虹住人の抜け殻 (1)

あの時、手を放した。一瞬の出来事だった。



海面に光が反射し、視界から確認できるその海は綺麗だった。僕は浜辺に座り、海風を感じながら何も考えずその場所にいた。ある時点で僕は、艶のある黒髪をした横顔の美しい女性が隣に座っていたのを確認した。その女性も海の方を向いていたのだが、僕がじっと見ていたことに気づき、こっちを見た。彼女の瞳に僕が映る。映った僕が間抜け面にならないようにと顔を作る僕がそこにはいた。僕たちはさわやかな海風を共に受けながら、同じ道を歩いている。そして、他のどんな生物も住んでいない、混じり気のない海で手を繋ぎながら泳いでいる。このどこまでも続く海に行き止まりはない。そんな得体のしれない海に、僕たちは自由さを求め、そして何かから追われることもないような、独立した時間を刻む特殊な空間にいた。過去の過ちや将来への不安といった概念はまるで存在していない。その海は、すべてを飲み込み、すべてを理解し、すべてを許し、すべてを解放してくれるような気がした。浮力ではない別の力が働くその場所で僕たちは、忘れかけていた人のぬくもりを共有した。こんなにも人が尊く、弱く、脆く、優しく、危うい存在であるという事実をいつの時点だろうか、どこかの場所に置き去りにしていたのであった。僕たちは、同じ時を共に刻み、固く手を握りながら、より遠くの深い方へ進んでいった。



カーテンの下にあるほんの僅かな隙間から光が差し込む。その光を頼りに私は周りに存在する、あらゆるものを時間の経過とともに認識できるようになっていた。年代を感じることのできる木製の額縁に、一枚の写真が飾られている。男の子の両脇には、その両親であると予想できる二人の男女。顔の筋肉には微塵も緊張感が感じられないほどのゆるやかな微笑みで、おそらく息子であろう男の子と手をつないでいた。そして、全員が飛び上がった決定的瞬間を捉えたその写真は、見事としか言いようがないものだった。私はこの家族を知らない。顔に見覚えもないし、接点はないと思う。いま現在の私の視覚は自由ではないのだが、不自由さを感じないほどの十分な光はあった。
ある時点で私は失った事実をようやく理解することとなる。そして、私が置かれている状況についても完璧ではないまでも、おそらく3分の2以上は把握できているという妙な自信があった。この状況下において、まず己の身の安全を確保することが求められるのだろうと思う。しかし、そんなことはどうでもいいような気がした。なぜなら私はかけがえのないものを失ったからだ。ほかに代替できない、唯一の存在を失ったのだ。しかもそれは一人ではない。生を与えられた人間に必ず存在するかけがえのない人たち。
私は残された。そんな思いが脳裏に渦巻く。表現しにくい黒い感情が沸々と湧き出る最中、差し込む光が私の心を幾ばくか癒してくれたのと同時に、冷静さを保つようにと優しい口調で語りかけてきた。
両手両足とも身動きができない状況。声を出せないようにテープで口を覆われている。深刻な事態であることに変わりはない。だが、何か手立てがないかとお得意の諦めの悪さはここでも発揮されようとしていた。周りを見渡し、使える物がないかを確認する。縛られた両足と自由なお尻を起点として何とか移動することは可能だった。もちろん立ち上がるなどはできないが、移動可能な範囲で脱出に使えるものがあればと部屋中を隈なく探したが特に何もなかった。
足音が聴こえる。その音は次第に大きくなっていたことが分かった私は、起きた場所に静かに戻り同じポーズを再現した。そしてドアが開いた瞬間、逃げるように目を閉じた。



額に汗が流れることを自覚しながら、全速力で走っていた。銃を持った女に追いかけられていたからだ。追いかけられるようなことをした憶えはない。だったら、走るのをやめて話し合えばよい。しかし、走るのをやめることも、口を開けて話すこともできなかった。まるで、誰かに操作されているように感じるほど、首を除く身体のあらゆるところの自由が利かなかった。なぜか首だけは後ろに曲げることが許されていた。身体は動いているのに、自分でコントロールできるのは首だけという状況に困惑した。再び前を見ると、行き止まりであることを把握した。走ることをやめた僕はー正確には自分の意思でやめたわけではないーここで死ぬのだろうと思った。
「以前お会いしましたよね?」
この言葉を発した後に、口が自由になった事実を認識した。それと同時に無意識に紡ぎだされた言葉の輪郭の一部が薄く浮き彫りになってきたにもかかわらず、その真意を理解することができないでいた。
「いや、初めてよ。」
銃を持った女に動揺が見られた。
「海。そう、海で。」
先程と同様に自分の話す言葉の意味を理解できていない。しかし、その全体像は僅かながら時間の経過と共に薄っすらと顔を出し始めていた。
女は無言のまま銃を下ろした。そして、路地裏から中年の男性が現れ、こっちへ拍手をしながら歩いてきた。
「お前、面白いな。エミコを憶えていたのか。」
「エミコ?」
「こいつのことだよ。」
「こいつ呼ばわりしないでください。」
どうやらこの人たちは仲間のようだった。僕はこの女に殺されるのではなく、こっちの中年男に殺されるのだろうと思った。
「お前、俺らの仲間にならないか。」
「仲間? 殺し屋の?」
「馬鹿か。お前はエミコを憶えていたんだろう?」
「海で会ったと思います。」
「だろ。海でエミコと会ったことは憶えている。それだけで他の奴とはまるで違うんだよ。」
その後、この中年男から詳しく話を聞いた。まず、この中年男の名前は岩鬼という。その岩鬼によれば、海であった出来事や銃で追いかけられていた一連の件は現実ではないらしい。すべて夢で起こったことであるという。そして、岩鬼とエミコは、夢空間に訪れた人をもてなす組織の一員であった。もてなすといっても、夢に訪れた人に様々な体験をさせるための演出をする、というのが仕事のようだ。
「どうだ。俺らの仲間になるか?」
得意げな表情で岩鬼は言う。
「僕はまだあなたたちの仕事について理解しきれていない。だから、見学期間を設けてそこで入るかどうかを検討するというのはどうでしょうか?」
「まあそれでも良いだろう。言い忘れていたが、組織を脱退した場合、この組織での活動の記憶はみな消去される。もちろん今回の場合も同様だ。すなわち、お前が見学期間の末に入ることを断った場合でも俺ら組織に関することや、そこでの出来事の記憶はみな消去される。」
僕はあまり組織の活動に興味を持ったわけではなかった。どちらかというとエミコという女性のことが気にかかった。エミコとある海で出会った時の記憶は断片的なものしか憶えていない。パズルが一つ一つのピースを正確に組み合わせなければ完成しないのと同じように、詳細な記憶もその断片の記憶を拾い集め、間違えないように正確につなぎ合わせていかなければ輪郭すらも浮かび上がってこないだろう。もちろん完成には時間がかかる。この見学期間で完成させれば良い。
 「近くに車を停めているからついてこい。」
僕は二人に連れられて組織のアジトへ向かった。



どこか懐かしさを内包した商店街の入り口に立っていた。歩き進んでいくと、魚屋や八百屋、床屋、喫茶店など昭和をイメージさせるような店が軒を連ねていた。その間には平成にできたようなチェーン店がある。それらはビビットな看板や華美な装飾が施された店舗デザインとなっていて、昔からある店と比べると主張が強いように感じられた。その一方で、個性というものはまったく感じられないように思えた。昔からある店は人情味や店主の人柄が今でも色濃く残っている。内装も古さは感じられるものの居心地の良さはこの上なく、その点に関しても雲泥の差があるように感じられた。
昼間なのに勢いよくホッピーを飲んで顔を赤くしているグレーのベレー棒を被ったおじいさんと目が合う。彼は笑顔のまま、再び視線をグラスに移し、またホッピーを飲み始めた。

私はある地方の出身だ。そこは田舎でもなく、かといって地方都市でもない。地方の普通の街。その街の記憶が詳細にではないが、一つ、二つ、三つと着実に数を増やしながら、脳のある部分に湧き上がりつつあった。だがそれらは所詮かけらにすぎない。隣り合っていないかけら同士はつなぎ合わせることはできない。また、かけら自体の数が十二分にないと全体像すら見えてこない。しかし少し時間が経つと、何個かのかけらがピタリと連結し始めてきた。

おじいちゃんは趣味で写真を撮っていた。花や人、風景を撮った写真を、子供のころによく見せてもらった憶えがある。近くにある山や海に一緒に行ったこともある。当時、両親は仕事が忙しかったこともあり、おじいちゃんの家に頻繁に行くようになっていた。確かそれは小学4年のころだったはずだ。その1年はおじいちゃんとの記憶しかない。春に咲く花々を観に行ったり、夏には森に行きカブトムシを取ったこともある。私は最初、行くのを拒んでいた。カブトムシを取るのは男の子のすることだと思っていたからだ。そのことを伝えるとおじいちゃんはこう言った。

「おばあちゃんはクワガタの好きな女の子だった。そして、おじいちゃんの兄は料理好きな男の子だった。エミコはもしかしたらカブトムシが好きじゃないかもしれない。それはそれでいい。でもね、何かをやるとき、挑戦するとき、未知のものに飛び込むときに、性別によって制限がかかることは決してあってはならない。未だにそういう風潮が根強くあるのは事実だよ。でもね、例えばエミコが大人になったとして、女性だからって言われて、やりたいことができないのはもったいないと思うんだ。」
その後、おじいちゃんは私が小学5年になった時に急性心筋梗塞で亡くなった。

家庭の時間よりも働くことに重きを置いていた両親も仕事のスタイルを変え、私と過ごす時間を増やし始めていた。おじいちゃんの死後、悲しみに暮れふさぎ込んでいた私を心配してのことであろう。ある時、父はおじいちゃんが使用していたカメラを整理していた。機械に疎い父は、使い方をまるで理解していないようだった。
「エミコ、これどうやって使うんだ?」
私は父のあまりの疎さに驚きを隠せなかったが、私はすぐに使い方を理解した。そしてすぐに庭に行き、咲いている花々を撮った。そこから私は写真を撮るということに熱中した。だからと言って、中学も高校も写真部には入らなかった。また、撮った写真は家族にしか見せなかった。だが、ある時を境に、私と写真との関わり方は大きく変わっていくのであった。

 商店街の出口付近には、高校生と見られる制服を着た男子がふざけながらタレがたっぷりついた焼き鳥を食べていた。焼き鳥のあの匂いにつられるのも無理はないだろう。その近くにカメラを首にぶら下げた男が胸を張りながら立ち、こっちを見ていた。
商店街を歩きながら、実際にここは実在するのであろうかということを考えていた。どこかにありそうだけど実在しない商店街に私はいるのではないかとも思っていた。

また、かけら同士が連結し始めていた。

男は私の方に直進し、首にぶら下げたカメラを差し出した。その瞬間、あらゆる水分が目の奥に集中し始めた。その場所には保有しきれないほどの水量だった。そして、居場所をなくした者たちは外に旅立っていった。旅立つ涙の目標地点は、真下の地面だった。自分で行き先を決められない者たちの中には重力に抗おうとする者もいたが、結局失敗に終わる。それは現実に抗おうとする者たちが最終的に失敗に終わるのとよく似ていた。
 事実は変えられない。事実の隠蔽を自分の中だけで行って改ざんしたとしてもその事実は揺るがないし、変えられない。私と私の涙は同じ方向を進んでいた。私も私の涙も所詮、不可逆な進路を辿っている。これは私だけに言えることではなく、この世界の宿命なのだ。
事実を思い出した私を見て、ようやく男が口を開いた。
「こっちにくるか?」




目的地にたどり着くまでそう時間はかからなかった。目の前には、アメリカにあるどこかの州の刑務所に似た、厳つい外観をしたグレージュの建物が広がっていた。建物の窓は日光に反射し、その表面は無機質な質感を保ったまま、まるで僕を威嚇するかのような目でじっと見つめていた。ここには何があるのだろうか。急に好奇心が湧き始めてきた。
「ほらいくぞ。」
僕は岩鬼とエミコの後ろを歩き、その建物へと入っていった。中もやはり刑務所のような造りをしている。しかし、そこにいた人たちの雰囲気は刑務所のそれとはまるで異なっていた。どちらかというと、大学のキャンパスのような活気があった。年齢層は30~50代がほとんどではあったのだが、そこにいた人々に力強さが感じられた。

「ここが君の部屋ね。ちょっと狭いけど、みんな同じ間取りだし、我慢してね。」
エミコが言うほど、狭いと感じなかった。簡素なつくりのナチュラルな木製フレームベッドに、エイジングが感じられるこげ茶色の机と椅子がさりげなく置いてあった。どの部屋にも共通しているのだが、壁一面ダークネイビーとなっていて、それらは均一な色をしているわけではなく、色が剥げている箇所がいくつもあった。
「エミコ、こいつに中庭も案内しておいてくれ。俺はちょっと別件で離れるから、よろしく頼むぞ。」
「わかりました。」
そう言って岩鬼は足早に去っていった。
「どうしてこの組織に入ろうと思ったのですか?」
「いきなりね。」
「参考になるかなと思って。」
「現実逃避かな。まあ、ここは夢だからその通りなのだけれども。実際に現実から目を背きたいと思ったの。それでたまたま、勧誘されたっていう流れ。」
「逃げたってことですよね。」
「そうよ。逃げることは悪いことかしら。」
「僕はあなたからするともちろん他人です。だから客観視ができる。その視点から考えれば、明確な理由はわからないけど、逃げるべきではない、そう思う。逃げて逃げて逃げた先に一体なにがあるんだろうか。」
「君は何かを悟っているの? ずいぶん世界や人生のことを理解しているのね。」
「他人だから言えることです。僕自身も人のことは言えない。そういう意味ではあなたと同じかもしれない。」
「一緒にしないでよ。」
「お互いがどのような人生を歩んできたかを知らないうちは、同じか異なるかを論じることはできない。でも、僕はあなたとの海でのことを憶えている。」
「それが何か関係あるの?」
「断片的な記憶しかないから正確なことは言えませんが、あの時、僕たちは同じ方を向いていた気がするんです。名前のないどこかに共に進んでいく感覚が確かにあったのではないか。いまその正確な事実を知っているのは僕ではなく、紛れもなくあなたですよね?」
「時の経過とともに曇りがかった窓はクリアになっていく。だから、私の口から君の求めていることを言うことはないわ。でも、パズルが完成したころ、何かがわかるかもね。ただ、これだけは言っておくわ。あれは想定した通りの演出ではなかった。」

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