私の芸術運動141ものの見方

世界に比べて日本の芸術市場はかなり小規模だ、地方の学校からは美術の授業が減ったなんて話も聞いた事がある。

昨日知り合いのお笑い芸人を目指す若手の子と珈琲を飲みながら話していたら、絵を描く人ってかなり少ないですよね?って言ってた、美術館も行った事ないと言う、さらに個展に入場料がかかると思っていたらしい、よく考えてみれば知らない人は全く知らないのは当たり前で、絵を見に行くという感覚が無いのだろう、それは興味がないと言う感じとは違ってただ本当に知らないと言う印象を受けた。

知らなければ興味も湧かないのは至極真っ当で
、自分がどういう芸術が好みなのかを知らないという事だ、日常生活の中に芸術というデザインが浸透して普通に接している、それはお金になる、だけど実は知らない。

芸術に興味がないという事が悪い事じゃない、興味が湧かないというのは好みの問題だ、芸術が無くても人は幸せに真っ当に生きていける、だけどこれがその枠内に止まらないもっと根深い問題を引き起こす可能性を考えていきたい!

芸術作品はあくまでも物質、形にならぬものを2次元や3次元で表現して物質化したものが芸術作品となる、だけど私はずっと考えている事がある、私が必死こいて描いた油絵に私の全ての価値があるとはわたしも思わないのだ、もちろん自分の作り出したものに抱く思いは強いけど、その絵一枚が完成するまでの過程に芸術はあると私は思う

私は好きでいろんなところに旅に出る、旅先で見て感じて帰ってくる、日常生活に戻るとその境目にキャンバスがあってぶつかり世界を投影する、私の場合はそれが絵なのだ。

しかしその絵一枚が私の全てであると同時にその絵はその絵の完成に要した時間や経験や感情が注ぎ込まれてる、遡ればその絵の発端になったと思われるたびという行為に駆り立てた何か?もその一枚の絵の重要な要素と言える。

ゴッホの絵を一枚見ればその人の全てがわかるなら絵は一枚でいい、だけどゴッホという画家を知るにはその人の生きた人生を辿ることに繋がってくる

私は絵の価値がその絵画作品一枚に対しての価値にとどまらないと私は考える

これは全てに通ずる事だ

触れる機会が無ければそれは知られる事もなくないと同然になってしまうのが今の社会と私は捉える、これはそういう問題なんだ、そういうものの見方しかできなくなっているんじゃないだろうか?

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