共感を生み出す人は、エピソードを集めている。
この土日、体も気持ちもぐったりしていて、やりたいことややらなきゃいけないことはいっぱいあったのに、動く気がしなかった。
ずっとベッドの中にいるのもなぁ、と思って、最寄駅の近くの書店まで歩いた。分厚い小説やビジネス書を手に取る気がしない。なにもないなぁ、としばらくぶらぶらしていたら、文庫本コーナーにあったこの本と目があった。
イラストレーターの益田ミリさんのコミック&エッセイ。子供の頃に読んだ思い出の絵本を一冊ずつ取り上げ、「子ども時代」を描き出している。
幼稚園や小学校の頃。私にもこんなことがあったなぁ、という気持ちになる。それは大きな出来事ではなく、些細な出来事だ。ちいさなこと。あえて誰にも語らなかったようなこと。言葉にされると、ああ、あった。わたしにもあった、誰にも言ってなかったことを、言葉にしてくれてありがとう、という気持ちになる。
この本を読んでいたら、子ども時代の自分にもう一度会えたような気がした。泣いているつもりはなかったけど、ぎゅっと目を瞑ると、ぼろぼろ涙が出てきてびっくりした。
あったなぁ、私にもこんな気持ち。という思いと、ああ、こういう親に育てられたかったなぁ、違うな環境が、という悔しいような、でも自分は、そういう環境じゃなかったから今の自分があるんだなという、誇らしいような感情も湧いてきて、ぐちゃぐちゃになった。
誰かの個人的なデキゴトが、感情に気づく「きっかけ」になる。
益田さんの子供の頃のお話は、彼女だけのものだ。個人的なこと。「みんなもそうでしょう」なんて言っていない。わたしはこうだった、というだけだ。
なのに、それを読むと、全くの他人である私の感情が揺さぶられる。他人である書き手の個人的な出来事によって、私の中にある、過去の扉が開かれた。
自分ではない、他の誰かの、個人的な話で、自分の中の感情に気づいたり、忘れていた(もしくは忘れようと箱の中に閉じ込めていた)思い出が引き出されたりする。
これが、「共感」なんだと思う。
相手に響く「エピソードトーク」ができる人は強い
こんなことがあった、という個人的なエピソードを語って、読者が「私もそうだったなぁ」と思えるのが共感。
読者が、他人である書き手の語る話の中に、自分を当てはめている状態だ。
これができる文章と、できない文章がある。
「それはあなたの話じゃん」「自分には関係ないわ」と感じる文章と、全く同じ経験をしたわけじゃないのに「私にもそんなことがあった」「その気持ちはわかる気がする」「まるで私のことだ」と感じる文章がある。
これは、エピソードの内容ではなく、書き方だ。
読者が、自分を当てはめる「余白」があるかどうか。余白がある文章には、読み手は自分のことを当てはめて読むことができる。私が、私が、とギチギチの自分語りで、読者が感情を移入する隙間のない文章だと、読者は置いてけぼりなのだ。
エピソードを集める=観察力
共感される文章が書ける人は、日常の出来事の中で、知らず知らずにうちに「エピソード」を集めている。
あ、これは、noteに書けばいいな。あ、これは、今度セミナーで話そう。というように。
毎日、当たり前に過ぎているような日々の中に、いかに、「エピドード」を見つけるか。そしてそれを、「相手が知りたい内容」に調理できるか。
今日食べた朝ごはんも、駅で見た人も、スーパーのレジに並んだ時のこと、家族との何気ない会話、仕事がうまく進まなくてイラッとしたこと、
すべて、「エピソード」になる。
それを、そのまま「今日はこんなことがありました」と時系列で並べても、読んでいる方は、ふーん、である。全く他人の「個人的な日記」に興味は持てないのだ(よっぽどその人の熱烈ファンではない限り)
だから、見つけたエピソードを「相手が知りたいこと」に変換する必要がある。
『売れ続けるネット文章講座』の第4章に書いた「日々の出来事を仕事やミッションに結びつけて書く」はまさにそれだ。
個人的なできごとを、共感されるエピソードに変えて語れるようになりたい方は、ぜひ、『売れ続けるネット文章講座』の第4章のワークをしてみてください。
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