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何を失ったのか知らないけど


私は後2週間足らずで浅草から引っ越しをする、契約の更新に合わせて賃料が上がるそうで、金額にすれば数千円上がるだけなのだがこれも何かの良い機会だと私は思った。衣類は適当に大きい袋やリュックサックに押し込んで、段ボールには生活雑貨や本などを隙間のできぬ様に無駄無く詰め込む、まだ使うであろう物達は一旦置いといてそれ以外の物は大方片付いたと言える、詰め込んでみると私の荷物なんてダンボール5つに簡単に収まってしまった。

私は決してミニマリストでは無い、実は段ボールや袋に入りきらないものをたくさん抱えているのだが、それは決して荷物という括りでは無く私の描いた大量の絵画達である。それら全て油絵であり、木組みに麻布を張ったキャンバスに描かれている、殆どが額装は無く剥き出しのまま、サイズもバラバラで上手く纏める事ができずにとりあえず自分の作品を一枚一枚眺めながらなるべくサイズごとに仕分けしていこうとするけれど、ついつい絵に見入ってしまう、それには私のこれまでの人生が下手くそだけど非常に上手く描かれていて、紛れもなくそれは荷物では無く私自身だった。

例えば昔描いたこの海辺の絵、とは言っても中々文章では伝わらないけれど、この絵は神奈川県小田原市にある御幸の浜をモチーフに描いた作品で、この日私は1人で小田原城を見学し辺りを散策しながら気付けばこの浜辺に立って居た。潮風が吹きつけて来て、湿った重たく暗い雲が海の向こうからこっちににじり寄って来る、日も陰ってきて海沿いの街頭が白く灯っている、私以外誰も居ない浜辺、波の押し寄せる音と風に巻き上がった飛沫が顔にポツポツ当たり口の中が辛い、この時の空は不思議に淡い青色とピンク色に光っていた。このまま旅を続けるか?帰るか?はたまたどうするか?私はこの時自分の中に後ろめたさを感じていて、今の私がこの絵に向けて発した声がその当時の私にもし届くなら「やめよう?」と語りかけるけれど、不思議な事に当時の私には確かに自分に向けて「やめよう?」と言う誰かの声が聴こえていたのを思い出す。私はこの絵に「予感」という題名を付けたが、皮肉にもその予感は当たる事となりその後の私の心に暗い影を落として行った。この後何があったかはこの絵の本質では無い為、皆様のご想像にお任せする。この絵が何のために描かれたのか?何を伝えたいのか?誰の為の絵なのか?一体何なのか?私はわからないけれど心の中で"あぁ"と思い、言葉に成らなかったもの達が絵になってゆくのだろう、奇しくも本音とは結局のところ相手に打ち明けられ無かった部分に在るというやつである。もし何かのご縁でこの絵にいつか出会う事があったなら、その絵から伝わる予感を是非感じてみて欲しい、言葉以上のものを貴方に投げ掛けていると思う。芸術の面白さはそういう"あぁ"というところに在ると思います。

こんな調子で絵を一枚一枚見る毎にすぐにその時の景色が目の前に現れる、振り返ってもそこはもうあの時のあの場所に私は立っている、風が吹き、香りがする、雨が降っていたり、晴れ渡っていたり、暑かったり、寒かったり、その時に考えていた事までも鮮明に思い出させられる、そう、私は画家なのです。

自分を画家と名乗ってはみたものの、絵では生計が立てられずいくつかアルバイトを掛け持ちしながら生きて来た。そんな生活が8年間だ、8年前迄は私も普通に会社員として社会に貢献していたが、画家になった今の私は社会にとっては何者でも無い、下積みと言えば聞こえはいいけれども。しかし生きて居ても画家になるきっかけなどそうそう無いだろう、けど私にはあった、というかそれをきっかけだと私は受け取ったのです。今でも前途不安な私の人生だけど、結局私にはこれ以外にないんじゃ無い?と思っているところを見ると私に後悔は無い様だった。

あれはもう13年程前の事、当時私は20歳で西東京の駅前に大きな国営公園のある街で初めての一人暮らしを始めた。学生の頃から漠然と東京に行きたいなーと思って居た私は成人を迎える頃に就職で地元を飛び出して来たのだが、西東京は自然豊かで、お淑やか、安心で、閑静な、私の想像とは随分イメージの違う東京だった。上京して来たという割に地元は千葉県でお隣さん、しかし就職して出て来たし、初めての一人暮らしで金も度胸も無いものだから軽々しくこの土地から動く事も出来ずモヤモヤした中をぼんやりと生きていた。私の職場は特別拘束時間が長い日は朝は8時から夜は終電ごろまで、それに週に1日くらいしか丸一日休みというものは無かった。そんな貴重な休日には本を読んだり、映画を見たり、散歩したりととにかく私は1人の時間というものを好んだ。映画や本から得たインスピレーションは散歩をより有意義なものに変えていく気がする、私が今いるここが人生の中のほんの一文に過ぎないという事を教えてくれたし、この先もどんどん世界が広がってゆく様なそんな漠然とした自由なイメージ中で、ページをめくったり、シーンが変われば新しい展開が人生にはまだまだ起こる様な気がしていた。しかしそれとは裏腹に日常は何事も無いままに過ぎ行く、私はまぁーそうだよな!と思っていた。

この時期に読んでいた本や見た映画は私に強烈なインスピレーションを与えたと思う。それは今でもたまに思い返して見直すという事があるからだ。特に私が印象に残っているものを何作品かご紹介させて頂く、これらには人生のページをめくる力があると思う。

まずは本からご紹介、一つ目は、イギリスの作家サマセットモーム著「月と六ペンス」、この作品は当時私がまだ画家になるなんて夢にも思っていなかった時に読んだものだったが、何故か書店で手に取ってそのままのめり込む様に一気読みしてしまった作品である、主人公は画家を目指し、安定した生活を捨て人生の舵を切ったが家族や友人は主人公の行動が信じれず探りを入れたりするところから始まる、そこからの展開と主人公の底知れない情熱が私の心を揺さぶり、私の中で何かが起こった事は間違いなかった。他にも「雨、赤毛」という短編集もとても良い。

お次はアメリカの作家J,D,サリンジャー、この方は言わずとも知れた「ライ麦畑でつかまえて」の著者であるが、私はサリンジャーの連作に出てくるグラース家の人々の物語が好きだった。その中でも短編集である「ナインストーリーズ」は読みやすさがありながらその中に収録されていた「バナナフィッシュにうってつけの日」は静かに忍び寄る狂気とその裏に見え隠れするえも言われぬものがあり美しいとすら感じる、今でも主人公がピアノを弾くシーンが私の頭の中に映像として浮かびます。

映画もご紹介いたします

アメリカのジム・ジャームッシュ監督の作品「パーマネントバケーション」「ナイトオンザプラネット」「ミステリートレイン」これらの作品はあの頃の私にどれほど影響を与えただろう、オシャレで美しい映像美の裏にやり場の無い感情が渦巻いていてそれが次第に行く末を暗示していく様な、どこか切なさを感じるけど、それが自分の中の何かと繋がって力に変わっていく様なそんな気がする、特にナイトオンザプラネットの1話目は今でも私を痺れさせたままだ。私は他にも数えきれない程の映画を仕事終わりに駅前のTSUTAYAで借りて見ていたので、また機会があればご紹介したい。

とにかく本や映画の持つ力というものはとてつもないもので、何年か経った後にふと本の中の1フレーズを思い出したり、映画の1シーンを思い出したりする。私は自分の人生も誰かにとってそんな風に思い出されたりするだろうか?誰かにとっての一助と成っているだろうか?そんなことを考えながら知らない街を散歩する、知らないものを見て、知らない人と話して、知らなかったことを知る、私はそんな休日が愛おしくてしょうがなかったのである、自分1人の時間をしっかり生きれるか?これは私が常々大切にしている事だ。

そんな折、いつもと違う事が起こった、この日は仕事も早く終わり帰り支度をしていると、珍しく本社から来た男の人がガラスドアの前に立っていた。ガラス越しに目が合い何かと面倒を見てくれていたその方に私は笑顔で返し歩み寄って行った、周りの人も一斉に挨拶をした。ドアを開けてその人は私に向かって一緒に来るよう手で合図する、皆んなが何だろう?と不思議がる中を私は駆けて行き階段を降りて表の通りに出た。私は昇進の話が来たんだろうと胸を踊らせていた。きっとこの後、度々面談などに使っている喫茶店に行き珈琲を奢って貰い私は笑顔で何かしらの報告を受ける事になるんだろうと、しかしその人はすぐに立ち止まり私の勤める会社と隣のビルの間にある人が2人ギリギリすれ違えるくらいの幅の路地に入る様手で合図した、その路地の突き当たりは私も利用している駐輪場で奥は通り抜け出来ずフェンスで囲われていてその向こうには国営公園が見える、そしてその間には線路が何本も走っていて右手に見える大きな駅で束ねられている、振り返ると通過する電車から発せられた光がチラチラと流れる様に照らされてSCREENの様だった。

電車を何本見送っただろう、やっと電車の往来が途切れる、私の中では違和感を感じながらも半分はまだ昇進の話なんじゃないか?と考えていた、珈琲を飲めなかったのは残念だけどまぁ仕方ない、とは言え昇進が嬉しいわけじゃ無い、ただ今のこの人生に何か変化が欲しかっただけ、しかし待てどその人が口を開く事はなく私が先に口を開いた「ついに昇進ですか?」と、私は笑顔で冗談混じりに聞いた。その人は笑わずにこう切り出した、「私もこんな事は言いたく無いんだ、出来れば君の口から話して欲しい、何の話かは君が一番わかってると思うから」その時私の寄りかかるフェンスのすぐ側を電車が通り抜けて私はビクッとした。

電車の往来が途切れると同時に私は聞き返す「何の話ですか?全くわからないのですが」、その人は「本当に?ここに呼ばれた理由がわからない?」。私には本当に皆目見当もつかなかないでいた。「全く何もわからないので説明してもらっていいですか?」と私は笑顔で聞き返した。私にはなにも後ろめたい事はなく、むしろ何か誤解があるんだろう、だったらここで全てを解いてやろう。そう思った矢先、捲られた私の次のページの展開のつまらなさに私自身が落胆した。その人は意を決した様に目に力を込めて言った「金庫に入っていたはずの会社のお金どこに行ったかしってるよね?」電車がまた通過していたが私は構わず呆れながらも胸に込み上げて来るものがあり「その冗談つまらないですよ」と言って笑った。

私はそれから数ヶ月でその会社を退社する事になった。勿論私は何もしていないし、身に覚えもなかった、そもそも会社側も何の証拠も持っていなかった、そして数ヶ月経った今では私が犯人なのでは?という根拠も何も無い疑いはぼんやり霞んでそもそもそんな事すら無かったという様な空気が社内に流れていた。私が改めて辞めると言った時、一応建前としてか「勿体無いなー今まで頑張って来たのに、もう一度考え直してみない?」と言われどの口が?という思いが起こったが特に後ろ髪を引かれる様な思いはしなかった。なにより濡れ衣を着せられ辞めるまでに追い込まれた私だったけれど、今思い返せば、もっと他にやり様ならいくらでもあっ気きもする、それに私自身社会人としてしっかり会社に貢献して来た人間か?と問われるとそんな事は無かった、むしろあの場面で疑われた私にも何かしらの原因があったのだろうと思う。それに思い返してみれば私は周りの人達には恵まれていた、いざ辞めると成ると心の中には「ありがとう御座いました」以外の言葉は見つけられなかった。

私はこうやって引っ越しの準備のせいで昔の事を思い出しては、一々感傷に浸っているわけだけど、正直そんな事をしている暇はない、引っ越しの準備と同時に実は今無職の私は仕事も探さなくてはならず、奇しくもあの頃と今が不思議とリンクしている、けれど私は今どうしてもやってみたい事がある、いくつか候補も当たってみたら2件ほど手応えがあった。たったそれだけで私はもう安心感に包まれている、相変わらず地に足つかずフワフワと生きているけどこればっかりは生まれつきの性分と言える。生まれつきといえば最近よくネットニュースなどでも目にする様になった"失われた30年"というワード、調べてみるとこの失われた30年というのはまんま私の生きて来た時代を指し示す言葉だった。

アーネストヘミングウェイという作家の本を一時期読み漁っていた、ハードボイルドと言われてはいたけれど私はそうは感じなかった。確かに物語の中には熱があり、男達は戦い、女性も強かに生きていた、しかしその奥を覗き込んでみると変に静けさがあり物悲しい音がする。そんな数ある作品群の中で私が特に会った事も無いけれどヘミングウェイらしいなと思った作品は「移動祝祭日」「陽はまた昇る」というもので、これもぜひ読んで頂きたいのだけど、その中で主人公がパリでこんな言葉を突きつけられるシーンがあった。「あなた達は皆、失われた世代なのよ」、いわゆるロストジェネレーション、失われた世代、日本ではロスジェネとも略されるが私はそのフレーズにとても惹かれるものがあった。

私の好きなロックバンドも「さよならロストジェネレイション」という曲で(暗いねって君が嘆く様な時代なんて、もう僕らで終わりにしよう)と歌っていたのを思い出す、学校でも先生達から就職氷河期やら何やら紹介されて、次の世代のために今のあなた達が頑張らなくてはいけないよ、とも諭された。私はなんの事かさっぱりわからなかったが、最後には決まって大人は「あの時代は良かったのになぁ」といった顔をする。それはバブルが弾ける迄の時代、私は弾け飛んだ後に生まれた世代で、生まれた時にはもう既に何も無かったが、むしろそれが普通だった。そしてゆとり教育というものを受け、後にあれは失敗だったと言われる始末、失った上に私達は失敗とまで言われている?何を勝手な事を言っているんだ?あなた方が全てを弾けさせておいて、未来を担うのはあなた達よ!だって?せめてそんなつまらない話し方をせずにもっと人生の今後が楽しみになる様な話しをしてくれれば良いのにと思う、少なくとも私はそう生きて行くつもりだ。

私の幼い頃の記憶には不思議な境界線がある、例えば生まれて来た頃は世界は灰色がかっていた、幼稚園に通い始めた頃は完全に白黒の記憶しかない、お遊戯会で作った空のペットボトルに詰めたキラキラ光っていたであろう色とりどりのモールの色すら思い出せ無い、当時の覚えている色はお父さんの乗っていた真っ赤な車と、当時住んでいた家の中の色くらいである。その後私が幼稚園に行きたくないと言い始めたのをきっかけにして私は別の幼稚園へ転園する事となる、何が原因だったか?というと私の記憶では幼稚園の迎えのバスに乗せてもらえずに、私1人をバス停に残してプッシューっとドアが閉まり走り去って行ったバスを眺め遂には交差点を左折して見えなくなった光景を鮮明に覚えている、子供の私にとってはあまりにも切ない光景だったろう。私の親はそんな私の心を汲んですぐに動いてくれた。幸い転園先の幼稚園での記憶は今でも鮮明に美しい色彩に彩られている、全てが光り輝いて感じられるし、友達も初めて出来たと認識したのがこの頃である。それ故に色彩感覚は感情で培われて行くと言っても過言では無い気がするのです。つまり失われた30年というのはこの世界の彩りの事であり、私が感じるところの色彩感覚というものにも大きく関係してくるものはあると思う。知らないうちに私達は何かしらの彩りを失っているのかも?しれない。

幼稚園の卒園式での事は今でも不思議な気分にさせる。親に言っても何故か信じてくれない、もしかしたら私の記憶違いなのかもしれない、子供は確かに想像と現実を混同する。しかし私にとっては大切な思い出である、それはまるで映画の様で、ファンタジーな大冒険を終えて成長して帰って来た子供の主人公がお母さんに体験した事を話すと「何言ってんの?あんた一日中寝てただけじゃ無い」と言われてあの冒険の日々は夢だったのか?とポケットに手を入れると旅先で貰ったお守りが入っていたという様なものか、それはちょっと大袈裟だけど私の体験した事はこうだ、私は幼稚園の同じクラスの子に「後であの木の下で待ち合わせね」と言われた、私はドキドキしながら校庭の端にあった大きな木に向かう、恥ずかしくて木の裏に隠れているとその子はひょっこり現れて私にこう言った「これは将来また会えるおまじない」ニコッと笑って辺りに生えている水分を多く含んだ青々とした草を石と石ですり潰してその緑色の汁を私の白いシャツに塗ったのだ。その子は「また会える」そう言ってお母さんの元に駆けて行った。私は恥ずかしくてしばらくそこから動けずにいたが私を探す友達やお母さんの声がして周りを警戒しながら歩いて行った、帰りの車でお母さんにその話をしたがお母さんからすれば草の汁で汚れたシャツの方が問題だったらしい。今でもたまにその話をするけれど「あんたまだそんな事言ってんの?夢でしょ!そんなおまじない本当だったら怖いよ」と笑われてしまう、しかし汚れたシャツの事は確かに覚えているらしいかった。

私の中で色彩が更に変化した瞬間があった、あれは私が25歳の頃だ、あの頃も住んでいたアパートの取り壊しが決まり引っ越しを余儀なくされ、仕事もない時期だった。とりあえず繋ぎでアルバイトを見つけ、すぐに東京の上野にあるボロアパートに越した、ちょうどその頃ニュースではフランスのパリで同時多発テロが起こり騒然とした映像が流れていた。私はというと初めてやる業種に戸惑いながらも何とか日々を生きてた、職場の先輩から昔行ったパリ旅行の話を聞かされ聞き入っているとおもむろに財布から何かを取り出したかと思えば「使うならあげるよ」と言った。それはパリのメトロの回数券だった。

当時の私は何でかそれを受け取って本当にパリに飛んだ、フランス語なんて喋れもしないのにたった1人でトートバッグに下着を詰めて10日間。この旅は初日からエキサイティングな事が立て続けに起こった。シャルルドゴール空港に着いた私はバスで市内に向かった、そして北駅から早速電車に乗ってみようと思ったが仕組みがよくわからなかった、おどおどしていると現地の人らしき二十代男性が私にフレンドリーに話しかけて来た、私もそれに答え笑顔でジェスチャーを交えながら券の使い方を教えてくれた。改札を抜けホームに出るとその人は「japanise JUDO」と言いながらいきなり技をかけて来て私は見事にスコーンと倒されて駅のホームで仰向けになった。パリに来て初日の日本人の私がパリジャンに柔道技をかけられて簡単に負けてしまう、しかも受け身を取る暇も無く、悔しいというより意味がわからなかった、すると視界に満面の笑みを浮かべたそのパリジャンが手を差し伸べて見下ろしている、私はつくづく自分が日本人だなと思ったが「ありがとう」と言って手を握り起こしてもらった。パリジャンは私の背中の汚れをはたき落とすと手を振って立ち去って行った、「何だこの国」と思いながら手を振り返しまだ残っていた汚れを自分で叩き落とした時初めて違和感に気づく、財布が無かった、パリジャンはスリだった(以後スリジャンと呼ぶ)。私はすぐにスリジャンを追いかけた、まだ後ろ姿が見える、するとスリジャンはこちらをチラッと振り返り目が合うと駆け出した、私も走り出す、その直後更に意味のわからない事が起こった。私が走って行くと前方からこちらに向かって走ってくるゴスペル歌手の様な格好をした恰幅の良い女性が見えた、すごい存在感を放っている、私とゴスペルの間にスリジャンがいる、そしてゴスペルとスリジャンがすれ違うと同時にスリジャンはゴスペルに薙ぎ倒され仰向けに倒れたスリジャンを更に蹴飛ばす、スリジャンは仰向けになりながらジタバタして距離を取ろうとしている、よく見るとその傍に私の財布が転がっているのが見え私はそれをサッと拾い上げ走って逃げようと思ったが、感謝を伝えなきゃとゴスペルの方を向くとゴスペルは私なんて全く眼中になく、ただただスリジャンに詰め寄っていた、私の知らない別のストーリーがあったんだろうと察する、私は強く生きて行かねばと心に誓った。

その後もエキサイティングなパリは絶え間無く私を襲った、モンマルトルの丘で3人に囲まれ殴られ財布と間違えたのか携帯灰皿を奪われたり、日本のタバコが珍しくて10人くらいの行列が出来たりしながらも私は次第に歩き方を学び強くなって行った。そして3日も経つと私は随分気楽に歩ける様になりこの旅の目的であった美術館を巡りcafeで食事をとりエスプレッソを啜っていた。この街は本当に美術館とcafeが沢山ある、どの通りを歩いても新鮮で美しかった、歩いていると現地に住んでいる日本人に声をかけられたりする、一目見れば日本から来た観光客だとすぐわかるらしかった。私は宿泊しているホテルのモーニングブッフェでポケットに入れといた小さなリンゴを齧りながら活歩しコンコルド広場を抜けオルセー美術館に入った、そこで私は絵画を見ながら初めて涙が溢れるという体験をした。美術館を出た私はパリの街を眺めながらトボトボ歩いた、私はその時何を考えていたかは覚えていないけれど景色は覚えている、そして声を張る人達の一団を見かける、その向かいの建物には紙が張り出されていたが私はそれを読む事はできなかった、しかしそこがニュースで見たあのテロの現場だという事はわかった。私はこの旅でやり場の無い感情が渦巻いていてそれが次第に行く末を暗示していく様な予感が確信に変わったのである。

フランスの硬貨を眺めてそんな事をまたぼんやり思い出しながらも、引っ越しの準備は着実に進んでいった、絵画達もサイズ別に纏めて袋に絵同士で傷つけ合わない様に重ねて入れる、前の家からこの家に越して来た時も、そして私が絵の個展を開いた時も同じ様に纏めて運んだ事を思い出しながら、また個展をやりたいなと思った。私の描いた絵一枚一枚に自分の人生が滲んでいる、その為にまずこれから引っ越しと職探しをして行くわけだが実は私は先月までちゃんと働いていたのだ、雇用形態はアルバイトだったが7年勤めかなり広い範囲の仕事を任されてもいた、やりがいも感じていたし、何より楽しかった、じゃー何で辞めたの?と言われればそれは良い機会だと思ったから、私はそろそろやるべき事をやらなきゃならないと去年からずっと考えていた、それは一杯の珈琲に心血を注ぐ仕事だ。考え始めてから動き出すまで一年間かかった事になる、そしていよいよ明日が最終日という時に、学生の頃よくお世話になった地元の友達のお父さんの訃報を受けた。私は出勤出来ない旨を会社に伝えすぐに地元に向かった。

滅多に帰らない地元で私は心の中で何かに向き合う時が来たなーと改めて感じた、長年お世話になった職場を辞め、お世話になった人の訃報を受け、引っ越しがあり、職も探さなきゃいけない、お通夜に参列し友達に会い、簡単に会話を交わし立ち尽くす、私は学生時代の事を思い出しながら心の中で「ありがとうございます」と呟くと同時に思い出されたのは小学3年生の頃に車の事故で亡くなった私の父の事だった。当時私が感じた喪失感を今目の前の人達も感じている、私はあの時の自分と何ら変わり無くただ背筋を伸ばし手に数珠と汗を握りながらじっとしていることしか出来ない、喪主を務めた友達と帰り際に少し話す機会があったが私は何一つ気の利いた言葉も言えないまま帰りの電車の中で逃げて来た様な気分になった。

私達は何かを失ったらしいのだけど、パリで「失われた世代」と呼ばれた人達はむしろ生み出した人達だった。その影響は多岐に及び文化を拓き時代をも超えていった。今の私達にもそれくらいの気概があって良い、それに私達は本当に何かを失っているのだろうか?私はそうは思えない、そもそも先人が無くしたものを取り戻す為に生まれたんじゃ無い、かつてのエコール・ド・パリや池袋モンパルナスの様に迸るコミューンを、時代を、今の私達一人一人がここから創ってゆく為だ。

まずは明日の面接に備えてタバコを吸って寝ます、生きている事に感謝をして。

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