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ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術

ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術ーいつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?

長い。題名が長い。

題名からすでに問われている。

きっと私を問われる美術展なのだろう。

入口で渡された解説資料には、こう書かれていた。

・何も読まずに。
・鑑賞ガイドをおともに。
・作品解説を手がかりに。

とりあえず、何も読まずに、
なにも知らないまま、見よう。

現代美術に限らず、美術展のおもしろさは、作品と対峙することで、自分の中に湧く感情や感想を観察することだと私は思う。

とはいえ、何も知らないままだと、作品の何かを取りこぼしてしまう。けれど、それもいいのだろう。すべてを味わおうとするのは、強欲なのかもしれない。見る前から、すでに思考が動いておもしろい。

なんの解説も読まずに、作品を見て、私のなかに湧いた感情は、曖昧でもあり、虚無感のようなものだった。

40代になり、女性という性が揺らいでいる自分は当事者でもあり、母になれていない自分は部外者でもあり傍観者でもあるような、ケアを受け続けている子どもでもあり、ケアを提供する大人でもあるような。

心や思考が刺激されそうになるけれど、それをするりと逃す手段を心得ているような。美術展を味わう体力が不足していたのかな。

鑑賞後も、すぐに入口でもらった資料を読む気持ちにならず、放置していた。

茨城から沖縄に戻る飛行機の中で、感想をメモしてみた。


偏見と期待が減ると、
心の動きは減るのだろうか。

嫌悪感や疑問を感じないのは、
心が固まっている?

なんだかわからない。
それでいい。

ことばにするのを怠けているだけ?

分からないままも、ありのまま。

すぐに言葉で区分けしないという味わい方。

美術展は、自分の反応が楽しい。
退屈なのは、私の触手が少ないせい。
それらを受け取るチャンネルがないせい。

作品のせいじゃない。

そのままを見ることは、案外むずかしい。
私の思考の癖が、作品を脚色する。
その癖に気づけるから、美術展が好きだ。

作者の意図をそのまま受け取る必要はない。
今の私、その瞬間の私に必要なものを受け取ればいい。

物体としての作品。
私を刺激する媒体としての作品。

私に受け取る準備ができているか。
体調、時間、その時の状況が影響する。

好き嫌い。
何も感じない。

作品の意図を汲み取ろうと集中するのは、
なんのため。

それをやめてみたら、退屈か。

そのままをみる。

心をむやみに波立てない。

そのままをみる。

作品を通して、自分をみる。

同じ刺激でも、異なる。

心が死んだわけではない。
許容量が広がったと思いたい。
こうあるべきという自分の枠が広がったと思いたい。

無感動は無関心か?

好奇心の減退か。

心の奥に閉じ込めているタブーが減ったのか。
私を構成していた、わたしだったもの。
わたしを私として機能させてきたルール。
自分に厳しすぎると、外にも同等の厳格さを要求してしまう。

わたしから先に解放される。

ほんとうにやっておきたいことを先にやる。

麻痺した自分の感覚をよみがえらせる。

嫉妬や怒りや不快感は、わかりやすい。
私の望みを教えてくれる。

諦めもそうかもしれないけれど、
諦めることで、新たな場所に行ける可能性もある。

諦めることで、楽になる。
自分が広がるなら、いいな。

自分を縛る呪縛から。

許し。

この涙はなんの涙だ。

許されたことへの安堵か。
諦めることへの無念さか。

なるようになる。

それは強さか。
なげやりか。

なげやりなら、きっとそれは自分を傷つける。

心が穏やかなら、それは許しなのか。

なるようになる。

わたしなら大丈夫は、自信だ。
自分への信頼だ。

自虐はいらない。
この私が大好きだ。

それは、自分のおかげであり、
私のまわりにいてくれる人たちのおかげだ。

まったく知らない作品のおかげ?

目に見えるものはすべてサイン。
ユーミンのおかげでもある。

私を構成しているすべての経験。

すでに
みんな生きたいように生きている。
だから
もっと生きたいように生きる。

みんなが生きたいように生きるとしても、
案外、生き方は変わらないんじゃないかと思う。

いまの生き方に不満があっても、
それによって満たされていることがある。

何でも叶うとしても、今の暮らしを続けたい人は、案外いるんじゃないか。

今ある幸せをしっかり知る。

満たされない状況を維持することで、
満たしていることもある。

今ある不快がもたらす幸せを知る。

いじわるな言い方かな。

幸せになることは、こわいこと。
不幸でいることで、安心する。
そんな矛盾を生きる。それもよし。

私は、それを選ばない。
それだけ。

私の幸せを喜ぶ人と一緒にいる。

私の不幸を喜ぶ人から離れる。

私も、ひとの幸せを喜ぶ人でいる。

私は、恵まれている。
その幸せに気づけたから、いまがある。

ひとりぼっちになる。
それはとてもこわいこと。

そうならないために、
今までしてきたこと。

私の幸せを喜んでくれる人たちを、
喜ばせること。

一瞬で完成はしない。

時間をかけて、今がある。

それでも、今、はじめるから、
未来がある。

まずは、自分の幸せを許そう。
自分から幸せになる。
自分の幸せを知る。
小さな幸せは、ある。絶対ある。

一瞬で大きな幸せは手に入らなくても。

自分のケアは、だれかのケアにつながる。

自分の安心のために働く。
住みたい場所に住む。
好きな人たちを喜ばせる。
健康を維持する。

自分のケア。
他者のケア。

毎日、気づかぬケアを、
誰もが受け続けている。


途中からポエムみたいだな。
でも、その時の感想から連想した私の気持ちだ。

なにも感じないのは、
拒絶でもあるな、と今なら気づく。

このテーマについて、考えたくないのかも。

無関心でもあるのかも。

自分の狡さや本性が炙り出される。
それが美術展のおもしろさだ。

会場には、作品をひと通り鑑賞したら、来場した人たちの感想を貼る場所が用意されていて、その感想を見るのもおもしろかった。みんな、視点が異なるし、感想もさまざまだった。

あらためて鑑賞ガイドを読んでみる。あの作品を観て、こんな感想を抱く人もいるんだ。みんな、心が豊かだな。柔らかい。やはり私の心は干からびているみたいだ。

「ジャーナリズムじゃなくてアートだから伝えられる層があるのかも」という感想に、その通りだなと同意する。それが、アートの魅力であり、力でもあるよな。

そして、アートの主張は、作者や作品の意図通りでもあれば、受け取る側が勝手に受け取る場合もある。

ただ、表現しただけ。

そういう作品だってあるかもしれない。

それも美しい。

受け取り方は、自由だ。

だからこそ、柔軟に素直に自分の感情を豊かに受け取れる自分でいたい。

固まったら、それが老化だ。きっと。

年齢と関係なく、
私は、老化しているみたいだ。

やわやわのままでは、生きられないから。
身を守るために、かたくなる。頑固になる。
自分の分かる範囲だけで、判断しようとしてしまう。

柔軟でいるには、体力がいる。

やはり、自分のケアが、最優先。

「母から他者のケアを考える現代美術」がテーマなのに、結局自分に戻ってきてしまう。これが、私のテーマなのかもしれない。

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