見出し画像

占有と権利/大岡政談「子争い」より

1 はじめに


今回は,大岡政談「子争い」を素材に,占有原理と権利思考について考えてみたいと思います。

この記事は,下記PDFで述べた法に関し,「占有」と「権利」の関係性をイメージ的に例解するものです(念のため:この記事は大岡政談を対象として現行法を解説するというような種類のものではありません)。



大岡政談の「子争い」という有名なお話をベースに私が勝手に作った下記のテクストをもとに,考えてみたいと思います(テクストと名乗るのもおこがましい拙文ですが,何かコツンとあたる対象物がありませんと考えづらいので設定しました。このお話については異なるバージョンがあり,内容に微妙な違いがあるという事情もあります)。



2 テクスト

【テクスト「子争い」】
 江戸のとある場所で,ある女性が一人の男の子を出産しました。その赤ん坊の父親はもとより行方知れず。その女性ではどうしても育てることができないので,さんざんに悩んだ挙句,里子に出すことにしました。
 
 さて時を経て,一つの騒ぎが持ち上がります。とらという名の男の子について,「私がその子の母親です。」と主張する二人の女性が争う事態となったのです。
 一方の女性はあさといい,「私が産んだ子です。やむなく里子に出したのです」と言います。他方の女性はせきといい,「まったく違います。この子は私が産んで,ここまで育ててきたのです」と言うのです。

 こうして,大岡越前守のもとにこの争いが持ち込まれたという次第です。

 大岡は,ふたりの女性の言い分を直接聞きますが,同じ主張の繰り返しです。出廷しているとらに聞いても分かるはずもありません。
 そこで,大岡は次のように命じます。「双方,とらの手1本か足1本をもって,引っ張れ。自分の方に引き寄せた者の方の子とする」。あさとらの腕を,せきとらの足を持って,それぞれ思いっきり引っ張りました。尋常ならざる痛みにとらが泣きに泣き叫んだので,あさは手を離してしまいます。瞬時にせきとらを引き寄せました。
 それを見た大岡は,「生んだ子の体を二つにしてでも取ろうとする鬼みたいな親はいない。手を離したあさの子だ。」と裁定しました。



3 大岡政談「子争い」への一視角


有名なお話であり大岡の「名裁き」といわれる代表的なものですが,では一体なにが名裁きの内実なのか,ということをみていきたいと思います(なお,このお話を(異なるバージョンを含めれば当然に)分析する角度はいくつもあるように思いますので,すべてを検討するわけではありません)。


このお話,真実の母親が分からないところからスタートします。

そこで,大岡が一計を案じて「引っ張り試合」をさせ,勝ったと思った方を負けさせ,負けたと思った方を勝たせるという劇的な手法を交えつつ,「真の母親は子のことを第一に思う(つまりは,自分の気持ち・利益・価値観よりも上位とする)のであり,そのことを法廷で立証したあさが真実の母親である。」と宣言して争いが終結します。

つまりは,あさが真実の母親であり,そのことを「引っ張り試合」で立証させ,他方のせき(さらにこれを見聞している衆人)にも感銘力を与えつつお裁きを下したところに,名裁きの内実がある,という見方が成り立ちます。

この見解に立ちますと,つぎのような帰結を導きます。

「このお話では,手を離した方が本当の母親でありそれが真実であるという前提があってこそ名裁きという評価となるが,手を放さなかった方が実は本当の母親だったとしたら,とんでもない誤判ということになる。」というものです(…こうした見方を「見解P」とします)。


しかし,「本当にそうだろうか?」というのがここでの問いです。

見解Pは常識的です。真実の母親が勝ち,それゆえに名裁きであるという評価になり,裏返せば,真実の母親が本当は負けていたということになれば,誤判という評価になるのですから。

こうした見解Pは,典型的な「権利思考」といえます。現代用語で言えば,「真に親権を有する者が勝つ(べき)」ということになります。


とろこがこのお話は,別様の見方もできると思います。

それは結論からいえば,権利主張の前提資格としての占有対象尊重の物語としての見方です。

占有という視点でみると,あさが里子に出したと認めており,せきとらを育ててきたことは明らかでしょうから,一見,せきとらとの間に固い関係性があり,かかるせきとらの間に築かれた関係性が占有として保障されるように思います。しかし,それは勘違いです。


「占有」というのは,高い質が要求されるとされています。単に,当該対象について,ある主体が他の主体より,より近い関係性であるというだけでは占有は認められません。占有は,ある主体とその対象との間の緊密な関係性を他の介入から守るものですから,それに値する関係性であること,つまりは,その主体が当該対象をかけがえのないものとして大切にしていることが,質の内実として要求されることになります。

このお話の場合,せきは,(先に手を放したあさとの比較において)とらを大事にしていません。せきは,かけがえのないとらが傷害及び障害を負っても,自分のもとに引き寄せようとしたからです。他方であさは,(手を放さなかったせきとの比較において)とらを大事にしています。かけがえのない大切なとらの体だと思えばこそ,自分の気持ちや価値観などをかなぐり捨てて,手を放したのです。それゆえに,せきではなく,あさとらとの間にこそ,真に占有に値する関係性を認め,あさの勝ちを裁定したのではないかと思うのです。

この見方に立つ場合,もはやあさが真の母親でなく,せきが真の母親であっても,「名裁き」であるとの評価は変わらないことになります。「親権者はどちらか」という問題設定ではなく,「真にとらをかけがえのないものとして大切にしているのはどちらか」という問題設定に変わっているからです。占有原理を尊重しない方は,それのみで敗北してしまい,仮に権利(本権)があったとしてもそれを主張する前提資格を失う。これが法の「占有原理」に基づく見方となります。



4 よこみち

以上ですが,脱線して雑感を記しておきたいと思います。


ひとつは,このお話の異なるバージョンについてです。

あるバージョンでは,物語の最初から,真の母親が同定されており,大岡の前で「この子は,私が産んで里子に出したのです。」と述べた女性が真の母親であることが読み手に分かっている状態で,引っ張り試合がなされていくというものがあります。

また他のバージョンでは,大岡が引っ張り試合のルールを述べる際,「双方,その子の腕なり足を引っ張れ。その勝負で勝った者の子とする。」とだけ述べ,「自分に引き寄せた方を勝ちとして,その者の子とする」とは言わないというものがあります。

こうした複数バージョンが生まれることにはそれ自体に深い意味があり,そのお話を伝えようとする人の法感覚とでも呼ぶべきものが影響しているようにも思われ,非常に興味深いところです。


ふたつ目は,引っ張り試合の機能についてです。

引っ張り試合をする前,どちらを子の親として勝たせるか,大岡は決め手に欠いていたのでしょう(か)。なぜ決め手に欠いたか? 当然,決め手になる証拠,つまりは情報が足りないからです。

そこで大岡は,双方の女性について,差異を生じさせる,つまりは情報を生成するという手段にでたわけです(差異と情報のもっとも分かりやすい説明は,岩井克人「差異と人間」9頁『資本主義を語る』(ちくま学芸文庫,1997)参照)。

この引っ張り試合は,とらにとっては過酷きわまるもので,権力者 大岡による虐待といえると思いますが,しかしながらそのような過激な手法をとることによって,双方の女性を真っ向衝突させ,それによって,必ず双方の女性の対応に差異が生じるよう工夫されているところに,大岡の機知があるといえましょう。

差異が生じれば,それが情報ですから,その情報を証拠扱いして,大岡は涼しい顔をして悠然とお裁きを下したのだと思います。



【雑多メモ】
大岡が命じた「引っ張り試合」は、意図的に「緊急時」を作出し、対象に危険を生じさせ、当該対象によりよい関係性を作る(逆に言えばより悪い関係性を作る)のはどちらの方であるかをあぶりだす方法であるといえます。占有原理は、まずは緊急的に作動し、対象と緊密良好な関係性を築いている状態に介入してくる者の行為を違法としてこれを排除するという動機であり、しかし同原理は、その後、慎重な審理に基づいて対象を移転する(占有を設置し直す)ことを妨げません。大岡の方法は、後者の慎重審理方式をとらず(あるいは証拠がないためにとれず)、あえて「緊急時」という占有原理発動の典型状況を作り出して当事者に行動するよう迫り、これにより占有対象を尊重しているのはどちらかを強制的に表出させる仕掛けの方をとった、といえます。


*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク

【参考文献】
木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018)
木庭顕『法学再入門 秘密の扉 民事法篇』(有斐閣,2016)
岩井克人『資本主義を語る』(ちくま学芸文庫,1997)





【関連記事】







この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?