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『引きこもりのヒーロー 宇田川さん』「おかえりモネ」&「なないろ」物語

 ナナは私の友だちで、姉妹のようであり、おばあちゃんみたいな存在でもあった。野良猫だったナナは私のおじいちゃんとおばあちゃんが経営する銭湯「汐見湯」の近くに出没することが多く、時々私もエサをあげたりしていた。
 ある秋の台風の夜。雨や風にも負けず、いつものように汐見湯の周辺をうろうろしていたナナを見かけたおじいちゃんとおばあちゃんは、気の毒になり、ナナを一晩だけ汐見湯に泊めてあげることにした。二人に慣れていたナナは喜んで、おじいちゃんが用意したみかんの箱の中にすっぽり収まって、すやすや眠りについた。
 台風一過でよく晴れた翌朝、ナナは汐見湯から勢いよく飛び出すと、しばらくして小さなネズミと野菊を咥えて、また汐見湯に現れた。泊めてもらったお礼のつもりだったのだろう。誇らしげにネズミを置いたものだから、おばあちゃんは「ありがとうね」と言ってナナの頭を撫でた後、小さな野菊は小瓶に挿し、ネズミはこっそり処分した。その日の夜も、ナナは汐見湯にやって来て、じっと入り口付近に座り続けていた。ナナの熱意に押されたおじいちゃんとおばあちゃんは汐見湯でナナを飼うことに決めた。
 「ナナ」と名付けられた三毛猫はいつしか汐見湯の看板猫になっていた。お客さんたちからもかわいがられた。おじいちゃんとおばあちゃんの家の近くに住んでいた私は、毎日のようにナナに会いに行くようになった。ひとりっ子の私はずっとお姉ちゃんか妹がほしかったから、ナナとは本当の姉妹のように仲良くなった。ナナはかけがえのない大切な友だちだった。
 初めは若かったナナもどんどん年老いて、私が中学三年生になる頃には姉妹どころか、おばあちゃん的存在になっていた。もう木登りすることも、ネズミを捕ることもなくなっていた。ちぐらの中で眠っている時間が増えた。それでも私が汐見湯を訪れると、足元にすり寄って来て、ごろごろ喉を鳴らしてくれた。私はそんなナナのことが本当に愛しかったし、このままずっと一緒にいられたらと願っていた。
 けれど、受験を控えた中三の冬。雪が舞う寒い夜に、ナナは天国に旅立ってしまった。老衰で、あまり苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りについた。まるで本当にただ眠っているだけなんじゃないかと思えて、しばらくいつものように撫でていたけれど、徐々に体は冷たくなり、ナナの死を実感すると、私は汐見湯を飛び出していた。気付けば泣いていた。
 受験どころじゃないと思った。別に高校なんて行けなくてもいいんじゃないかと投げやりになっていた。ナナという友だちを失ってしまった私はひどく落ち込んでいた。

 そんな私を救ってくれたのがヒロくんだった。ヒロくんはおじいちゃんとおばあちゃんの知り合いのお孫さんで、私と同い年の男の子。シャイなのか元々無口であまり積極的に自己主張するタイプではなく、ひとりで絵を描いていることが多かった。私は時々ヒロくんと顔を合わせていて、話しかけてもそれほど会話には乗ってくれないし、仲良しとは言えないかもしれないけれど、ヒロくんの描く絵が大好きで、一緒にいる時は絵を描いて過ごすことが多かった。中学生になるとさらに口数は減り、他の人から見れば何となく近寄り難いオーラさえまとっていたけれど、私は彼の絵が好きだから、会えば相変わらず側にいた。
 ナナが死んでしまったことを知ったヒロくんは、落ち込んでいる私を励まそうと、素敵な贈り物を用意してくれていた。それはナナにそっくりのイラストと、一通の手紙…。
「高校受験一緒にがんばろう。僕もがんばるから。」
ヒロくんは言葉を発することもなく、ただ黙って私の肩に触れて、手紙とイラストを差し出てくれた。短い文章だったけど、なぜかとても心が温まった。達筆なヒロくんの思いのこもった字に救われた気がした。そしてナナにそっくりの水彩画は、私の宝物になった。
 
 ナナのイラストと力強い文字に勇気付けられた私は、それをお守りに持参して、無事に受験することができた。それ以来、ヒロくんは私にとってヒーローそのもので、やさしい彼は特別な存在になった。
 積極的に話しかけても、ヒロくんはやっぱり無口なままだった。ほとんどしゃべってはくれなかった。でも隣で絵や漫画を描いていても、邪魔にすることもなかった。だから私のことを受け入れてくれていると信じていた。ヒロくんの側にいたくて、真似をして、絵を描き続けていたせいか、それなりにデッサン力が身についた。ヒロくんは美大を目指しているという。私も美大を目指すことにした。

 ヒロくんの画力なら、美大は確実に合格するし、画家にでも漫画家にでもなれる才能の持ち主だと私はずっと憧れていた。正確なデッサン力だけでなく、そこに人柄もよく表れていて、やさしく温かみのある絵に私は心奪われていた。私だけじゃない。実際に、ヒロくんは高校時代も絵で何度も入賞し、将来はきっと画家になるに違いないと期待もされていた。
 私はというと、ヒロくんほどの才能はなく、ただ彼の側にいたくて、真似して描いていただけだから、本気で美大に行きたいなら、もっと基礎を身につけないといけないレベルだった。夏休みは夏季講習に通い、絵の勉強に明け暮れた。自分にも彼のように実力と才能があればいいのにと、ヒロくんの絵に嫉妬するようにもなっていた。それくらい彼の絵には見る者を惹きつける何かが宿っていた。

 ヒロくんはあっさり美大に合格した。私は苦労に苦労を重ねて、ヒロくんと同じ美大に何とか入学することができた。高校までは違う学校で、たまにしか会えなかったけれど、これからは同じ学校に通えて、きっともっと仲良くなれるだろうと思っていた。けれど、同じ大学に入ったからと言って、距離はそれほど縮まることはなかった。
 ヒロくんは友人を作ろうともせず、黙って絵を描くことだけに取り組んでいた。絵を描く前は決まって、身の回りを整理整頓し、掃除もして、綺麗な環境でキャンバスに向き合っていた。一旦絵を描き始めると、没頭するあまり、あんなに綺麗に整えていた周囲はあっと言う間に散らかり、絵の具も飛び散り、服も顔も絵の具まみれになった。自分や周囲がどんなに汚れても気にすることはなく、キャンバスだけは完璧な美しさを保っていた。自分の絵に磨きをかけていた。

 ある日、ヒロくんと一緒に遅くまで大学に残って絵を描いていた夜のこと。自分はまだ完成途中だったけど、ヒロくんが先に描き終えて帰ろうとしていたから、一緒に帰りたくて、筆を置いた。
 さっきまで晴れていたのに、雨が降り出していた。チャンスかもしれないと思った。私はいつも折り畳み傘を鞄の中に忍ばせていたけれど、傘を忘れたフリをした。
「雨…降って来ちゃったね。どうしよう…。」
ヒロくんと相合傘で帰るチャンスかもしれないと思ったから、わざと傘を持っていないフリをした。ヒロくんもいつも折り畳み傘を準備していることは知っていたから、傘に入れてもらえるかもしれないと思い、空を見上げながら、そう呟いてみた。
「傘…良ければこれ使って。」
案の定、ヒロくんは折り畳み傘を鞄から出してくれた。
「いいの?ありがとう。じゃあ一緒に帰ろう。」
そう言って傘を手に取った瞬間、
「じゃあ、僕はここで。またね。」
そう言って、彼は雨降りの中、駆け出してしまった。
「えっ、ちょっと、ヒロくん、濡れちゃうよ?」
「僕はいいんだ。どうせ絵の具で汚れてるし、雨でさっぱりした方がいいから。それに汐見湯に寄ってくし。」
なんて言って、さっさと一人で帰ってしまった。

 私は雨に濡れながら駆けていく彼の後ろ姿を呆然と見つめながら、ヒロくんが貸してくれた傘を開いた。そして鞄に忍ばせている折り畳み傘を見て、ふっと笑ってしまった。
「ヒロくんにはこんな姑息であざとい手は通用しないか…。」
なんて浅はかな自分が惨めに思えた。ずっとヒロくんの絵と背中を追いかけて、やっとの思いで同じ学校に通っているけれど、私は全然ダメだなと自嘲しながら、彼が貸してくれた傘を差して、とぼとぼ家路についた。

 ヒロくんとは親しい間柄になれないまま、就職活動を始める時期に差し掛かっていた。私はともかく、ヒロくんなら、芸術関係の仕事に就けるだろうと思っていたけれど、実際はそう甘い世界ではなく、美大を卒業したからと言って、芸術系の仕事に進める人はごく一部の人に限られていた。実力、才能に加えて、運やコミュ力もある程度、必要なのが就職活動だ。コミュ力のないヒロくんは、そもそも就職活動に苦戦を強いられていた。どんなに絵が上手くても、結局、人とうまく関われないと、社会人としては通用しない。ヒロくんは同級生にだいぶ遅れて、やっと受かった一般企業に就職することになった。

 卒業した時、二人そろって汐見湯に行くと、初めてヒロくんから本音を打ち明けてもらえた。
「ずっと…こんな僕の側にいてくれてありがとうね。」
はにかみながら、ヒロくんはぽつりぽつり話してくれた。
「そんなことないよ。私の方がただ、ヒロくんの側にいたかっただけだし…。勝手に側に居続けてごめんなさい。」
ヒロくんは少し考えてから、ゆっくり話し始めた。
「僕さ…小学生の頃に学校で唯一仲良しの友だちがいたんだ。その子とは親友だと思って、何でも話していたんだけど、ある時から急に無視されるようになって…。」
「そんなことがあったんだ…。」
「うん、それで、たぶん何でも話し過ぎて、嫌われちゃったかな、傷付けちゃったかなって思うようになって…じゃあ僕は何も話さない方が誰も傷付けずに、嫌われずに済むんじゃないかと考え始めたら、何も話せなくなってたんだ。」
ヒロくんはそう言うと、寂しそうに微笑んだ。
「そうだったの…。だからヒロくん、普段あんまりしゃべらないんだ。私もついつい話しかけてしまう方だから、うざいなとか嫌われるかもって思うことあるけど、でも、大切な相手には自分の思い伝えたいし、それにきっと分かってもらえるって信じて話しかけてるよ。きっと、その友だちには何か事情があって、別にヒロくんのことを嫌って無視したとかではないと思う…。小中学生って友だちと気まずくなるなんて、しょっちゅうあることだし。」
「ありがとう。なっちゃんはさ、陽だまりみたいな人だから、そのまま、明るいままでいてよ。僕はその温かい明るさに救われてたよ、ずっと。なっちゃんに話しかけられて嫌な思いする人はいないと思うんだ。僕の場合はそもそも暗いし、空気読んで話すの苦手だし、性格に影があるから、人から好かれることはないと思う。」
「私のこと、そんな風に思ってくれて、ありがとう。ヒロくんは無口でやさしい所がヒロくんらしくて私は好きだよ。中学生の頃、ナナが死んで悲しんでいた時、励ましてくれたのはヒロくんだったし、雨降りの時、自分は濡れるのお構いなしで、傘を貸してくれたり…。暗くて影があるとしてもやさしいヒロくんが私にとってはヒーローだし、灯台の明かりみたいな存在だよ。」
私の熱弁を聞いたヒロくんは少し驚いた表情をして、照れながら
「ありがとう。」
と言ってくれた。そして
「それぞれ就職先でがんばろうね。」
と励まし合った。

 ヒロくんは職場が近いということもあって、汐見湯で下宿することになった。私は、隣町で一人暮らしを始めた。週末ごとに汐見湯に顔を出して、おじいちゃんおばあちゃん、それからヒロくんと一緒の時間を過ごしていた。しかし平穏な日々は長くは続かなかった。一年もしないうちに、ヒロくんは汐見湯から忽然と姿を消してしまった。

 「おじいちゃん、おばあちゃん、ヒロくんがいなくなったってどういうこと?」
連絡をもらった私は慌てて汐見湯へ行った。
「最近ね、会社休みがちだったのよ。体調優れない日が多くて…。」
「そしたらこんな置手紙を残して、いなくなってしまったんだ。」
おばあちゃんとおじいちゃんから、ヒロくんが残した置手紙を受け取った。
「今までお世話になりました。一人でがんばってみます。」
相変わらず達筆なヒロくんの字だったけれど、以前と比べたら弱弱しい字に変わっている気がした。
「そんなに体調悪かったの?全然気付かなかった…。」
「菜津が顔出す週末は元気そうにふるまっていたからね…。」
「きっと、心配かけたくなかったんだろう。」
「一人でがんばるって言っても、どこに行ってしまったんだろう…。」
私は少し胸騒ぎを覚えた。こんな真冬の寒い夜に一人きり、行く宛てもないのにいなくなるなんて、まさか…と思い、
「ヒロくんのこと、探してくる。」
と言って汐見湯から飛び出した。

 ヒロくん、どこに行っちゃったの?こんな寒い夜に、どこに行ってがんばるって言うの?強がらないで、一人でがんばらないで、私のこと頼ってよ。元気そうにふるまうことなんてないから、私にも心配させて。どこにも行かないで、ただ側にいて…。
 なんて考えながら、あちこち探し回った。けれど、どこにも居なかった。ヒロくんがよく行っていた美術誌が揃う本屋さん、好きだと言っていた美術館はとっくに閉館時間を過ぎて閉まっていたし、それから…通った美大周辺も隈なく探したけれど、どこにもいなかった。私…ヒロくんのこと、知ったつもりで側にいたけど、全然知らない。彼のこと、何も知らなかったんだ。悩んでいることやつらいこと、何も知らないまま、週末はただ笑って過ごしていた。もっとちゃんと話を聞けば良かった。大丈夫?無理してない?って気付いてあげられたら良かった。私のこと、陽だまりみたいって言ってくれたのに、私は全然ヒロくんの役に立ててなかったよ…。ヒロくん、どこにいるの?遠くに行かないで。どこにも行かないで…。途中、石につまずいて転んで足を擦りむいてしまった。けれど痛みなんて感じている暇はなかった。すぐに起き上がって、またヒロくんを探し始めた。

 私は溜め息と後悔を繰り返しているうちに、ふとある場所を思い出した。夏になると睡蓮が見事に咲き誇る沼。クロード・モネをリスペクトしているヒロくんがよくモチーフに描いていた睡蓮の咲く霧沼…。
 霧沼は小さな山の開けた場所にある沼で、特に睡蓮の咲く夏は賑わう場所だけれど、こんな真冬にその場所を訪れようとする人はめったにいない。
 小雪が舞い始めた寒空の下、私はその沼へ向かった。沼辺にぽつんと佇む人影が見えた。
「ヒロくん!」
私は慌てて駆け寄った。
「ヒロくん、大丈夫?寒くない?」
着ていたコートを脱いで、ヒロくんの背中にそっと掛けた。
「なっちゃん…ごめんね。僕は大丈夫だから。こんな季節じゃ、やっぱり睡蓮は咲いてないね…。もう一度、見たかったんだけどな…。」
その言葉とは裏腹で、全然大丈夫そうじゃなかった。肩が震えていた。寒さのせいだけじゃないと思った。つらくて悲しくて震えているんだと気付いた。だから私はヒロくんの背中を後ろから抱きしめた。
「大丈夫なんて言わないで。無理しなくていいから。ヒロくんはただ、汐見湯にいてくれるだけでいいんだよ。睡蓮なら、今度の夏にまた見られるよ。」
「なっちゃん…寒いだろうから、コート着なよ。僕は平気だからさ。」
こんな時まで、自分のことより、人のことを心配するやさしいヒロくんがやっぱり好きだと心から思った。ナナを亡くし、寂しくて悲しくて震えていた頃、救ってくれたのがヒロくんだったから、今度は私がヒロくんを支えたいと思った。そう言えば、今日はナナの命日だった。
「こうして、ヒロくんの背中に触れていれば、寒くないから、全然平気だよ。」
「僕さ…もう会社無理かもしれない。どうしても人と関わる仕事が苦手で、人とうまくしゃべれなくて、仕事できなくて呆れられるし、同僚に迷惑もかけてるし…。上司からは注意されっぱなしだし…。僕なんて足手まといみたいだし、いない方がきっといいんだ。そんなこと考え続けていたら、夜もなかなか眠れなくて、苦しくなって、息ができなくなって…。」
ヒロくんは猫背になって、いつの間にか泣いていた。
「ヒロくん、ちょっと休もうよ。ヒロくんは十分がんばったから疲れてるんだよ。元気になるまで、汐見湯でゆっくりお湯につかって、体と心、温めようよ。そうやって生きてればいいんだよ。生きてるだけでいいんだから…。」
ヒロくんがこの世から消えてしまうそうで、私は彼をますます強く抱きしめた。
「なっちゃん…。ありがとう…。僕、汐見湯にいていいのかな…?」
ヒロくんは私の手にそっと触れながら、か細く尋ねた。
「いいに決まってるじゃない。ヒロくんの居場所は汐見湯なんだから、どこにも行かないで、おじいちゃんとおばあちゃんの側にいて。いてくれるだけで、本当に心強いんだから。」
「冷えるから、早く帰ろう。今は汐見湯がヒロくんの家なんだからね。」
ナナはこの沼がある山の桜の木の下で眠っている。もしかしたら、ナナがヒロくんのことを守ってくれたのかもしれない。ヒロくんがこの沼で何をしようとしていたのかは本当のところは分からないけれど、きっと死も考えていただろう。私はヒロくんの側にいたくて、会社を辞め、汐見湯で働くことに決めた。ヒロくんのためというよりは、おじいちゃんとおばあちゃんのためでもあった。高齢になった二人では切り盛りが難しく、若い人に入ってほしいと考えていたけれど、新たな人を雇えるほどの稼ぎはなく、銭湯をやめることさえ考え始めていた矢先だった。このまま、銭湯だけを続けるよりも、思い切ってリノベーションして、銭湯とシェアハウスを運営したらどうかと提案し、私の提案通り、汐見湯は銭湯とシェアハウスに生まれ変わった。

 私が側でヒロくんの心のケアをできれば、すぐに回復するだろうと安易に考えていたけれど、実際はヒロくんの心身の調子はどんどん悪くなる一方だった。往診してくれる先生を探して、お薬も処方してもらい、過呼吸やパニックがひどい時は、薬も使用した。
「明日こそ、仕事に行かなきゃ…。自分ができる仕事見つけなきゃ…。」
と焦るヒロくんに私は、
「仕事のことは考えなくていいから。今は休んでいていいんだよ。」
と無理に仕事に行かせるようなことはしなかった。仕事に行けないと、収入がなくなる。真面目なヒロくんは汐見湯に家賃を入れられなくなることを恐れている様子だった。だから私は
「じゃあ、汐見湯で働けばいいんだよ。お客さんが使っていない時、お風呂掃除してもらえると、すごく助かるの。」
とヒロくんに提案した。少しでもヒロくんに安心して汐見湯にいてほしかったから、働いてもらいたいというより、ここに居やすくなるにはどうしたらいいか考えて、そう言ってみた。すると、ヒロくんはその日の夜から、銭湯の掃除をしてくれるようになった。丁寧なヒロくんはすべてをピカピカに磨き上げ、桶なんかも綺麗にぴしっと並べてくれた。こんなに与えられた仕事に熱心になれる人なのに、ただ人とうまくコミュニケーションができないという理由だけで、働ける居場所のない社会に出るより、ずっと汐見湯にいて、掃除をしてほしいと思った。

 初めのうちは私とは口頭で話していたヒロくんだけど、少しずつ、私とさえ話すことはなくなり、自分の部屋にこもるようになった。掃除用洗剤がなくなっても張り紙に
「洗剤がなくなりそうです。補充お願いします。」
と書いて、筆談のみするようになっていた。

 社会と縁が切れて、かろうじて汐見湯の一室でひっそり息をして、出口の見えない薄暗いトンネルの奥で暮らしていたヒロくんに一筋の光を届けてくれたのが、モネちゃんだった。
 モネちゃんは宮城県・気仙沼市の出身で、震災の時、だいぶ苦しい思いをしたらしい。宮城県・登米市という森や自然豊かな内陸部で林業の仕事をしていたけれど、空に興味を持ち、気象予報士の資格を取得し、東京の気象会社で働くため、上京し、汐見湯で暮らすことになった。
 モネちゃんの友だちの明日美ちゃんも汐見湯で暮らしてくれることになった。明日美ちゃんは姿を見せず気配を隠したヒロくんのことを最初のうちは怖がっていたけれど、モネちゃんだけは最初から怖がらず、ヒロくんのことを受け止めてくれた。
 ヒロくんに職場で使う応援旗の制作を依頼してくれたり、気仙沼に戻って仕事をすることになった時は、ヒロくんが昔描いた絵を気仙沼の職場にも飾ってくれた。
 ヒロくんが憧れ続けたモネという画家と同じ名前のモネちゃんが、ヒロくんに社会との接点を与えてくれた。ヒロくんがまた社会とつながるチャンスをくれたのが、モネちゃんだった。

 モネちゃんが気仙沼で新たに取り組んだ事業、気嵐(けあらし)ツアーのパンフレット用にヒロくんに気嵐の絵を描いてほしいと依頼してくれて、ヒロくんが描いた気嵐がパンフレットに起用されたことで、絵が評判となり、少しずつ絵の仕事の依頼が舞い込むようになっていた。
 アパレルショップで働いていた明日美ちゃんもまた、洋服のデザインの仕事を始め、Tシャツ用に何か絵を描いてほしいとヒロくんに依頼してくれて、ヒロくんが描いたイラストがTシャツにも起用された。それを明日美ちゃんの彼氏で元モデルの気象キャスター・衛さんが番組内で着用してくれたものだから、そのTシャツに人気の火がついて、Tシャツのイラストを描いたヒロくんまで人気になった。
 絵が人気になったとは言え、ヒロくんは相変わらず、表に姿を現すことはなく、汐見湯の一室に引きこもり、黙々と依頼された絵を描き続けていた。
 まだ人付き合いが苦手なヒロくんに舞い込んだ仕事の依頼は私が仲介し、ヒロくんとクライアントを結ぶ、マネージャー役になっていた。
 モネちゃんの妹さんのみーちゃんが付き合っている漁師の亮くんのために、大漁旗をデザインすることもあった。
 モネちゃんと結婚し、登米で往診専門医として開業した菅波先生のために、先生が大好きだというサメの絵を描いて贈ったら、病院に飾ってくれた菅波先生のおかげで、その絵もまた評判となり、モネちゃんを始めとするみんなの協力のおかげでヒロくんはいつの間にか人気画家になっていた。

 そしてヒロくんの初個展が全国を巡回することになった。スタートの地にヒロくんは宮城を選んだ。菅波先生のいる登米が最初で、次にモネちゃんが働く気仙沼という日程だった。
 季節はちょうど夏。登米にはたくさんの蓮の花が咲く広い沼があるという。ヒロくんはそこで新たな絵を描きたいと考えるようになった。そのために、宮城に行きたいと、数年ぶりに外に出たいと言い出した。私はうれしかった。ようやく、ヒロくんに外に出たい気持ちが芽生えて。これも全部、モネちゃんたちのおかげだった。モネちゃんが汐見湯で暮らしてくれなければ、ヒロくんはきっとあのままずっと自分の力を発揮できないまま、自分の殻に閉じこもっていただろう。モネちゃんという光が現れて、登米に蓮の花が咲く沼があることも教えてくれて、ヒロくんに絵を描く仕事を与えるきっかけも作ってくれて、こうしてヒロくんを外に連れ出すことまでしてくれた…。ヒロくんが尊敬し続けた画家のモネと同じくらい、ヒロくんにとってモネちゃんは大切な存在になった。だから、直接お礼が言いたいと、ヒロくんは宮城の個展に限って、自ら顔を出すことを決めた。近所さえも何年も出歩いていない、ヒロくんが新幹線に乗って、バスに乗って、はるばる宮城へ行きたいというのだから、私は本当にうれしくて仕方ない。なるべく人の少ない夜に東京から二人で出発し、仙台に泊まった翌日、高速バスで登米に向かった。

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 個展会場には一足先に懐かしい面々が集まっていた。
「宇田川さんと菜津さん、無事に高速バスに乗れたかな…。」
菅波が心配そうに、時計を見つめていた。
「菅波先生、ご無沙汰してます。モネはまだですか?」
「莉子さん、おひさしぶりです。えぇ、百音さんはまだ来てなくて…。もうすぐ来ると思うんですか。」
仙台放送局でキャスターを務める莉子は宇田川の個展の取材に来ていた。
「何しろ、生で宇田川先生とお会いできるなんて、マスコミとしては初めてですからね。いろいろお聞きしたいことがあるので、早めに入りました。」
「宇田川さん、百音さんの友だちの方ならってことで、取材、お受けしたらしいですよね。」
「えぇ、ほんとに、モネには感謝してます。何しろ、今をときめく、正体不明の大先生ですから。」
そんな会話をしている二人の元に、明日美と衛が揃って現れた。
「内田くんに、すーちゃん、よく登米まで来られたね!二人とも忙しいんでしょ?」
「神野さん、お久しぶりです。すーちゃんがどうしても宇田川先生初個展会場の登米に行きたいってせがむのですから…。」
「ちょっとマモちゃん、私のせいにしないでよ。マモちゃんの方が宇田川先生の個展、楽しみにしてたじゃない?サインほしいなんて言ったりして、ほら例のTシャツも着てきたんですよ。このTシャツにサインもらおうとしてるんです。」
そう言って、明日美は衛が着ているTシャツを引っ張った。
「ペアルックなんですね。明日美さんも同じの着てるじゃないですか。相変わらず仲が良くて何よりです。」
菅波がそう言って、二人が着ているTシャツを見て微笑んだ。
「別に、ペアルック意識したわけじゃないんですよ。宇田川先生のイラストのおかげで、このTシャツが売れてるんですから、依頼者としては着用して当然です。」
「とか何とか言って、二人ともしょっちゅうペアの服、着てるじゃない?私、インスタでよく見てるし。」
莉子がそう言って茶化していると、今度は未知と亮が現れた。
「お姉ちゃん、まだ来てないんですか?」
「うん、まだなんだ。それにしてもよく来られたね。亮くん、漁の日程的に、今日は厳しいとか言ってなかったっけ?」
菅波が亮に尋ねると、
「みーちゃんから、どうしても二人で宇田川先生の個展に行こうってせがまれて…。それに大漁旗の件も直接、お礼言いたいですし。なんとか調整して来ました。」
と苦笑いしながら、亮は言った。
「私のせいにしないでよ。亮くんが宇田川先生に会いたい会いたいってずっと言ってたんじゃない?」
そう言って、未知は軽く亮の胸元にパンチした。
「まぁ、そうだけど…。だってさ、あの力強い文字に、カモメの絵まで描いてくれるなんて、泣けるじゃん?俺の宝物になったよ。おかげで本当に最近大漁続きだし。」
「内田くんとすーちゃんに続いて、こっちの二人もラブラブなんだ。いいわねーパートナーがいる人たちは。でもまぁ私は恋なんかより、今は仕事が充実していて、楽しくて仕方ないけどね。相手を探す暇も、デートしてる暇もないし。」
「あれっ?でも、莉子さん、三生が、莉子さんとデートしたとかうれしそうに報告して来ましたよ?」
明日美がそう尋ねると、
「はぁ?デート?あんなの、デートじゃないから。ただの仕事のうちなのに、DJ坊主さんは何言ってるのかしら?」
と莉子は全力で否定した。
「えっ?莉子さん、三生くんと付き合ってるんですか?」
未知たちは興味深々の様子で尋ねた。
「だから、違うって。DJ坊主が人気になって、取材しているうちに、流れで食事しただけ。だから仕事なの。」
「どうやら三生の片想いらしいな。」
亮がそう言って笑っていると、悠人もやって来た。
「おーみんな揃ってる。すげーまるで同窓会みたいじゃん。宇田川先生のおかげだな。」
「悠人くんは仕事で来たの?」
「うん、宇田川先生の個展が登米の次は気仙沼だから、視察にね。まさかこんなにみんなに会えるとは思ってなかったよ。」
そしてやっとモネも個展会場にやって来た。
「遅れてごめんなさい。気嵐の絵が評判になって以来、宇田川さんの絵が好きですとか応援してますってコメントがコミュニティFM宛てにもたくさん届くから、そのコメントをまとめてたの。宇田川さんに渡したいと思って…。」
モネはたくさんのコメントを印刷した紙の入った手提げ鞄を持っていた。
「宇田川さんと菜津さんはまだかな?」

 少し経つと菜津に手を引かれながらゆっくり歩く宇田川がやって来た。みんな初めて見る宇田川の姿に息を飲んだ。スリムで長身、色白で髪の毛は肩まで伸びていて、前髪も長く、さらに帽子を被っており、顔はあまりよく見えなかった。
「宇田川さん、菜津さん、ようこそ、登米へお越しくださいました。」
モネたちが挨拶すると、菜津は菅波に
「来て早々、申し訳ないんですが、ヒロくん、ちょっと疲れちゃったみたいで、休ませてもらうことってできますか?何しろ、こんな真夏のお日様を浴びること自体、久しぶりで…。宮城に行くことを決めてから、少しずつ家の周りを散歩して、外に出る練習はしていたんですが、今日は長距離だったので…。」
と言い、菅波は
「無理すると良くないですからね。こちらが控え室です。私が付き添いますから、菜津さんはゆっくり個展、ご覧になってください。」
宇田川の手をとると、ゆっくり控え室に向かった。
「ありがとうございます。じゃあ私は遠慮なく、ヒロくんの個展見させてもらいますね。」
「菜津さん、案内しますよ。私たち、早くに来て、すでにばっちり見学してましたから。」
「ありがとう、明日美ちゃん、衛さん。」
「私は、少し遅れてさっき来たばかりなので、一緒に見てもいいかな?すーちゃん。」
「私も!宇田川先生を献身的に支え続ける菜津さんのことも取材したいし。」
モネと莉子も三人に同行した。
「俺らも、また見て回ろうか。」
「あぁ、そうだな。宇田川先生の絵は何度見ても飽きないし。」
「心が洗われるよね。」
亮、悠人、未知も宇田川の個展を再度ゆっくり見て回った。

 そうこうしていると、三生、サヤカ、龍己も個展会場に姿を現した。
「三生くんにサヤカさん、それにおじいちゃんまで、今日会えるなんて思ってなかったから、うれしい。」
気仙沼で仕事をしているとは言え、実家から離れ、菅波と一緒に暮らしていたモネは龍己と会うのもひさしぶりのことだった。
「今日は、サヤカさんの山にいるハニーに会いに来たんだけど、今日から宇田川先生の個展が始まるっていうじゃないか。サヤカさんに誘われて来てみたんだよ。」
「サヤカさんの山にいるハニーって?」
明日美が不思議そうに首を傾げた。
「ほら私たちが一緒に汐見湯で暮らしていた頃、私が持っていたお父さんが作ってくれた木の笛が芽吹いたことがあったじゃない?それを今、サヤカさんの山に植えて、育ててもらっているの。その木がね、おじいちゃんにとってはおばあちゃんの生まれ変わりに思えるんだって。」
「だから、龍己さん、その木のことをハニーの木なんて呼んでいるんだよ。」
サヤカさんがニヤリと笑って言った。
「へぇー素敵なお話。モネが持ってたあの笛にモネのおばあちゃんが宿って、モネのおじいちゃんがハニーの木なんて言って大切にしてるなんて、なんかそういうのいいなぁ。」
「すーちゃんなら、きっとデザインした服に宿って、きっと僕にいろいろ口うるさく言ってくるんだろうね。」
衛はそんな風に言って笑っている。
「三生くんは?どうして今日登米に来れたの?忙しいとか言ってなかったっけ?」
莉子が尋ねると、
「登米のお寺の住職さんに用事があって来たんだけど、そう言えば今日から宇田川先生の個展始まるじゃんって気付いて、来てみたら、サヤカさんとモネのおじいちゃんにそこでばったり会ったんだ。」
と三生はうれしそうに言った。
「とにかく、宇田川先生のおかげで、こうしてみんな偶然再会できたってわけか。本当に宇田川先生に感謝しないとな。」
亮がそう言うと、菜津が口を開いた。

 「みなさん、今日は本当にありがとうございます。ヒロくんの個展にこんなにたくさんの方にお集まりいただき、感慨深いです。本当は、本人がお礼を伝えたいところですが、あいにく体調を崩しておりまして、本人から手紙を預かっていますので、代読させていただきます。」
みんなの視線が一気に菜津に集まった。
「僕はずっと引きこもりでした。今でも引きこもりです。なっちゃんに支えられて、かろうじて汐見湯で生きていました。不器用で人と接するのが苦手で、口下手で、根暗で、臆病者で…生きるのが下手くそで、気付けば傷だらけで、心は壊れてしまっていました。太陽を避けたくて、あまり眠れないけど、昼間はずっと横になっていました。そして月明かりを頼りに、夜、起きてひっそり生活していました。掃除をしたり、時々絵を描いたりしながら、息を潜めて、闇の中で暮らしていました。
そんな時、汐見湯にモネちゃんが現れて、真夜中掃除している僕に怖がりもせず、声を掛けてくれました。仕事で必要な旗に文字を書かせてくれました。それから、気仙沼に帰った後も、気嵐の絵を描く仕事を依頼してくれて、その後は、次から次へと絵を描く仕事が舞い込むようになりました。
本当にうれしかった。僕なんて社会から必要とされていなくて、誰の役にも立てなくて、むしろ社会の邪魔者だと思っていたから…。僕の絵や字を認めてくれて、書かせてくれて、それを仕事につなげてくれて、本当に感謝しかありません。
モネちゃんだけでなく、明日美ちゃんも衛さんも、僕が描いたイラストのTシャツを広めてくれてありがとう。
亮くん、僕の旗を持って、広い海を駆け巡ってくれてありがとう。僕は亮くんのような漁師と違って、本当に狭い世界で生きているから、旗を通じて僕自身も広い世界を見られている気がして本当にうれしい。お礼に送ってくれた気仙沼の新鮮な魚、とてもおいしかったです。なっちゃんが調理してくれました。
菅波先生、職場の病院に僕が描いたサメの絵を飾ってくれているそうですね。病気の人を励ますことができているなら、何よりです。
そしてサヤカさん、登米森林組合として新たな仕事を依頼してくれてありがとうございます。僕は木を扱ったことはないのですが、木の切れ端を使ったモザイクアートはどうでしょうか。木材を加工する時にたくさん出る切れ端はただ捨てられたらもったいないですよね。僕自身、切れ端みたいな存在なので、その切れ端も芸術の一部になれたら、こんなにうれしいことはありません。
一点、お願いしたいことがあります。僕はモザイクアートのデザインを担当しますが、報酬は要りません。代わりに、登米の引きこもりの人たちをモザイクアート作りに仕事として参加させてほしいのです。デザインの下地通りに、色違いの木を置けば、モザイクアートは誰でも作ることができます。僕は、モネちゃんたちのおかげで、こうして引きこもりのまま、社会と接点を持ち、仕事を与えてもらえるようになりました。登米の引きこもりの人たちにも、引きこもりのままでいいから、そのままでいいから、無理して社会に出なくていいから、でも仕事を与えてあげてほしいのです。登米の木材はモザイクアートに限らず、無限の可能性を秘めていると思います。コースターやペン立てなど、小物なら、家でも内職が可能かもしれません。家に引きこもったまま、仕事ができるように、僕はそういうデザインを心がけた、引きこもりの同志を支援できる仕事も考えたいと思っています。自分がそうしてもらったように、今度は僕自身が引きこもって悩んで苦しんでいる人たちに手を差し伸べたいと思えるようになりました。僕がこんな風に考えられるようになったのは、モネちゃん、明日美ちゃん、衛さん、亮くん、そして菅波先生、サヤカさんなど、皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。
幸運なことに、絵という、唯一捨てられなかった子どもの頃からの僕の信念を掬い上げてくれたのは、ここにいる皆さまです。まさか絵の仕事をいただけて、こうして個展まで開催していただけるなんて、ほんの少し前まで、夢でも見たことのない信じられない現実です。本当に自分の人生に起きた出来事なのか、未だに信じられません。こんな夢みたいな人生を、同志である他の引きこもりの方々に分けてあげたいのです。こんな僕らでも、引きこもっているからこそ、社会の役に立てることはあるんだよって、教えてあげたいし、彼らのことを信じてあげたい。僕が皆さまに信じていただけているように…。
引きこもりになっても、絵という信念だけは捨てなくて良かった。しゃべれなくなっても、文字を書くことはやめなくて良かった。誰かと関わることを完全に諦めなくて良かった。なっちゃんという身近に僕を信じて、見守って、支え続けてくれる人がいてくれて本当に良かった…。僕はこんな自分で良かったと、初めて心の底から思えます。引きこもりで良かったと。そうじゃなければ、皆さまの温かさに気付くこともできなかったと思うので…。
僕はこれからも引きこもりのまま、汐見湯で絵を描き続けます。こうして時々は社会に出たいと思いますが、基本は引きこもりのままでいたいです。なぜなら、引きこもりとしてもがきながら生きている人たちの道標になりたいから…。引きこもりでも大丈夫だよって励ましてあげたいです。そうやってやさしく手を取ってもらいながら、何とか生きている僕なので、今度は僕が引きこもりの人たちの支援をしたいです。もしも僕が絵を描くことによって、それが実現するとしたら、何より幸せです。
絵が僕を救ってくれました。絵を描き続けていたおかげで、モネちゃんたちに出会えました。そして仕事につながりました。そんな奇跡を今、苦しんでいる引きこもりの人たちに分けてあげたい。それが僕のこれからの夢です。どうか、その夢を叶えるため、これからもご支援よろしくお願いします。 宇田川」
菜津が長い手紙を読み終えると、拍手の音が鳴り響いた。
「宇田川先生…自分のことじゃなくて、他の引きこもりの人のことも考えていたんだ…。」
「自分が助けてもらった分、誰かの役に立ちたいって思っていたんだね。」
「あまり口に出して話せないだけで、熱い思いを持っている人なんだね。だからあんなに人を感動させることのできる絵を描くことができるんだ…。」
「サヤカさん、森林組合として宇田川さんに新たな仕事依頼していたんですね。」
モネが尋ねると
「あぁ、そうだよ。宇田川先生に登米の木で何か作ってもらえないかお願いしていたんだ。そしたら、捨てられてしまう木れっ端を使って、モザイクアートを作りたいなんてね…。先生らしいよ。先生からデザイン引き受ける代わりに、引きこもり支援をお願いされちゃったから、私も森林組合のみんなと一緒にまたがんばらないとね。」
サヤカはうれしそうに微笑んだ。

間もなく、
「菜津さん、宇田川さんだいぶ落ち着いたみたいです。」
控え室から菅波がやって来た。
「ありがとうございます。菅波先生。先生がいてくれて本当に助かりました。」
「いえ、僕はたいしたことできないんですが、最近、中村先生が紹介してくれた心療内科医の先生も時々、往診を手伝ってくれていて、彼から学ぶことが多くて、それが役立ちました。在宅で闘病していると、患者さんご本人だけでなく、ご家族も心が疲れてしまっている人が多いと感じたので、最近は、心のケアにも力を入れているんです。すみません、菜津さんにこんな話をしてしまって…。」
うっかり熱弁しすぎたと菅波は菜津に謝った。
「いえいえ、貴重なお話を聞かせてくれて、ありがとうございます。菅波先生は心のケアにも力を入れているんですね。私も、ヒロくんの具合が悪い時期は自分自身の心も疲れてしまった時がありました。登米はいいですね。菅波先生みたいな心のケアにも取り組む往診のお医者様がいて…。」
菜津は菅波の取り組みに感動した様子だった。

「宇田川先生、元気になられたようで何より。みなさん、これからお時間あるなら、うちに来て、食事でもどうですか?こんなに珍しい顔ぶれが集まる機会なんて、めったにないことですし。」
サヤカの提案で、個展を見た後、全員でサヤカの家に行くことになった。
「宇田川先生と菜津さんはとりあえず、ここで休んでいて下さい。みんなでご馳走を準備しますから。」
サヤカが二人にお茶を出していると、ニャーニャーと猫が菜津と宇田川の側に近寄ってきた。
「えっ…ナナ?」
菜津は驚いた。その三毛猫があまりにもナナに似ていたから。
「珍しいこともあるもんだ。その子は去年の台風の日からうちに住みついてしまって、飼い始めた子なんだけど、影猫で普段は私以外の人間にはあまり懐かない子なの。囲炉裏の周りが好きだから、名前はイロリ。私の心も温めてくれる囲炉裏みたいな存在なの。イロリ、お二人にはもう懐いたのね。」
そう言って、サヤカはイロリという名の三毛猫を紹介した。
「そうなんですか…。うちのおじいちゃんおばあちゃんも昔、イロリちゃんみたいな三毛猫を台風の夜から飼い始めたことがあって。ナナっていうんですけど、イロリちゃん、本当にナナにそっくり…。」
宇田川もまじまじとイロリを見つめていた。
「神さまが、巡り合わせてくれたのかもしれないね…。菜津さん、宇田川先生、イロリのことかわいがってやってください。」
イロリは菜津の膝の上に乗って、ゴロゴロ喉を鳴らしていた。

 「さぁ、食事の準備ができましたよ。宇田川先生は…もしも賑やかなのが苦手なら、この個室で召し上がれますか?私と龍己さんも、若い子らの邪魔しないように、年寄り同士、こっちで食べようって話してたところだから。菜津さんは遠慮せずに、みんなで楽しんでね。」
サヤカは気を遣って、宇田川を個室に招いた。
「ありがとうございます…。」
宇田川は帽子を外して、会釈した。
「それにしてもサヤカさん、あんたはやっぱり度胸があるもんだ。宇田川先生にいつの間にか仕事の依頼なんかして。」
龍己とサヤカは日本酒を交わしながら、談笑し始めた。宇田川は酒が苦手らしく、酒は断り、水を飲んでいた。
「私ももう歳だし、遠慮なんかしていられないと思って、登米の木をもっと有効活用するために、宇田川先生にお願いの手紙を書いたんだよ。そしたら、今日、あんなに素敵なお返事をいただけて、先生、本当にありがとうございました。登米の引きこもりの人たちをサポートすることもお約束します。」
「こちらこそ、ありがとうございます…。」
あんなに長く熱い手紙を書いた本人とは信じられないほど、宇田川は短い一言しか発しなかった。
「なるほどな、サヤカさんはやっぱりたくましいよ。わしもうかうかしておれん。耕治がやっと牡蠣の一通りを覚えてくれたから、現場は耕治に任せて、わしもそろそろ何か新しいことを始めたいと考えていたんだ。みーちゃんが牡蠣を使った新商品の開発を手伝ってほしいなんて言ってくれているし。その新商品のパッケージデザインを宇田川先生にお願いしてみようかな。」
龍己はそんなことを言って、笑った。宇田川は少し困ったようなそぶりを見せた。
「龍己さん、あなたもなかなかしぶとい年寄りだね。お互い、若い者に負けないように、最後までたくましくしぶとく生きてやろうじゃないの。」
酔いの回ったサヤカもそんなことを言って、笑った。宇田川は何も言わなかったけれど、こんなに活き活き元気に新しいことに挑戦しながら輝いて生きているお年寄りたちを見習って、自分もがんばらなきゃいけないと心に決めた。

 「で、三生は莉子さんのどこが好きなの?」
広間で食事しながら酒を酌み交わしていた亮たちが三生に詰め寄っていた。
「どこがって…まずは、とにかくかわいいだろ?明るいし。太陽みたいだし。それから仕事熱心で、自分の仕事に誇り持って取り組んでいる。かわいくてふわふわしてるだけの女の子じゃなくて、かわいいのに芯があって強いところに憧れるよ。」
素面の三生は真面目にそう答えた。
「へぇー三生くん、はっきり本人の前でそんなこと言えるんだ。すごい、度胸あるね。」
未知は三生に感心していた。
「莉子さんは…そんな三生じゃダメですか?私、友だちとして、三生のこと推します。いい奴なんですよ。」
酔っている明日美が莉子に絡んだ。
「だから、私は三生くんのことなんて、全然タイプじゃないから。そもそも今まで付き合った人たちとかけ離れているし…。それにいずれお寺の住職さんになる人じゃない?無理に決まってるわよ。」
「莉子さんも本人を目の前にはっきり言いますね…。」
菅波は莉子に圧倒されていた。
「三生、おまえ何か良いところ見せて、挽回しなきゃ。」
悠人が三生を励ました。
「良いところ?じゃあ…一曲歌っちゃおうかな。最近さ、俺またバンド始めたんだよね。輪音(りんね)ってバンドのボーカルしてるんだ。」
「えっ、三生、いつの間にまた音楽始めたの?」
明日美は驚いた。
「三生くんね、ラジオのDJ坊主が人気で、そのラジオで歌った時があって。そしたら、ますます人気になって。歌も上手いお坊さんがいるって最近評判なの。」
モネが明日美に説明した。
「俺さ…坊さんになるために、大学生の頃、バンド諦めたけど、でも坊さんになったおかげで、ラジオでDJやらせてもらえるようになって、歌ったら褒めてもらえて、またバンド組んで、本格的に音楽できるようになって…。俺さ、お寺継ぐこと決めて本当に良かったって今ではそう思えるんだ。坊主の仕事、DJの仕事、バンド活動と忙しいけど、でも本当に最近充実しててさ。みんなのおかげなんだ…。俺を慕ってくれる檀家さんとか、ラジオのファンの人たちとか、ここにいる幼馴染の友だちとか、それから一緒にバンドやってくれてるメンバーとか…ほんとにみんなに感謝だよ。ありがとう。じゃあ、一曲歌います。」
まるでライブMCのように語った三生はバンド活動を始めたばかりだというのにバンドメンバーで作ったというオリジナル曲を歌って、みんなの前で披露した。
「あれっ?この曲ってどこかで聴いたことあるような…。」
衛がスマホで何やら検索し始めた。
「案外、ちゃんとした良い曲だね。」
「三生の歌声だけじゃなくて、やっぱりバンド演奏も聴いてみたいな。」
「素敵な歌…。」
「あーほら、この曲!最近動画サイトでバズり始めた曲だよ。すーちゃん良い曲って褒めてたじゃん。」
衛が見つけた輪音の動画を明日美に見せた。
「えっ、これって三生の声だったの?全然気付かなかった…。たしかに良い曲って褒めた覚えがある…。」
「私もその動画、見覚えあるかも…。」
菜津もそう呟いた。
「へぇー三生のバンド、すでにけっこう人気なんだ。」
「すごいね、三生くん。」
亮と未知も動画を眺め始めた。
「歌のタイトルは…なないろ。素敵なタイトルだね。」
モネと菅波先生もスマホで動画を見始めた。
「みんな、俺の生歌ちゃんと聴いてくれよ。動画は後でいいからさ。それより、今度、気仙沼と登米でライブが決まったから、来れる人は是非来て。やっぱりこの曲はバンド演奏で聴いてほしいから…。」
「ライブまで決まってるなんて、三生、すごいな。莉子さん…三生の歌、どうでしたか?」
悠人が莉子に尋ねると
「まぁ、悪くないんじゃない。素直に良い曲って思ったわよ。今度、その輪音ってバンドも取材させてもらうから。」
となかなか好感触だった。
「莉子ちゃんの取材なら、いつでもOKだよ。でも取材抜きで、食事とかどうかな…。」
「取材抜きはありえないから。」
相変わらず、つれない莉子に三生は肩を落とした。

 「あの子たち、何やら楽しそうだね。」
「歌なんて歌ったりして、若者たちも元気で何より。」
隣の部屋で三生の歌を聴いていたサヤカと龍己が呟いた。宇田川もみんなの賑やかな声に耳を傾けていた。イロリは宇田川にも懐き、彼の膝の上に乗って、すーすー眠っていた。
「それじゃあサヤカさん、わしはそろそろお暇するとするよ。今日はありがとう。ハニーの木をこれからもよろしく頼むよ。今度気仙沼にも遊びに来さいん。宇田川先生も、登米と気仙沼を満喫してください。いつか本当にお仕事お願いするかもしれません。その時はよろしくお願いします。」
龍己はそう言って、部屋を後にしようとした。
「あの…モネさんのおじいさん…。今日はその…。こちらこそ、ありがとうございました。」
宇田川が龍己にぽつりとお礼を言った。龍己は宇田川に向かって、にこやかに微笑むと、肩にぽんぽんと軽く触れた。
「大丈夫。あんたもしぶとく生きな。宇田川先生は…どこかモネちゃんに似てるよ。モネちゃんもね、宇田川先生みたいな所があるんだ。」
「宇田川先生もモネも本当に人思いでやさしいからね。真面目だし。人の役に立ちたいってもがきながら生きている。私たち、年寄りはそんな若者たちを応援するのが生きがいみたいなものだよ。元気を分けてもらっているし…。だからね、龍己さん、私はめったに気仙沼へは行けないよ。モネたちがいつでも安心して帰って来られるように、登米の居場所を守らないといけないからね。それから龍己さんのハニーの木も私の山で預かっていることだし。」
そう言ってニヤリと笑うサヤカに対して龍己は
「あんたはやっぱりたくましい人だ。」
と微笑んだ。イロリを撫でながら、宇田川はそんな二人を微笑ましそうに眺めていた。

 「サヤカさん、御馳走さまでした。おいしかったし、楽しかったです。私たちはそろそろお暇しますね。」
明日美と衛、未知と亮、三生、莉子、悠人、それに菅波が帰り支度をしていた。
「あら、もう帰るの?せっかくだから今夜はみんな泊まって行けばいいのに。」
「私たち、今日中に東京に帰らないといけなくて、新幹線のチケットとってあるので…。」
申し訳なさそうに明日美と衛が言った。
「仙台に戻ってしなきゃいけない仕事が残っているので…。」
莉子がそう言って、頭を下げた。
「あれっ?莉子さん、そう言えば、宇田川先生の取材ってまだしてませんよね?いいんですか?」
モネが尋ねると莉子は
「菜津さんからいろいろお話伺えたし、宇田川先生に直接取材はまた今度にするわ。だって、疲れながらもはるばる登米まで来て、菅波先生やサヤカさんのおかげでやっと心休まった頃に私が取材なんてしちゃったら、また疲れさせるだけでしょ?宇田川先生には、宮城は居心地良かったって記憶に残してもらいたいから…。またいつでも来てほしいじゃない?また帰って来たいって思ってほしいし。」
そう言って、ペンやノートを鞄にしまった。
「さすが、莉子ちゃん。仕事熱心なのに、気配りも忘れない莉子ちゃんのそういうやさしいところも好きなんだよね。」
三生が莉子をベタ褒めした。
「すごいな…莉子さんのそういうところ、私も見習いたいです。」
モネたちも莉子の思いやりに感心した。

「私たちも、明日仕事だから、サヤカさん、また来ますね。」
未知、亮、悠人も帰ることにした。
「サヤカさん…百音さんだけ、今夜泊めてもらってもいいですか?」
菅波がサヤカにそうお願いした。
「もちろんいいわよ。菅波先生も泊まっていらっしゃれば良いのに。」
菅波はひさしぶりにサヤカとモネの二人きりにしてあげたかったのだ。
「僕は…急患の電話が入る可能性があるので、病院に戻ります。百音さんのこと、よろしくお願いします。」
菅波はそう言って、頭を下げた。
「サヤカさん、今夜はよろしくお願いします。」
モネも頭を下げた。
「大歓迎だよ。うれしいね。ひさしぶりにモネが家に泊まってくれるなんて。」
「サヤカさん、私たちもそろそろお暇します。登米の旅館…予約してあるので…。本当にありがとうございました。モザイクアートの件はまたヒロくんが手紙を書くと言っていますので、どうぞ今後ともよろしくお願いします。」
菜津と宇田川もそう言うと、おじぎをした。
「そうだ、宇田川さん、これ、気仙沼のラジオ番組宛てに届いた宇田川先生を応援するコメントをまとめて持ってきたので、良ければ後で読んでください。」
モネは宇田川にリスナーからのコメントを渡した。宇田川は「ありがとうございます」と一言いうと、頭を下げて、大切そうにモネから渡されたコメントの紙を抱えた。
「みんな、いつでもまた遊びにおいで。登米に来て、行く所に困ったら、うちに来ればいいんだから。みんなが帰ってくるのを待っているからね。」
サヤカは宇田川たちに向かってそう言うと、いつまでも手を振って見送っていた。

 みんなが帰り、静まり返った頃、イロリが我が物顔で乗っかって眠っているサヤカの布団の横に、モネは自分の布団を敷いた。
「モネと一緒に眠るなんて何年ぶりだろうね。ほら、今は猫柄のパジャマを着てるんだよ。」
そう言って、サヤカは以前着ていたクマ柄のパジャマに引け劣らないかわいい猫柄のパジャマを着て、布団に転がった。
「サヤカさんっていっつもかわいいパジャマ着てますよね。」
「冬は、少し前にモネがプレゼントしてくれた、ふわふわもこもこのパジャマが重宝してるんだよ。それを着ているとイロリもお気に入りで、私の上に乗っかってくるんだ。」
サヤカはまるで少女に戻ったように楽しそうにモネとガールズトークした。
「今日は…宇田川さんのおかげで、みんなと会えて、こうしてサヤカさんの家に来られて、泊まることまでできて幸せです。」
モネは懐かしいサヤカの家で横になり、しみじみしていた。
「引きこもりだった宇田川先生を救ったのはモネじゃない?だからモネと過ごせる今夜は宇田川先生がプレゼントしてくれた時間だと思っているよ。誰かの役に立ちたいってもがいていたモネが宇田川先生やラジオを通して気仙沼の人たちの役に立っているんだ。モネが日頃がんばっているご褒美みたいなものだね。今夜はありがとうね、モネ。」
「私…誰かの役に立てる人になれたのかな…。」
サヤカの話を聞いたモネがぽつりと呟いた。
「役に立っているよ。みんなの役に立っている。もちろん私の役にも立っているよ。こうして今でも私のことを忘れずに、駆け付けて、傍にいてくれてありがとうね。」
一緒に暮らしていた時より、少しだけしわが増えたように見えるサヤカの横顔に気付いて、モネはこう尋ねた。
「サヤカさん…ひとりで本当に寂しくないですか?」
「寂しくないよ。今はイロリもいてくれるしね…。」
サヤカは自分の布団の上で眠っているイロリをやさしく撫でながら言った。
「おじいちゃん…いつも言ってるんですよ。サヤカさん、一人暮らしたいへんになったら、うちで暮らせばいいって。イロリも連れて来ればいいって。私もみーちゃんも家から離れたし、部屋も空いてますし…。」
サヤカはふっと微笑んで呟いた。
「そんな心配されるほど年寄りじゃないよ。強がりなんかじゃなくて、本当に寂しくないんだ。いや…寂しいことは寂しいけれど、それは幸せな寂しさなんだよ。」
「幸せな寂しさ?」
「寂しいと感じるということは、こうしてモネや誰かと一緒に過ごした幸せな時間を思い出すからだろ?傍にいてくれた人を思い出せるから、一人になると寂しくなることもたしかにある。けれど、あー今度いつ会えるかなとか、また来てくれるって信じているし、また会えるって分かっているから、寂しい気持ちさえひっくるめて、丸ごと全部愛しいんだよ。寂しいと感じられることもまた一人暮らしの醍醐味さ。あ、今は二人暮らしだけどね。龍己さんから雅代さんの木も頼まれているし…おかげさまで一人でも忙しく、楽しく暮らせているよ。」
サヤカは幸せそうに笑って言った。
「そうなんですか…サヤカさんはやっぱり、たくましい人ですね。」
「さっき、龍己さんからも同じことを言われたよ。私はたくましいのが取り柄みたいだね。」
「私、サヤカさんと出会えたから、変われたと思うんです。宇田川さんみたいに痛みと孤独を抱えて、自分の殻の中に閉じこもってしまっていた時期もあったから…。サヤカさんと出会えなかったら、きっと人の役に立てる人にはなれなかったと思います。生涯、サヤカさんが私の目標です。サヤカさんみたいにたくましい人になりたい。それからおじいちゃんみたいにしぶとい人でありたい。」
「ありがとうね、モネ。あなたはもう大丈夫。私なんかより、人の役に立つ人になっているんだから。龍己さんみたいにしぶといし、私よりたくましく生きてるから、もう大丈夫だよ。でも疲れてしまったら、いつでもここに戻っておいで。そのために私はこの家を守り続けるから。モネの居場所は登米にもあるんだから、安心して。」
「サヤカさん…ありがとうございます。登米にはサヤカさんや森林組合のみなさんがいてくれて、仙台には莉子さんがいる。東京には宇田川さん、菜津さん、すーちゃん、朝岡さん、それから地元にはみーちゃんと亮くんなど幼馴染たち、家族、ラジオのリスナー…すぐ隣には光太朗さん…。みんながいてくれるから、私には帰れる場所がたくさんあるし、どこへでも行けるんです。私が東京に行くべきか、迷っていた時も、あなたの思う方へ行きなさいってサヤカさんが後押ししてくれたから、私、前に進めたんです。こうして歩み続けることができているんです。本当にありがとうございます、サヤカさん。」
モネとサヤカは寝る間も惜しんで、そんな会話をいつまでも楽しそうに続けていた。

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 翌日、登米の旅館に泊まっていた宇田川と菜津は、蓮の花を見るために、長沼を訪れていた。
「すごい、きれいな沼ねー霧沼よりもだいぶ広いし。」
菜津と宇田川は長沼をうっとり眺めていた。
「宇田川先生、小舟に乗って蓮の花を間近で見学できますが、いかがですか?」
二人に気付いた登米の個展担当者がやって来た。
「舟に乗って見られるんだって。ヒロくん、乗るでしょ?」
宇田川はこくんと頷いた。
「あっ、ちょうど良かった、藤沼さん。宇田川先生方を舟で案内してくれないかな?」
藤沼という名字を聞いた宇田川がピクリと反応した。藤沼という人もまた、宇田川という名字に反応を示した。
「広茂(ひろしげ)…広茂だろ?」
「智樹(ともき)…なのか…?」
二人はどうやら知り合いらしい。宇田川と菜津を乗せ、藤沼が蓮の花で満開の沼を案内し始めた。
「ヒロくん…藤沼さんって方と知り合いなの?」
菜津が戸惑っていると、
「はじめまして。広茂の小学生時代の友だちの藤沼と言います。広茂の彼女さんですか?」
藤沼が自己紹介した。
「小学生時代のお友だちなのね。私は…彼女なんかじゃないの。同じく、ヒロくんの友だちよ。」
菜津は慌てて藤沼に言った。何も話そうせず、困惑している様子の宇田川に藤沼が言った。
「広茂…ずっと謝りたかったんだ。小学生の頃、ごめんな。俺、別におまえのこと嫌いになったわけじゃないんだ。ただ…何となく、たった一度無視したら、気まずくなって、ずるずる仲直りするきっかけもなくしてしまって…。」
藤沼の説明を聞いた菜津はこの人が以前、ヒロくんが話していた気まずくなってしまったけれど、ヒロくんの大切な親友かもしれないということに気付いた。
「嫌われていたわけじゃないのか…何かまずいこと言ってしまったんじゃないかとか、傷付けるようなことしてしまったんじゃないかって、ずっと気になってたんだ…。」
宇田川も重い口を開いた。
「嫌ってなんていない。おまえの絵に嫉妬…していたのかな。おまえの才能に憧れたんだ。ほら、俺も一緒に絵を描いていたけど、下手くそで、全然ダメだったじゃん?好きだった子が、広茂くんの絵好きとか言って褒めてるのを聞いたら、ちょっとムカついてさ…。ちょっとした悪ふざけのつもりで無視しただけだったんだけど、なんかタイミング逃してしまって、ずっと無視するようなことになってしまって…。本当にごめん。」
藤沼は舟を漕ぎながら、謝罪した。
「なんだ…そうだったのか…。僕は嫌われてなかったんだな…。それを聞いて安心したよ。ずっと智樹に悪い事をしてしまったかもしれないって、後悔していたから…。」
宇田川はいつの間にか涙目になっていた。宇田川の気持ちを察した菜津は黙って、宇田川の背中をさすっていた。
「高校は離れ離れになって、でもやっぱりずっと気になってて、大学卒業した頃かな。おまえの家に行ってみたんだけど、もう別の家族が住んでいてさ。おまえがどこにいるのかさえ、分からなくなってしまって…。そうこうしているうちに、震災が起きて、俺はボランティアとして宮城に来たんだ。登米がボランティアの拠点にもなっていたから、ここに留まることを決めて…。登米に住んで、ここで被災地支援を続けようって考えたんだ。ずっとおまえを傷付けてしまった罪悪感を抱えて生きていたから、それを払拭したくて、ボランティアに精を出して、自己満足して善人気取りしてしまっていたのかもしれない…。とんだ偽善者だよな。たった一人の大切な親友を傷付けて和解もできないまま、まるでヒーローにでもなった気分で、こうして被災地に役立っていると信じて、そんな自分に酔いしれて、この登米に居座り続けているんだから…。」
藤沼は自嘲するように語った。
「藤沼さん…私はあなたとヒロくんとの間にあった出来事を知らないし、二人の過去の時間を共有することはできませんが、でも、そんなに自分を責める必要はないと思うんです。あなたもヒロくんも十分に傷付いたし、もう自分を許してあげてもいいんじゃないかと思います。それにただの偽善で、こんなに長年、支援し続けるなんてできるわけないですよ。あなたは登米で復興支援をがんばっている努力者で勇敢な人です。」
菜津はそう言って藤沼を励ました。
「菜津さん…。あなたはやさしい人ですね。そんな風に言ってくれる人が広茂の傍にいてくれて良かった。広茂はきっとあなたという存在に救われていると思います。広茂を傷付けた俺が言うのも何ですが、ずっと広茂の傍にいてくれて、本当にありがとうございます。これからも、広茂をよろしくお願いします。」
そう言う藤沼も目に涙を浮かべていた。そして続けてこう言った。
「ほんとは…広茂が引きこもり画家として、有名になった頃、引きこもりになった原因はもしかしたら、俺かもしれないって考えると、怖くなって…もし本当にそうだとすれば、もう二度と広茂と顔を合わせる資格なんて俺にはないと考えて…。でも、相変わらず素晴らしい絵を描く広茂の活躍を自分のことのように誇らしくも思えたりして…。なぜか登米で広茂の初個展が開催されることを知った時も、本当にうれしくて。そしてこうして再会できて、申し訳なかったと思う反面、うれしくて仕方ない。広茂が今、目の前にいることがただただうれしい…。」
引きこもりの原因が自分かもしれないという藤沼の憶測は当たっていたけれど、宇田川も菜津もそれについては何も触れなかった。
「智樹…僕も、智樹と再会できたことが、本当にうれしいよ。いろいろあったけど、自分の誤解だったって分かったし、あの頃のことはもう気にしないでほしい。たしかに引きこもりだけど、僕は今こうして画家として何とかやれているから。それに引きこもりの人たちを支援したいっていう新たな夢も見つけたし。」
宇田川は藤沼に握手を求めた。
「広茂…許してくれてありがとう。引きこもり支援をしようとしているなんて、すごいな。」
二人は力強く握手を交わした。
「ヒロくん、まずは登米の引きこもりの人たちを支援しようとしているの。木でつくるモザイクアート作りを手伝ってもらいたいって考えていて。登米の森林組合の方が依頼してくれたの。」
「へぇーそうなんだ。木でモザイクアートか…。楽しそうだな。そう言えば、俺は最近、バンドやってるんだよ。気仙沼のお坊さんたちと一緒にね。」
「それってもしかして…三生くんの輪音ってバンドのことじゃない?」
菜津は昨日、サヤカの家で聴いた音楽を思い出していた。
「よく知ってますね。そうそう、輪音ってバンド名で、ボーカルは気仙沼のお寺のお坊さんの三生くん。三生くんは輪廻転生を意識したバンドを作りたいと考えていたらしく、輪って環とか年輪とか、とにかく丸くて循環するものをイメージして、巡り巡る音楽ってことで輪音ってバンド名に決めたらしく。俺は昔ギターやってた時期があるって何気なく言ったら、じゃあ一緒にやろうと彼に誘われたんです。もしかして三生くんと知り合い?」
「ヒロくんの絵をね、社会に広めてくれたのが、三生くんのお友だちで、モネちゃんって言うんだけど、そのモネちゃんがいるから、宮城を個展のスタート会場に選んだの。今回はモネちゃんにお礼を言いたくて、東京から二人で来たの。」
「そうだったのか…広茂は三生くんのお友だちに救われたのか。モネちゃんってまるで、広茂が憧れていたクロード・モネみたいな名前だな。」
藤沼は蓮の花を眺めながら呟いた。
「僕にとっては、クロード・モネもモネちゃんもヒーローだから…。モネちゃんに蓮の花の絵を贈りたくて、今日は長沼で蓮の花を観賞することにしたんだ。」
宇田川も同じように、蓮の花を見つめた。
「俺さ…何やっても中途半端で、絵はおまえの足元にも及ばなかったし、中学・高校生の頃はバンドなんか組んだりして、プロミュージシャンになれたら…なんて夢見ていた時期もあったんだ。絵はおまえのものだから、別のことをしたかったって理由もあるけど…。大学の時は、漕艇…つまりボートもやってみたりしてな。いろいろやってみたけど、どれも芽は出なくて…。東京で就職したけど、ボランティアで登米に来て、登米で再就職して、夏場は舟の船頭の手伝いもしているんだ。そして三生くんと出会って、バンドに誘われて、今、また音楽の夢、追いかけ始めている。絵で才能発揮してるおまえと比べたら、俺の人生なんてほんと宙ぶらりんで恥ずかしいよ。」
「宙ぶらりんでいいじゃないですか。私だって、一度は就職したけど、祖父母の銭湯を継ぐって決めて、今ではシェアハウスもやっているんです。ヒロくんのマネージャーもしているし…。ヒロくんと同じ美大に通ったけど、私も絵はさっぱりで。でも、いろいろ経験している人生、悪くないって思うんですよ。いろいろやってみるのって楽しいじゃないですか。それに近くに大切な人がいてくれるから、何の取り柄もなくても私は、自分で良かったって思ってます。誰の人生より、自分の人生が良かったって。」
「菜津さんは本当に、肯定力のある方だな…太陽みたいな人が傍にいてくれる広茂がうらやましい。俺は今、傍にいてくれるのはバンドのメンバーたちだし、登米の人たちだし、大事にできたらいいなって思う。音楽で恩返しできたらいいんだけど…。」
「輪音の動画、けっこうバズってるじゃないですか?今度気仙沼と登米でライブもするんですよね?昨日、三生くんが言ってました。結成したばかりなのに、すごいじゃないですか。私、なないろってオリジナル曲、大好きです。」
「僕も…三生くんの歌、聴かせてもらったけど、なないろって曲、すごく良かった。」
二人からオリジナル曲を褒められた藤沼は心から喜んだ。
「ありがとう。あの曲は、俺が作曲して、三生くんが作詞した曲なんだ。バンドの他のメンバーも気に入ってくれていて、いつかこの曲でCD作れたらいいね、なんて話してるところなんだよ。まだまだ夢の話だけどさ。」
「夢じゃないと思います。なないろなら、子どもからお年寄りまで馴染みやすい曲だし、私はCD欲しいです。ね、ヒロくん。」
宇田川も菜津に同感というように頷いた。
「そっか…二人とも本当にありがとう。じゃあさ…もしもいつかCD化が実現したら、広茂…ジャケット用の絵を描いてくれないかな…。そんなの無理かな…。」
藤沼がそう言うと宇田川は
「もちろんいいよ。なないろをイメージた絵、今から考えておくよ。」
と即答し、目深にかぶった帽子から少し笑顔を覗かせた。そして肩まで伸びている髪をひとつに束ねると、藤沼が漕ぐ舟に揺られながら、蓮の花のスケッチを始めた。

高く遠く広すぎる夏空の下、キラキラ輝く笑顔の三人を乗せた小舟は蓮の花咲く沼のほとりでゆらゆら揺らめいていた。それぞれ失くせない記憶を抱えていた彼らだったけれど、そんな過去のことはまるで覚えていないようなお日様にサンサンと照らされているうちに、希望を忘れず、手探りでもいいから、ゆっくり前に進んで人生を歩み続けようとそれぞれ心の奥で誓った。お日様の光がキラキラ反射している水面を見つめながら…。

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 宇田川の個展が登米、気仙沼で大盛況のまま幕を閉じた頃、気仙沼で三生、藤沼たちのバンド「輪音」の初ライブが開催された。モネと莉子、悠人は仕事としてライブ会場に足を運んでいた。亮、未知、それから三生の父、亜哉子や新次も駆けつけていた。そしてDJ坊主や輪音のファンたちもたくさん集い、活気に溢れていた。
「お父さん、遅いわね。必ず来るって言ってたのに…。」
なかなか姿を見せない耕治に亜哉子はやきもきしていた。
「耕治、仕事に夢中になりすぎて、忘れてるんでねえが。」
新次はそう言って、苦笑いしていた。
「それでは、このライブの模様は、全国の皆さまにも楽しんでいただけたらと思います。」
モネは輪音の配信ライブの模様を伝えるアナウンスの仕事をしていた。
東京では、明日美と衛、宇田川と菜津がモネの伝える気仙沼のライブ会場の様子をパソコン越しに真剣に見つめていた。
「こんにちはーはじめまして。輪音です。今日は一緒に楽しみましょう。まずはこの曲、俺らのオリジナル曲、なないろから。途中、サプライズゲストも登場します!」
三生のMCの後、間もなく輪音の演奏が始まった。
「三生くんのライブ始まっちゃったのに、ほんとに何してるのかしら、お父さんは。」
亜哉子は深く溜め息をついた。
三生は全力で思いを込めて歌っていた。藤沼も一生懸命ギターを弾いていた。ベース、ドラム、キーボードのメンバーもみんな精いっぱい心を込めて演奏していた。間奏に差し掛かった瞬間、意外な人が舞台の袖から登場した。
「スペシャルゲストはトランペット奏者のコージー。」
三生が紹介すると耕治がトランペットを吹きながら、舞台中央にやって来た。
「お父さん?」
「耕治?」
亜哉子や新次たちは驚きを隠せなかった。
「お父さん…最近、夜になると、ちょくちょくどこかへ出かけてると思ってたけど、まさか三生くんたちのバンドに参加していたなんて…。」
「耕治楽しそうでねえが。」
なないろの間奏部分は耕治のソロパートだった。トランペットの音色が空高く鳴り響いた。
モネや未知、亮たちも耕治の登場にあっけに取られ、驚いていた。そして久しぶりに聴く、耕治が奏でるトランペットの力強い音に密かに感動していた。

 ライブ終演後、三生と耕治が談笑していたところに亮がやって来た。
「耕治さん、驚きましたよ。まさかライブに出るなんて誰も知らなかったし、亜哉子さんも驚いてました。三生もせめて俺らには教えてくれよな。」
「教えてしまったら、サプライズにはならないだろ?俺がみんなには黙っててくれって三生にお願いしたんだ。」
耕治は照れくさそうに呟いた。
「なないろはさ、間奏部分にトランペットの音が入ると、絶対もっと良くなるってメンバー同士で話していて、だけど誰もトランペット吹ける奴はいなくて…。俺も中学生の頃はトロンボーンだったし。トランペット吹ける人と言えば、耕治さんしかいないってピンとひらめいたんだ。ダメ元でお願いしてみたら、やってくれることになって。」
三生が亮に説明していると、耕治が
「最初頼まれた時はさ、そんなにトランペットが必要なら、俺じゃなくて亮に頼めばいいって断ったんだよ。亮には俺がトランペット教えたようなものだし。ビジュアル的にも亮の方がライブに向いてるだろ?でも三生がどうしても、俺に吹いてほしいってしつこく言うものだから、じゃあ仕方ないなと思ってさ…。」
少しうれしそうにそんなことを言った。
「へぇー三生の熱烈アプローチのおかげで、耕治さんは出演したってわけか。トランペットなら耕治さんしかいないよな。仮に俺のところに来られても、速攻断ったし。耕治さんがいるだろって言ってさ。」
亮は三生に向かって、笑ってそう言った。
「耕治さんのトランペットのおかげで、なないろはさらに良い曲になったって、メンバーは自画自賛してるんだよ。耕治さんさえ良ければ、これからもサポートメンバーとして吹いてほしいです。」
「俺はバンドのサポートメンバーにはなれないよ。仕事だって忙しいし…。でもさ、三生のおかげで、ひさしぶりにトランペットで人前に出られて、まぁ悪い気はしなかったな。仙台で吹いてた時代を思い出したよ。若い頃、追いかけてた夢を取り戻せた気もして、幸せだった。ありがとうな、三生。」
耕治はそう言って、軽く頭を下げた。
「耕治さんは…俺が坊さんなんかになりたくないって、髪、金髪に染めてパンクロックしてた大学生の頃、俺の味方になってくれたヒーローだから…。もう一人の父親みたいなもので、俺と真剣に向き合ってくれて、親身になってくれて、叱ってくれて…。だから耕治さんにいつか恩返ししたいってずっと思ってて。もしも今日、それが実現したとすれば、うれしいです。」
三生も耕治に深く頭を下げた。
「もう一人の父親か…たしかに俺にとっても、もう一人の親父みたいなものだよ、耕治さんは。本当の自分の親父がどうしようもない時、俺のこといつも見守って、助けてくれて、相談に乗ってくれて、励まして支え続けてくれた人は耕治さんだから…。」
亮も耕治に向かってそう言った。
「何だよ、二人して気持ち悪いな。そんな最後の別れみたいに俺のこと褒めるなよ。俺はおまえらに随分偉そうなこと言ったこともあったけど、結局トランペットも銀行もやめて親父の後を継ぐ人生を選んだ人間だから、今振り返ると、おまえらに言った言葉はただの綺麗事だったかもしれない…。」
「綺麗事なんかじゃないです。綺麗事だとしても、俺らは本当にあの頃、そして今も耕治さんの背中に憧れて、追いかけて、生きています。もう一人の父親みたいに…。」
「亮の場合は…みーちゃんがいるから、冗談抜きでいつか俺のこと、「お父さん」って呼ぶ日が来るかもしれないから、そんなに言われると恥ずかしいし、複雑な心境だよ…。」
耕治は亮の言葉にぽりぽりと頭をかいた。
「亮の言う通りです。俺も、あの頃も今も、耕治さんの生き様に憧れて生きてます。俺の人生の手本みたいなものなので…。でも俺、ちゃんと本当の父親のことも尊敬してるんですよ。父親が現役住職として今もがんばってくれているから、俺はこうして坊主の仕事だけじゃなく、DJやらバンドやら、好きなことさせてもらっているので…。」
「そうだな、俺も、耕治さんのことはもちろん尊敬しているけど、自分の本当の親父のことも最近また少しずつ尊敬できるようになってきたんだ。親父さ、初めはちょっとした手伝いだけだったイチゴの仕事、最近は本格的に一通りできるようになって、いつか新品種の気仙沼産イチゴも作れたらいいな、なんて夢見始めていてさ…。もう名前まで決めてるんだよ。「みなみ」にするんだって。笑っちゃうよな。でも海に出て、たくさんの魚抱えて戻ってきた頃と同じくらい、キラキラしてるんだ。俺、ずっと親父にはまたいつか船に乗ってほしいって思ってて、自分で買った船を大切に守り続けているけど、でも、イチゴに夢中な親父見てたらさ、もう船になんか乗らなくていいから、そのまま、まっすぐイチゴの仕事がんばってほしいって思えるようになったよ。耕治さん、親父のこと、見放さずに、ずっと傍にいて支えてくれて本当にありがとうございます。」
亮はまた耕治に頭を下げた。
「まいったな…。別に亮に礼を言われるようなことは何もしてないよ。俺はな、新次のこと、美波さんを亡くしてかわいそうとか、同情で一緒にいるわけじゃないんだ。亮と三生たちみたいにさ、純粋に幼馴染の友だちだから。あいつと一緒にいると、楽しいし、俺の方がずっと救われてたから、だから傍にいるだけだよ。うざがられても、蹴飛ばされても、たとえいつか認知症になって俺のこと、分からなくなったとしても、俺はあいつの傍にいる。それが友だちってものだろ?ってこんな話をするつもりはなかったんだけどな…。また説教くさくなるし…。」
「耕治さんの説教は、住職の説法と同じくらい、ありがたいし、ためになります。俺も耕治さんみたいに説教できる坊さんになりたいです。」
三生はそう言って、手を合わせた。

三人が話しているところにモネと莉子がやって来た。
「モネのお父さん、私、感動しました。耕治さんのことも、私の番組内で紹介したいので、取材させてもらってもいいですか?」
「と、いうことなの…お父さん、取材とか大丈夫?」
モネは莉子の熱意に圧倒されていた。
「取材かぁ…別にこれからも三生のバンドで吹き続けるわけじゃないからなぁ。」
「えっ、今日限りだったんですか?そんなのもったいないです。ほら、三生くんもちゃんと耕治さんのこと、捕まえておかなきゃ。」
「俺はこれからもサポートメンバーとして、輪音に協力してくださいってさっきからお願いしてるんだよ。」
「じゃあ耕治さん、やっぱり続けるべきですよ。断る理由なんてないと思います。」
「莉子さん…何でそんなにお父さんのトランペットにこだわってるの?それが不思議なんだけど…。」
モネが尋ねると
「だって私も学生の頃、トランペット吹いてたから。耕治さんの音色に感動しちゃったの。モネに言ってなかったっけ?」
莉子はけろっとした表情でそう言った。
「ウソ、莉子ちゃんもトランペット吹けるの?じゃあ今度は莉子ちゃんが輪音に参加してよ。」
三生はそう言って喜んだ。
「それは無理。私はもう吹けないし。とにかく耕治さん、ちょっとお話伺っても良いですか?」
三生なんて眼中にない莉子は耕治に話しかけ続けた。
「取材なぁ…。トランペットのことより、俺が作ってる牡蠣の宣伝してくれないかな?それなら、取材受けてもいいぞ。」
「できます。牡蠣についても取材します。牡蠣養殖業を営むトランペット奏者として取材させてください。じゃあもしもお時間ありましたら、さっそくこれからお話伺いたいのですが…。気仙沼で話しやすい雰囲気の良いお店知ってるんです。三生くんに教えてもらったお店です。モネも一緒に来てくれるっていうので。」
「おぉ、いいよ、これからな。」
「ちょっと耕治さん、今夜の打ち上げには間に合うように帰ってきてくださいね。」
莉子に相手にされない三生はそう言って溜め息をついた。
「そうだ、三生くん。」
耕治とモネと一緒に部屋から出ようとした莉子が三生に向かって言った。
「えっ?何?莉子ちゃん。」
「今度、食事に行ってもいいわよ。今日のお礼。ライブ良かったし。取材じゃなくてね。」
一言そう言うと、長い髪をなびかせて部屋から颯爽と出て行った。
「えっ?それってデートOKってこと?」
「良かったな、三生。」
三生と亮はそんなことを言って、ふざけ合った。

 三生と藤沼らのバンド「輪音」はライブ後さらに人気となり、渋っていた耕治も「なないろ」に限って、トランペットメンバーとして参加することにした。莉子の取材のおかげで、耕治の牡蠣も人気となり、耕治は牡蠣とトランペットのどちらも諦めずに続けることに決めた。
 「なないろ」のCD化も決まり、ジャケットは約束通り、宇田川が担当した。あの日、藤沼と菜津と一緒に見た長沼のキラキラした水面をイメージした淡い水彩画が「なないろ」を彩ると、その楽曲はますますたくさんの心を掴むようになった。
 そして宇田川は、画家のみならず、引きこもりのヒーローになっていた。サヤカと一緒に手がけた登米でのモザイクアートは登米の引きこもりの人たちの仕事につながり、登米においては引きこもりの人たちが在宅で仕事がもらえるようになっていた。そして登米は全国的にも珍しい、引きこもりの人を無理に社会に出すようなことはせず、心が安全な場所で引きこもったまま社会とつながりを維持させるという、引きこもり支援先進市に成長していた。サヤカは新たに作ろうと計画している能舞台に、宇田川にヒバの木の絵を描いてもらおうということも目論んでいるらしい。
 サヤカたちがモネの背中を押し、登米から東京へモネを送り出したことによって、東京でひっそり息を潜めて暮らしていた宇田川と出会い、その宇田川が今度は登米に引きこもり支援という贈り物を届けてくれた。サヤカがモネを思い、モネが宇田川を思うという思いやりの連鎖が輪となって、巡り巡り、循環し続けていた。それはまるで三生の作ったバンド「輪音」のように…。
 宇田川が登米を訪れたことにより、藤沼と再会し、誤解が解けたことも、菜津がサヤカの家で、ナナにそっくりの三毛猫イロリと出会えたのも、全部モネを始めとする人々の思いやりのおかげで、人々のやさしさは循環するものだと菜津は、汐見湯で絵を描き続けている宇田川を見守りながら、そう感じていた。
 そして、画家として引きこもり支援者として、精力的に努力し続けている宇田川を見て、菜津はもはや自分が彼を支えているのではなく、自分が彼に支えられて生きていると実感するようにもなっていた。宇田川にとって心の支えだった菜津はいつの間にか逆転し、菜津にとっての心の支えが宇田川になっていた。

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 モネ…みんな一生懸命悩んだり、もがいたりしながらも、精一杯生きているんだね…。モネはサヤカさんや朝岡さんに助けられて、モネが宇田川さんやみーちゃんを救ったね…。宇田川さんは今となっては、引きこもりの人たちを救おうと必死に奔走しているね。サヤカさんは今でも、みんなの帰りを待って、ひとりでたくましく生きているね。龍己さんは…私が宿っている木の成長を大切に見守ってくれている…。それから耕治は牡蠣とトランペットをがんばっているね。三生くんや莉子さんのおかげだね。みんな最初は自分を救うため、自分の傷を癒やすために新しいことに挑戦するのかもしれない。けれど、その自分のための新たな挑戦が、巡り巡って誰かのため、誰かの役に立つことにつながるって、本当に素敵なことだね…。
 私は死んでしまったから、思うんだけど、生きるってそういうことだと思うの。自分のために何か努力して、それが人の役に立って、思いやりとやさしさが循環して、世界は回っている…。みんなそうやって、誰かのやさしさ、思いやりを頼りに、人を信じて生きている…。信じるって綺麗事かもしれないけど、せっかく生きているんだから、信じなきゃ、自分の可能性と人のやさしさを信じなきゃいけないと思うの。
 生きていれば、文字を書いたり、絵を描いたりして、誰かに自分の思いをちゃんと伝えることができる。伝えることができるし、人の思いを受け取ることもできる。すれ違ったり、分かり合えないことがあったとしても、生きていれば誤解をほどくことができる。再会を信じることができる…。
 おばあちゃんはもう直接、モネたちに文字を書いて届けたり、話しかけたり、歌を歌って聞かせたりすることはできないけど、でもね、死んでしまっても、モネたちになんとか気付いてもらおうと、牡蠣になってみたり、木になってみたり、風になってみたりして、あなたたちと触れ合う術をいろいろ考えているの。
 モネたちのことを忘れていないし、モネたちが幸せに健やかに暮らせるように、ずっといつでも傍で見守っているから、おばあちゃんのこと、毎日じゃなくていいから、時々思い出して、時々感じてほしい…。
 この思いを直接話しかけたり、手紙で届けることができたら、どんなに良いかしら。生きている人たちはそういうことが当たり前のようにできるんだものね。ちゃんと人に思いを伝えられることは本当に幸せなことなんだよ。だから、自分の思いや言葉を大切にしてね。そんなことを美波さんともよく話しているの。亮や新次さんに自分が今思っていることを伝えられたらどんなに幸せだろうって美波さん、よく言ってるんだよ。そんな時はね、二人して、風になって木の葉を揺らしたり、海の水面にキラキラ光を瞬かせたりしているの。みんなに気付いてもらえるようにってね。生きている世界の輪の中に入れるように、合図を送るから、どうか気付いて受け取ってね、モネ…。

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