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写真好きの私がエコー写真と出会って

 高校生の頃、私は一部のクラスメートから「パー子」と呼ばれていた。それはもちろん林家パー子さん由来のもので、つまり私がカメラ好きだったからだ。(今さら気づいたのだが、名字も似ているので、私にパー子というあだ名をつけてくれた友人はなかなかセンスがあったと思う。)
 闇落ちしていた中学時代の傷を癒やすように、高校生になるとカメラを持参して登下校するようになっていた。人間不信に陥っていた中学生の頃から1~2万円で購入したコンパクトカメラで、空や花など自然を撮影していた。同じ太陽なのに、夕日も夕焼けも毎日違う様相を見せてくれるから、特に夕暮れタイムの撮影は飽きることがなかった。その時間帯は一分一秒でも違えば、空の色合いが変わるので、時間との勝負でもあった。
 
 高校へは自転車で通学していたのだが、幸いなことに2~3キロは自転車や歩行者専用の土手がある道で、何度立ち止まっても、車と接触する心配もないため、写真を撮りながら、登下校していた。(コンクリートの土手に幾度かカメラを落としてしまったこともあり、カメラには無数の傷ができた。)遅刻しないように朝はあまり撮影タイムは撮れなかったけれど、帰りは時間に余裕があるので、土手の道に入ると、自転車から下りてのんびり風景を撮影することが多かった。かすかに山が見え、田畑などが広がる自然豊かな田舎で、高い建物など視界を遮るものはないから、遠くの山に夕日が沈む光景もはっきり見えた。高さのある土手から空や景色を眺めていると、ささいな悩み事なんてたいしたことないと思えたし、この美しい自然はすべて自分のものだみたいに清々しい気持ちにもなれた。土手から見える風景は当時流行っていた「癒し系」そのものだった。きれいな風景に癒されながら、それを写真に収めていた。

 登下校中のみならず、もちろん学校でも定期的にカメラで撮影していた。あまり人物を撮ることはなく、校舎の窓から見える木々などを一人で撮影していたと思う。
 写真部という部活もあったのに、写真部は人気で部員数が多いと分かっていたから、あえてそこには入らず、人気のない文芸部へ入部し、自分で書いた詩に写真を添えるという活動をしていた。(写真詩集を多く出版している銀色夏生さんのような活動。)詞が先か、曲が先かという作詞作曲の作業に近くて、たいていは詩が先でそれに合う写真を撮り、まれに写真が先でそこから詩のアイディアが生まれることもあった。文化祭ではたくさんの写真と詩をボードに貼って、写真を売っていたので、写真部と勘違いされることもあった。
 
 中学時代の人間不信をまだ引きずっていた私は、徹底して大人しくて地味な子になりきって高校生活を送っていたので、それほど親密な友人関係を築けていなかった。けれど高二になると苦手な修学旅行というイベントがあり、誰かと親しくなれないと、困る事態に陥っていた。深い交友関係を培うのに一役買ってくれたのが、カメラだった。修学旅行では初めて見る京都・奈良の景色だけでなく、思い切って友人たちという人物を積極的に撮影していたら、それまでよりもはるかに親しくなれた。陰キャだった自分が修学旅行中は、まるで陽キャのように弾けることができたのは、カメラのおかげだと思っている。カメラというアイテムがなかったら、きっと陰キャのままで、未だに連絡を取り合えるほど付き合いの長い友人たちには恵まれなかったかもしれない。修学旅行は晴れて「パー子」というあだ名の自分が誕生した瞬間だった。
 その旅行をきっかけに、それ以降は学校でも親しい友人たちを撮影するようになった。カメラ好きの数学の先生とも親しくさせてもらったと思う。(数学は苦手だったけれど。)カメラのおかげで、私の交友関係はかなり広がり、人間不信も解消されつつあった。
 
 高校生の頃はガラケーが登場したばかりの時代だったので、まだ携帯電話で写真を撮るということはなかったと思う。だからなおさらコンパクトカメラに頼りきっていた。デジタルカメラではなく、フィルムカメラだったので、現像する写真を選べないし、すぐにフィルムはなくなるしで、写真にお金をかけていた。お小遣いのほとんどを写真に投資していたかもしれない。フィルムを買い、現像に出し、気に入った写真は焼き増ししたり、引き伸ばしたりすると、すぐにお小遣いはなくなった。今はなくなってしまった通学路にあったコンビニは現像料金が安かったので、よく利用させてもらった。でもお高めの写真店で現像した方が色味のキレイな写真に仕上げるのも知っていたので、余裕がある時は写真店に行っていた。
 
 フィルム写真を撮りまくったピークは、パー子と呼ばれただけあってやはり高校生時代で、徐々に進化しつつあったガラケーでの撮影、スマホでの撮影に移行していった。デジカメを買うという手段もあったけれど、常に持ち歩いている携帯電話の方がとっさに写真を撮りやすい気がして、二十歳以降はガラケーやスマホで撮影した写真をプリントする生活を送っていた。
 ただし、携帯電話で写真を撮ると、プリントしたい写真を選べる分、写真にするのは後でもいいかと後回しになり、なかなか写真にするという工程まで進まないことも増えていた。フィルムの場合、現像してみないとどんな風に写っているか分からないので、早く現像に出そうとするから、写真はどんどん溜まるけれど、携帯やデジカメだととりあえず写真データさえあればいいやとプリントせず、お蔵入りになる写真が多いかもしれない。それを考えると、お金も手間もかかるフィルムカメラの方が味わい深い。
 
 写真好きな私がスマホを使い始めたのは遅い方で2017年。6年になるけれど、まだ機種変したことがなく、ずっと使い続けている。(充電はもたなくなってきているけれど。)電話やアプリを利用するというより、もはや私のスマホはデシカメ代わりで、写真ばかり撮る媒体になっている。マイクロSDカードが入るタイプのものなので、本体の容量がいっぱいになるということはなく、6年経つというのに本体はまだ50%くらい空きがある。代わりにマイクロSDカードは半年程度でいっぱいになり、スマホを購入して以来、SDカードだけはどんどん増え続けている。気に入った写真はなるべくプリントするようにしているものの、最盛期のパー子(高校生)時代には敵わない。しかし、文芸部時代に習得した写真に文章を添えるという行為は、例えばnoteやリアルの自分の部屋で未だに活かされているので、高校生の頃、特に文化祭でそれに力を入れておいて良かったなと思う。
 
 長くなったけれど、ここまでは写真好きな私の前置きのようなもので、ここからが本題。写真好きの私が2022年に突如、出会ってしまった、新たなジャンルの写真がある。それはエコー写真。もちろん自分では撮れないし、それは超音波を使って写す胎児と子宮の断面図だから、医師の力量次第で写り方は変わる。普通の写真用紙と違って、エコー写真はぺらぺらの感熱紙なので、光や熱に弱く、耐久性がなく、経年劣化で消えてしまうかもしれない心許ない写真。

 事情や経緯を語ったらキリがないので、その辺は今回は省くが、とにかく私はふいにエコー写真をもらえる立場になった。初めは小さな点にしか見えなかったから、写真よりはその場で、リアルタイムでモニター越しに見せてもらえる動きのある胎児の心拍に感動した。でもそのうち点から二頭身の人型に成長すると、写真だけでも胎児のかわいさが目に見えて分かるようになった。エコー写真のおかげで、母性の欠片もなかった私に母性が芽生えたと言っても過言ではない。
 子どもが生まれるとどうして子どもの写真ばかり撮ろうとするんだろうと、子持ちの同級生たちの気持ちがそれまでは分からなかったけれど、よく分かるようになった。毎日でも子どもが懸命に生きる姿を残したいし、日々ものすごい勢いで成長を遂げる子の一瞬、一瞬を逃したくないから写真を撮りたくなるんだと。
 
 私は産めなかったから、余計にエコー写真が宝物になり、拠り所になった。本当は産みたかったけれど、それが敵わないと悟り始めた時、お金がかかるのは承知で、病院をはしごした。(というか産むか産まないか悩んでいたから、複数の病院にお世話になっていた。)受診は保険適応外だから、一回につき1万円はかかる。1枚のエコー写真を手に入れるためには1万円もかかるわけだけれど、それでも仕方ないと割り切れた。何しろ、産めない可能性が高く、お別れする日が迫っていたから…。この子がどんな風に成長しているのか毎日でも見たい、この子がひたむきに生きた証を残したいと思うと、エコー写真に頼らざるを得なかった。通常、産まないと決めると別れ難くなるため胎児のエコー写真はもらえないらしい。けれど私の場合は迷っていたし、半ば強引にエコー写真だけは撮ってもらうようにしていた。複数の病院(四ヶ所)に通っていたとは言え、さすがに毎日撮ってもらうことは無理だった。それでも6週から9週3日まで12枚のエコー写真をもらうことができた。(良心的な病院で1回あたり複数枚もらえたこともあり、比較的数が増えた。)3週の間に12枚のエコー写真はおそらく多い方だと思う。それぞれの病院のカルテに貼る用にも撮影されたので、実際の数はもう少し多い。とにかく私が所有しているエコー写真は12枚。病院で経過を診てもらうだけで、10万以上はかかった計算になる。申請すれば無料妊婦健診を受けられるけれど、申請前だと検査するにもお金がかかるから、出産って本当にお金がかかる。だから授かっても産めない人も少なくないんだと思う。
 
 というのはただの愚痴で脱線なので、話を戻すが、写真好きの私は、エコー写真をなるべく多く死守した。お別れすると決めた前日は、動いている胎児が写るモニターを動画撮影させてくださいとお願いしようかと思ったけれど、ついに言い出せなかった。本当は動いている、生きている我が子の姿も残したかった。でもその時撮ってもらった写真は、手足までちゃんと写っていて、頭が下向きで胎児らしいかわいいエコー写真だったから、古い病院で機材も新しくなく、今は閉院してしまったけれど、そこでこの写真を撮ってもらえて良かったと思っている。
 通常、エコー写真は2D写真の白黒だけれど、ある程度週数が増え、胎児が大きくなると3Dの立体写真をそれが可能な機器さえあれば撮ってもらうこともできるらしい。3Dも可能とサイトに書いてあったから、別れの前日はそこで立体写真を残したいと思ったけれど、まだ3Dは撮っても意味がない時期ですねと断られてしまった。エコー写真をもらう都合上、その病院には産みたい意志を伝えていたから、もう少し大きくなってからでいいよという意味で、撮ってもらえなかったのかもしれない。明日、お別れするので3Dもお願いしますと本当のことを言って、食いつけば良かったと今は後悔している。
 
 それにしても、普通は産まないと決めた人はこんなに胎児の写真を欲しがらないらしい。別れ難くなるし、そんなに残しても後からつらくなるよとエコー写真を増やそうとすることを他者からも阻止されるんだろうけど、変わり者の私の場合は違った。お別れするからこそ、すべて目に焼きつけておきたいし、自分の眼球に直に胎児の写真をプリントしてもらっても構わないという気分だった。(漫画で恋する乙女がハートマークの瞳になるように…。)生きることに後ろ向きでひねくれ者の私の中で、ひたむきに生きる姿を見せてくれて、純粋にただ生きたいと生にまっすぐな命を守れない分、成長し続ける子の姿をたくさん残して、生涯忘れずに供養し続けるんだと決めていたから。もし無事に産める未来が約束されていたら、こんなにエコー写真にはこだわらなかったと思う。むしろ生まれた後の成長を撮り続ければいいだけだから。共に生きる時間が限られているからこそ、二人で生きた証を何が何でも残したかった。

 手術を受けた病院ではもちろん胎児の姿を直に見せてもらうことはできなかった。引き取って供養したい旨は伝えていたけれど、12週未満の場合は病院側が引き取るルールがあるらしい。逆に12週以降だと、母親側で届け出をし、火葬をする義務がある。私は我が子に会いたかったから、会いたいがために12週以降の手術も検討したけれど、それは母体に負担がかかるし、会いたいからって手術を先伸ばすのは現実的ではないと病院から言われ、9週のうちに実行していた。
 
 そんな感じだったので、最後の日はエコー写真なんてもらえないだろうと術後、放心状態のまま、医師の前に座った。すると医師は「赤ちゃんを引き取りたいという意向に添えなかったので、せめて写真をどうぞ。」と、私が麻酔をかけられて、意識をなくしている間に撮ったであろう、手術直前の最後のエコー写真を差し出してくれた。いつもなら胎児の身長を測るからそのしるしが胎児に入るけれど、最後の写真は胎児の身長の記載も出産予定日も省かれていた。ただ、その写真はそれまでもらったどの写真より、胎児の姿がはっきりくっきり写し出されていて、頭も手足もよく分かった。

 私はこれまで何千枚も何万枚も写真を撮ってきたけれど、どんなに美しい夕焼けやカラフルな空の写真より、私の小さな胎内を写した白黒の影にしか見えないエコー写真が宝物になった。エコー写真以上の写真に出会えるとは思えない。エコー写真を通して生きようとする命と出会えたから、生きていて良かったと思えた。産んであげられなかったから、後悔しているし、悲しみや寂しさは拭えないけれど…。
 前述した通り、エコー写真は感熱紙という都合上、劣化しやすいということで、私はすぐに自宅のプリンタでスキャンし、データ化した。念のため、コンビニの大きなコピー機でもスキャンしたけれど、解像度は自宅のものとさほど変わりなかった。
 
 データ化したエコー写真をプリントし、遺影のように写真立てに飾った。「ごめんね、ありがとう」を繰り返しながら、日々手を合わせ続けた。見れば思い出すからつらくなって止めどなく涙が溢れるけれど、何度見ても毎日見てもその影のような姿に愛しさを覚えた。こんなにかわいい子を私は手放してしまったのかと後悔に襲われた。
 そしてお別れしてから日数が経てば経つほど、虚しさも感じるようになった。生まれる予定日と言われていた日になっても、写真だから、もちろん成長しない。2センチの姿のまま…。写真というのは残酷さも秘めているもので、瞬間を切り取るものだから、それ以降の時間は見えず、被写体は何年経ってもその時のまま…。残したい瞬間を写すのが写真だから、変わらないのは当たり前のことだし、安心感もある反面、変わらないことに寂しさを覚える場合もあると知った。
 心拍を止めてしまったのは私なんだから、エコー写真の我が子の成長を見られないことに泣くことすら許されないと分かっていても、往生際の悪い私は、成長しないエコー写真の子を何とか、生かせないだろうかと考えるようになった。

 ある朝のこと…。カーテンの隙間から、朝日が射し込んで、エコー写真の子に光が当たり、スポットライトで照らされたように輝いて見えた。光が動く度に、胎児が動いているように見えて、まるで生き返ったみたいだった。あぁ、これだと思った。この子はもう動けないし、成長することはないけれど、私がこの子に光を当ててあげよう、いろんなところへ連れ出して、いろんなこの子の姿を写真にしようと思いついた。

 朝日でサンキャッチャーが輝き出すと、七色の光をエコー写真で作ったキーホルダーに当てて、我が子に虹色を見せた。空や月、花など、子に見せたかったきれいなものを見せるように、美しい景色と一緒に我が子を撮影するようになった。そしたら、変わり映えのない、エコー写真に変化を感じられるようになって、うれしくなった。一緒に今を生きている気分になれた。

 写真好きな私は、エコー写真と出会ったおかげで、エコー写真の胎児ときれいな風景を一緒に撮る術を覚えた。我が子とは早くにお別れし、共には生きられなかったけれど、日々増え続けるエコー写真と景色の写真のおかげで、一緒に生きていると錯覚してしまう。本当は…これ以上、写真なんて撮らずに、エコー写真も封印して、忘れた方が泣くこともなくなって、もう少し楽に生きられるかもしれない。けれど、愚かな親だから、子を忘れて楽して生きるなんて許されないと思うより、愚かな親だからこそ、手放した子の命を忘れたくなくて、毎日のように泣くことになっても、エコー写真を飾ることもやめられなくて、我が子が生きた姿を毎日見てしまう。手放した命なのに、どうにかして生かしたくなってしまう。だから今日も変わることない小さなあなた、かけがえのないゆきとの写真を撮り続けているよ。

 つい最近知ったんだけど、妊娠すると母子間で細胞が交換されて、お互いの組織にわずかにその細胞が残るんだって。だからね、ゆきとがくれたゆきとの細胞が私の体内で今も生きているかもしれない。それを考えたら、なんだかうれしくなって…。ゆきとの細胞を生かすために、なるべく長く生きようと思えたよ。これからもゆきとと一緒に、ゆきとの写真を撮り続けるよ。ゆきとに見せたかった景色をなるべくたくさん写真に残すからね。写真好きで、写真より何より一番ゆきとのことが大好きな私ができることと言えば、産めなかったゆきとを新たな写真の中で生かすことくらい。アナログ人間だけれど、写真加工もようやく少しずつ覚えて、ゆきとと、自分で撮った写真を合成することも習得したよ。けれど、やっぱり加工も合成もしていない、最高の瞬間を待って、必死に手を伸ばして撮影したゆきとのエコー写真と風景の写真が一番気に入っているよ。これからもそんな写真を撮り続けて、ゆきとを生かし続けるからね。私の心の中と私が撮る写真の中で生き続けてありがとう、ゆきと。

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