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愚行権

頼子は1ヶ月前からタバコと酒をやめた。

46になった誕生日で、旦那と子供の前で公言した。頼子はいまだに噛みタバコを吸っていて、会社でもかなり珍しい存在として認識されていた。旦那は頼子の酒とタバコの習慣について、見て見ぬふりを15年以上続けてくれていた。タバコを子供の前で吸うわけでもないし、酒が入るとたまに男と寝て帰ってきたりするが、それも旦那は許容してくれている。

若い頃、遊んでいた男とディアンジェロのコンサートに行ったことがあった。その時、そのライブハウスにいたほぼ全員がタバコを吸っていて、その時から頼子も自然とというべきか、タバコを吸い始めてかれこれ25年近く経っている。

タバコと酒はなにを象徴するのだろうかと考えた時に、結局なんでもない依存物質なんだということが頼子の頭をよぎったのが1ヶ月前だった。タバコを吸うと心臓がチクチク痛んでいたということも一つ理由としては大きかったが、健康よりも、もっと前向きな自分になりたかった。

タバコと酒の象徴があるとすれば、「悪」だ。悪いことに対する憧れや、愚行権という名の通り、愚かなことである。愚かなことを人生においてする権利はあるが、せずに、健康に生きる権利だって当然人間にはある。

突然そのタームが頼子に訪れたわけだが、一ヶ月やめただけで、体調は大幅に改善し、精神は圧倒的に前向きになった。

しかし一つ弊害があった。それは、やめたことによるストレスでインターネットでの買い物依存になってしまったことである。大した金額ではない、3000円から1万円程度のアクセサリーを、一日一つほどはポチってしまう。毎日そのぐらいの金額を酒とタバコにこれまで充てていたのだから、別にいいと言えばいいのだ。ものが残るだけ、よい。だがいらないもの、安いものばかりを買ってしまうためか、最終的にはいらなくなる。
そして捨てる。

頼子は思った。
結局、酒とタバコに使っていた愚行権を、いらないものを買うという依存に切り替え、改めて行使しているのだと。ということは、自分のなかの愚行権というのは、一定の水準が保たれていて、それを実行することで何かしらの効用を得ているのだということに気づいたのだった。

そしてそれから、心が楽になった。
ある一定の愚行権を私はもともと持っている。自分の体を傷つけたり、いらないものを買ったり、それがもしかしたら、もっと直接的な自傷的行為に進化したりするかもしれないが、それはそれで、自分の人生の中で、一定許された「自由」なのである。自由を、酒とタバコから、今別のものに切り替えようとしているのである。

頼子はそう思い、またスマホをいじり、セレクトショップのサイトを開いた。「Sale」というボタンを押し、「安い順」というソートをかけ、必要でもないアクセサリーを探すのだった。

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