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「自分でも思っていなかったことが書ける」と「書いているうちに話がズレる」の違い
文章を書くのが苦手、という人の中で多いのが「書いているうちに話がズレていきます」。
一方で、書くのが楽しいと感じる人の多くが、「書いているうちに、話が広がっていって、面白くなる」という。私もそうだ。初めから書こうと思っていたことよりも、話が広がったり深まったりする。自分が予想もしなかったところに着地したり、途中で話が膨らんだりするのが面白い。
これは「書く」に限ったことではない。ライブ配信などで話している時も、講座やセミナーをしている時も、「思ってもいなかった面白いこと」が言えることがある。
「思ってもみなかったことが書ける人」と、
「話がズレて行ってしまう人」の違いはなんだろう?
「テーマだけを決めてフリートーク」ができる人・できない人
「思いを言語化する」という意味では、話すのも書くのも同じだ。太古の時代に遡れば、人は話し言葉を生み出した後に、書き言葉を生み出している。
頭の中で、言葉を生み出すときは、「書き言葉」か「話し言葉」か意識していないことも多いだろう。実際に書いてみてから調整する。
「雑談」の場合、話はどこに行ってもいい。結論などいらない。カフェで、なんとなく話している人の会話に、結論も論理もない。
雑談の目的はなんだろう? 結論を出すことでも、論理的に話すことでもない。
雑談の目的は、「会話そのものを楽しむこと」だろう。つまり中身がなんでもいいのだ。話がどこに行こうといいのだ。この人は私の話を聞いてくれているな、と感じられればいい。何を言ってもいい。
文章にもライブ配信にだって、「目的」がある。今、なんのために書いているのか? たとえば、このnoteの目的はなんだ?
目的:文章を書くのが苦手と思っている人、もっと書けるようになりたい人のヒントになること
うむ。そうだが、それが本当の目的か? なんだか、建前っぽいな。
目的:私のnoteを読んで、私自身に興味を持って、本を買ったり、講座やセミナーにきて欲しい。
きた。こっちが本音だ。となると、このnoteは、単なる「ノウハウを書く」ものではないのだ。目的は、私自身に興味を持ってもらうことなんだから。
目的が明確になれば、何を書けばいいかがわかってくる。
もっと狭く考えてみよう。この「今日のnoteの1記事の目的はなんだ?」
目的:この人の言っていることならできそうと思ってもらう
その先は?
目的:この人の話がもっと聞きたいと思ってもらう
1つの記事ごとに「目的」を決める。なんのために書いているかだ。そこからズレていなければ、大きく脱線することはない。
こっちも書きたい!が出てきたら、次の記事にすればいい
私は、noteやメルマガなどは、タイトルだけ書いたものがいくつも「下書き」に置いてある。
たとえば、この記事を今書きながら、あ!こういうことを書こう、と思いついたら、まず「見出し」を書く。見出しだけが、並んでいる状態だ。
本文を書きながら、下に「見出し」だけが並んでいる状態で書いている。書きながら、「長くなったな」「この話はちょっと本題とは違うな」と思ったら、その見出し➕本文を丸ごとコピペして、「記事を書く」をクリックして、新しい記事として置いておく。
だいたい、1記事を書こうとすると、「こっちも書きたい」が出てくるので、次の記事、その次の記事、と保存しておく。
「話が脱線して困る」のではなく「1記事書くつもりが、2記事、3記事もネタできちゃった。ラッキー」である。
ズレたら、次の記事。そう思えば、ずれるほどラッキーなのだ。1の労力で2も3も記事ネタが増えるんだから。
何が「ど真ん中」にあるのかを意識する
「書いているうちに、あれもこれも書きたいことが出てくる」「話しているうちに、言いたいことが溢れてくる」どちらも、悩みではない。むしろ大歓迎。いいことなのだ。
だって、はじめっから書こうと思っていたことしか書けないなんて、面白くない。書いているうちに、筆がのって、自分ではない人が書いているような気持ちになったり、読み返してみて「え〜!私、こんなこと書いてたの!なんかすごいな」と思ったりするのが、書くことの醍醐味なのだ。
書くときは、とにかく一気に書く。
途中で、「話がズレているな」と気づいたら、ズレたと思う箇所の「見出しプラス 本文」をコピペして別記事に置いておけばいい。
その文章の目的は何か?
たとえば、目的が、自分を知ってもらうこと、なのであれば、理路整然とした文章である必要はない。ズレていると自分で思っていても、読者は「こういう面も持っている人なんだ〜」と楽しく読んでくれるかもしれない。
そもそも、ブログやnoteに「理路整然とした話」や「ビシッとした結論」が必要なのか? というとそうでもない。論文や提案書を書いているのとは違うのだ。
なんのために書いているのか?(=目的)、相手にどう感じて何をして欲しいのか。そこが明確になっていれば、何が「ズレている」のか、わかるようになる。
自分一人で、自分のためだけに書くならば、なんでもいい。話がどこに行こうと、読者が迷子になろうと、関係ない。(そもそも自分しか読者はいない)。
これは誰のために書いているのか。何が目的か。そこを意識していることで、ズレに気付ける。
話のど真ん中を見つける
私の場合、「なんとなく、こういうことを書こう」というテーマを見つけて、導入部分を書いて、見出しをつけてから、各見出しの本文を書いていくことが多い。
本1冊を書くとなると、書き方は違うが、noteやブログやメルマガなどの場合は、「テーマ」→「導入部分(なぜこの記事を書こうと思ったのかのきっかけ)→「見出し」→「本文」という流れだ。
先に見出しを作っておくと、大枠がずれることがない。ライブ配信や音声配信をするときも、詳細は決めないが、テーマと見出しだけは立てておくことが多い。
見出しがあれば、読者の迷子予防になる。これを目標に進んでください、だいたいこういうことが書いてあります、という案内表示になる。
と同時に、見出しは、書き手の「迷子防止」にもなる。見出しを作っておくと、書いているときも迷わない。自分が作った見出しを案内表示に、次はここに行けばいいと思って書ける。
話の中に「見出し」を見つける
と思うと、「話がズレて行かずに、ビシッと本筋を通して書く」には、「見出しをつける力」が必要だということになりそうだ。(ここまで書いてきて気づいた。はじめはそんな結論になると思っていなかった)。
見出しを作る力。これは、文章力というよりも、「編集力」である。
書きたいテーマが決まったら、見出しを作る。箇条書きで、書きたい内容を書き出すのだ。起承転結になってなくてもいい。ブログやnoteの場合は、論理的でなくてもいい。
どんな人に、どうなって欲しいために書くかという目的を決め、テーマ(大体どんなことを書くか)を決めたら、見出しを作る。
思っていたのと違う方向に話が行きそうになったら、追加で見出しをつくる。その見出しに本文を書いてみて、あ、ズレているなと思ったら、別記事にする。
ふだんから、会話の中に「見出し」をつける癖を持っておくといい。その話はまた別の記事に書こう。
で結論はなに? と思われたっていいのだ。だってこのnoteの目的は、「ビシッと結論を出すこと」ではない。「私自身に興味を持ってもらうこと」「この人の話がもっと聞きたいと思われること」なんだから。
テンプレではなく自分らしく発信したい人に向けて書きました。
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