
なんだかんだ沢山の思い出があります。
(1)「場所と空間と商人の物語」
2024年2月17日〜24日まで開催中の「場所と空間と商人の物語」に行ってきた。
コザミスクトピア主催のこのイベント。
昨年のスナック科学にて、コザミスクトピアのEさんから「銀天街で写真展をしたい」という計画を聴き、貴重な写真を拝見させてもらった時から、楽しみにしていた。
春らしい陽気を感じながら、コザ銀天街へ。
受付を済ませて、イベント案内を聞く。街の中にQRコードが点在しており、それを読み込むと、コザ銀天街に関する情報を得られると知る。
受付近くのQRコードを案内されたので、まずはそちらへ向かう。
受付で貰ったポストカードに書いてあるQRコードのパスワードを入力して、情報を得る。
ここで得られる情報は、
当時を知る方の音声データだった。
場所と空間と商人の物語。
時代は移り変わっても、ここにあったもの。
ここで起きたこと。ここで暮らした人たち。
2024年と当時の銀天街を行き来する。
そんなイベントだ。
コザ銀天街を散策しながら、写真を鑑賞する。
普段は閉まっている場所が、コザ青春劇場・コザ現代美術館として開放されていた。
入口にいる男性に、入ってもいいのかと確認すると、親切に対応してくれた。
コザ銀天街のアーケードが取り壊された時に取材された映像が流れているとのこと。入場無料です。
コザ青春劇場に入ってみる。
見覚えのある映像が流れていた。
そして、私も映っていた。
2020年の私との再会。懐かしい…笑
(2)「銀天街と私」
映像は、Gさんが企画してくださった「銀天街と私」というイベント中に、撮影していたものだった。今はなきアーケードを上から見たり、コザ銀天街が賑わっていた時期のエピソードを聞くことができて、とても素敵なイベントだった。
そのイベントに参加した時の私の感想は、こちら。
2020年9月13日(日)
今日は「銀天街と私」に参加!
Gさんに、老朽化したアーケードの取り壊し工事が始まった銀天街を案内していただきました。
沖縄に引っ越す時に、バスの車窓から見えた銀天街の壁画。どんな場所なんだろうと気になったことを思い出す。
Gさんや、銀天街をよく知る参加者の方々のお話は、とてもおもしろかったです。
屋根を移動して友達の家に行ったこと。
道端で魚を売る行商のひとがいたこと。
傘を使って、傾斜のある銀天街を滑る遊びのこと。
火事の時のために、アーケードの上に水を送る取水口やアーケードの上に置かれている消火ホースのこと。
カツアゲされるゲームセンターのこと。
跳んでもチャリンと小銭の音がしないための工夫のこと。
銀天街の付近だけでも映画館が4つあったこと。
エッチな映画館もあったこと。
ラジオ体操をした路地とスタンプを押してくれたおじさんのこと。
注意してくれる、めちゃこわいおじさんのこと。
帰宅する前に、先に近所のひとに成績票を確認されたこと。
日曜日にお店を閉めて、銀天街のみんなでタイガービーチでビーチパーティーをしたこと。
結納セットのこと。
縁起物の松風(まーちかじ)のこと。
風のことを「かじ」と言うけど、それは新しい言い方で、「ふぇー」とも言うこと。
銀天街音頭のこと。
銀天街とは関係ないけど、
卒業式に小麦粉をかけ合う話もおもしろかった。
どれもとても面白いエピソードでした。
賑わう街には、商店、映画館、性風俗街がある、
と何かで読んだことがある。
銀天街にも、地元の台所としての商店街、今はなき映画館、近くには吉原がある。東京の吉原と同じ地名なのが驚いた。
以前、もやいのフィールドワークで訪れた日雇い労働者の街、東京の山谷のアーケードは撤去された後だった。山谷にも、商店街と吉原がある。
大阪の日雇い労働者の街、釜ヶ崎にもアーケードのある商店街と飛田新地がある。
ふたつの街にも映画館はあるのかな。
私の地元、茨城県日立市にも銀座通りという商店街があるけれど、映画館はなくなり、テレビ取材が来たほどのシャッター通り。
映画館がなくなる時は、
街が衰退しているサインなのかな。
銀天街の付近は、もともと黒人街だった歴史がある。
ゲート通りがある胡屋エリアは白人街だった。
でも、今日お話を聴いていたら、
銀天街自体は黒人街ではなかったみたい。
コザ暴動も、米軍の圧制や人権侵害への不満から起きたけれど、コザの人たちは黒人の人たちを攻撃しなかったという話も聴けてよかった。
アーケードができる前のこと。
アーケードができた後のこと。
そして、
アーケードがなくなった後のこと。
私は、銀天街音頭で賑わう銀天街を体感したいです。
なかなかちゃんとした日記を書いてるじゃないか(自画自賛)。
(3)「夕焼けアパート」
ちなみに、そのあと発行されたフリーペーパー「夕焼けアパート」の銀天街特集も読んだ。
その時の感想は、こちら。
2021年2月28日(日)
「(Gさんと)これからも仲良くしてちょうだいね」
そのことばは、ほわっとあたたかいのに、そのあと、どこかきゅうとせつなく感じるのは、私のなにをつつかれているのだろう。
今日、クリエイターズルームの会場で、
夕焼けアパートを見つけた。
探していたから、うれしかった。
銀天街。
沖縄に来て1年目の私にとって、
思わぬ縁から、馴染みの場所となった。
まだ馴染んではいないか。
まっくらで、ちょっと怖くて、
得体の知れない場所だった銀天街。
アーケードがそこにあるときも。
アーケードが撤去され始めてからも。
アーケードが無くなった今も。
ここに、ひとがいる。
銀天街のアーケードを、屋上から観る、
フィールドワークに参加した。
コザXから望むコザ暴動を、聴きに行った。
ここに、歴史がある。
一茶のおばちゃんとおじちゃんとごはん。
ここに、暮らしがある。
歴史は、暮らしの記録だ。
ひとが生きてきた記録。
いま、生きているひとのなかにある歴史。
それをもっと聴きたい。
だけど、特別なことはなにもなくて、
日々の暮らしは、いつも通りで、
そのいつも通りがとても尊いもので、
それは、永遠には続かなくて、
だからこそ、とても尊くて、せつない。
終わりがあるから、きっといい。
終わってほしくないものもあるけれど。
いつも、どこか、私は主役ではなくて、エキストラのような、第三者の役回りばかりのように感じたりするけれど、私は私の人生の主役です。ここまで読んでくれたあなたも、あなたの人生の主役です。いえーい!
フリーペーパーなのに、丁寧な文章が詰まっている夕焼けアパートの真似をしたくて、長々と書きました。夕焼けアパート、素敵です。
なんか、最後が変なテンションだけど、当時の私らしい気もする(今もあんまり変わらないけど)。
この夕焼けアパートの冊子は、断捨離を生き延びて、今も私の本棚にある。
(4)「コザXから望むコザ暴動」
夕焼けアパートの感想の中にある「コザXから望むコザ暴動」というイベントの主催も、コザミスクトピアのEさんだった。
思い出話3連発ですが、
よかったらお付き合い下さい(汗)。
2020年12月20日(日)
1970年12月20日。50年前の今日。
コザ暴動、起きる。
「コザXから望む コザ暴動」
参加してきました。
コザ暴動は、命は平等であり、どの命も差別してはならないという主張であった。
照屋の人たちは、受け入れる力があった。
人種差別をしたら、ここでは商売はできないからという理由もあったけれど、黒人も白人も関係なく受け入れた。その凄さ。
沖縄人への差別。黒人への差別。
共通項もあるが、矛盾する部分もある。
会場には、50年前のコザ暴動を体験した世代の人たち、コザや戦後の歴史を研究する研究者、この土地にゆかりのある人たち、今もコザや照屋に住む人たち、そして、私。
それぞれの想いと、経験の違い。
どの記憶も意見も感情も。とても貴重なものだ。
その時を生きた人達から、当時の話を聞けるのは、本当に貴重だ。
暴力によらない主張とは何か。
学問とは何か。
政治とは何か。
歴史と政治は結びついている。
コザ暴動は、反米軍という主張であったが、それだけでは正確ではない。米軍の前に、日本がある。それを見逃して、日本の責任を問わないのは、おかしい。
反米軍だけに焦点をあてては、本当のことを見誤る。
戦争を生き抜き、戦後を力強く生きた沖縄の人たちの歴史を遺したいという想い。
だけど、歴史は綺麗事だけではないという想い。
今も続く沖縄の負担。
これまで受け続けてきた差別。
酷く辛い戦中の記憶。
日本への怒り。日本への不満。
それをどのように学問は発信すると良いのか。
どのようにその歴史を遺し、今に活かすのか。
来場していた皆さんの話をもっと聴いてみたかった。
今の私には、コザ暴動を語る言葉は持ち合わせていないけれど、参加できて良かったです。
コザ青春劇場の映像から、思い出した記憶たち。
期せずして、私も銀天街の歴史の一部として参加できていた事が嬉しい。
映像のなかで、1978年にコザ銀天街のアーケードが完成したと説明されていた。そして、もともとは本町通りと呼ばれていた事も知った。
本町通りから、コザ銀天街へ。
名前の移り変わりは、当時の賑やかさを想わせる。
映像を2回観た後、コザ青春劇場を後にする。
(5)黒人街
イベント会場ではないけれど、
黒人街と呼ばれていた地域を散歩する。
私にとっては何度も通ったことのある馴染みの道。だけど、ここが黒人街と呼ばれて、賑わっていた時期もあるなんて、いまは想像できない。
いつも気になっていた建物が目に入る。
あそこへはどうやって行くんだろう。
住んでいる方のご迷惑にならないように気を付けつつ、あまり歩いたことのない道を散策してみる。
テレビやラジオの音声が、外まで漏れ聞こえる。
ここには、いまも暮らしがある。
そして、猫もたくさんいる。
この辺りの家には、あまりシーサーがいない気がする。黒人街だった名残りなのかな。真相は不明です。
猫にお礼を伝えて、コザ銀天街へ戻る。
(6)りっかRIKA
コザミスクトピア前で写真を撮っていたら、カメラを向けていた先から、りっかRIKAのSさんが歩いてきた。
私「あ、こんにちは!」
Sさん「こんにちは。」
コザ銀天街は、最初は得体の知れない地域だったのに、今は私にとって、こうやって偶然知り合いに会える街になった事が、素直に嬉しい。
りっかRIKAを見学させてもらう。
りっかRIKAは、さまざまな科学実験や、化石鉱石発掘などの体験ができて、こどもたちが科学を楽しめる場所です。
りっかRIKAが出来るまでのエピソードを楽しんだ後は、またひとり散策に戻る。
(7)コザの風景
コザ銀天街から少し足を伸ばして、気になっていた風景を観に行く。
①HAIR SALON モダン。
外観がとても好みで、気になっていたお店。
ドアが開いていて、中をちらりと覗いたら、理容師さんがお客さんの散髪をしている姿が見えた。
その後ろ姿が、とてもとてもかっこよかった。
②中乃湯。
沖縄県唯一の銭湯(ゆーふるやー)。
残念ながら、私が訪れた日は定休日でした。
安慶田から、コザ十字路方面へ戻る。
(8)コザ吉原
行こうか、行くまいか。
迷ったけれど、行ってみた。
東京の吉原遊郭を真似て付けられた地名。
かつては、白人専用の特飲街(買春街)であり、その後は日本人相手の旧赤線地帯・社交街として賑わった場所。
沖縄各地の特飲街は、浄化作戦によって消えたとされているけれど、実態は不明だ。興味本位でコザ吉原を訪れることは、現在も働いている方に失礼なのではないかと思って、躊躇っていたけれど、行ってよかった。
現地に立つ。
そこで感じられた事。
正直、ゆっくり滞在するのは憚られて、止まらずに歩き続けてしまい、何を感じたのかといえば、よく分からない。だけど、建物の造りや、窓の位置、建ち並ぶ家々を観ていると、勝手にいろいろと想像して、なんともいえない気持ちになった。
あの本の世界は、すぐそばにある。
(9)おわり
沖縄市のコザ銀天街は、
私の沖縄の拠点のひとつだった。
セルフロックダウンなんて言葉が現れた時期にも、コザ銀天街に遊びに行った。コロナ期間中も、三密を避けてイベントが開催されていたし、最近では、サタデーナイトマーケットもある。
ケアするひとのカフェも、コザ銀天街で開催された。
仕事も、遊びも、たくさんの思い出がある。
お食事処 一茶も、大好きです♡
コザ銀天街、ありがとう!!
おわり
「場所と空間と商人の物語」
期間:2024年2月17日〜24日
時間:午前11時〜午後6時
場所:コザ銀天街
主催:一般社団法人コザミスクトピア
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