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大切なものとの距離/手塚治虫,ブラック・ジャック「ストラディバリウス」より

〔このnote記事では、手塚治虫「ストラディバリウス」(『ブラック・ジャック②』(秋田文庫,1993)所収)の内容に触れますので、まだお読みでない方はご留意願います〕

1 はじめに

北極周辺をとおり東京へ向かおうという旅客機がいま、計器異常のために緊急着陸を余儀なくされる。そこは荒れ狂ったような猛吹雪の凍てついた大地である。ブラック・ジャック、世界的なヴァイオリニストのモロゾフ、他の乗客も乗員も、人間の都合など一切考慮しない厳たる自然という大いなる力に包まれる。

飛行機から降りて現地の人の建物に避難しようということになるが、ここに重大な問題が発生する。モロゾフはそのヴァイオリニストの生命たる一挺の「ストラディバリウス」を持ち出していけるのか、という問題である。外は何ものをも吹き飛ばそうという猛吹雪である。持ち物など簡単に風にもっていかれてしまうとの警告を受けるが、モロゾフは「このバイオリンはわしの命だぞ」(同書219頁)と叫んで機外を進む。案の定、名器は彼の腕からはぎ取られてしまう。他方、ブラック・ジャックはメスなどを入れた鞄を機内に置いていくことにする。

ここから物語は、当然のように二人を対抗させて、その様相を深く描き出していく。

手塚治虫「ストラディバリウス」『ブラック・ジャック』より


今回は、手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』所収「ストラディバリウス」を、限られた視点からではありますが、読んでいきたいと思います。

*素晴らしい作品です。ご興味のある方はぜひ下記を手に取っていただければと思います。

手塚治虫『BLACK JACK 第2巻』(秋田文庫,1993)


2 「ストラディバリウス」への一視角

(1)モロゾフにとってのストラディバリウス、ブラック・ジャックにとっての手術道具


「… 一人一人が掛け替えのない何かを自分のもとに具体的に持っている ...」

木庭顕『新版 ローマ法案内』41頁(勁草書房,2017)


モロゾフは、このストラディバリウスは私の命であり、子どもであり、自分の指にとっての愛人、夫婦なんだとしきりに訴えます。このヴァイオリンは彼が大切に守り、かなで続けてきた「掛けがえのない何か」でありました。それが、いまない。この指でさわれない。当然、モロゾフは行動に出ます。避難している小屋を抜け出して探しに行くのです。二度も。そのおかげで彼は凍死しかかり、指は凍傷により壊死に向かうことになります。

他方でブラック・ジャックは、ヴァイオリニストの指を救う手術道具がない。鞄を機内に置いてきたからでした。

モロゾフは箴言のように言います。「自分が生きるためには大事なものはいつも身から離さぬことですて」「たとえば先生にとっては手術器具でしょうな」「あれは先生……飛行機の中においてくるべきではなかった…」(同書234頁)。ブラック・ジャックは背を向けてがっくりとうなだれて、何も言うことができないのでした。

(2)距離ゼロの考え方


当然のことながら、ここで示されるモチーフは、「他の誰でもないこの自分の人生、一個の人間として生きるうえで真に掛けがえのないもの、それがなければもはや本当には生きているとは言えなくなるもの、これを決して自身から離してはいけないのだ」というものです。うなだれて言葉を返すことさえできないブラック・ジャックがこれを象徴し、〈俺はなぜメスを置いてきたのか。あの鞄は私の手元から一時たりとも離してはならなかったのだ>と無言で嘆いていると捉えることが自然です。

これは「距離ゼロ」の考え方といえます。

主体とその主体にとって掛けがえのないもの、この関係性が尊重され守られていること、この関係性の間に何らの障壁や介在物がないことが、人が自由に生きる基盤、自分が自分らしく生きることのキーストーンであるとの思想が基礎にあります。そのため、当該主体とその対象との距離はゼロに近ければ近い方がよい、こうした考え方です。

(3)対象を本当に大切にするとは


「距離ゼロ」の考え方からすれば、機外に出る際にブラック・ジャックが医療器具の入った鞄を機内に置いてきたことが彼の過ち、誰に対してということではなく、天才外科医たる彼自身の生にとっての過ちであった、ということになるでしょう。

しかし本当にそうだったのか、というのがここで考えてみたいことです。換言すれば、ブラック・ジャックがうなだれて沈黙していた理由は実際のところ何であったか、というものです。

もちろん、この問いへの一つの回答は、物語上それほど隠されているというものでもありません。あんな猛吹雪の中でブラック・ジャックが鞄を抱えて機外に出たら、かのストラディバリウスと同じように彼は大事な医療器具をそっくり失うこととなり、結局はモロゾフの指の壊死には何ら対応できないという帰結は変わらない、と言えます。大体、モロゾフが探しになど行かなければ、こんな進退窮まる事態にはならなかったのであり、ブラック・ジャックが言うべき言葉を見いだせなかったこの結果は彼自身の行動には起因しておらず、猛吹雪という自然力とモロゾフのヒューマンエラーが発生させた不可抗力が原因だとも見えます。かかる事象に対して無力をさらすブラック・ジャック、これを表現するための沈黙、という論理の流れです。

確かに先の問いに対してこのように回答することができます。この場合、「距離ゼロ」の規範は何ら揺るぎません。近ければ近い方がよい。しかし、今回は不可抗力でそうはいかなかったのだ、というわけです。

(4)もう一つの考え方


主体とその主体にとって掛けがえのない対象との関係性には、「距離ゼロ」の規範とは別に、伝統的にもう一つの発展バージョンがあります。それは、「大切だからこそ距離をとる」というモチーフです。

このモチーフの類似系列としては、「大切だからこそ閉じ込めずにオープンにしておく」「大切だからこそ対象を信頼してその自由を愛す」「大切だからこそ自己から離して成長の機会を注ぐ」「大切だからこそ信頼できる人に託す」といったものがあります。

やはりかわいい子は厳しい現実にさらして成長してもらうために、外部に出して武者修行をさせます。自分の子どものように育んだ知識・技術体系、発見・発明であるからこそ、自分一人で抱えて悦に入って独占するのではなく、自分が死んだあとを想い、他者に伝授し教育していく。社会や国を大事に思えばこそ、その国政を他者に託す(日本国憲法前文「…国民の厳粛な信託による…」)。名画は自宅に飾って盗難の憂き目に遭うのではなく、セキュリティーの高い美術館で展示してもらう。法律家であれば、これらの形態に信託や委任の直接的・間接的イメージをみることは容易でありましょう。

このような「大切であるがゆえに距離をとる」という考え方の類似系列をざっくりと二分してみるとするならば、「対象へプラスを与える」型と「対象へのマイナスを避ける」型の二つの型があるといえます。対象を大切だと思えばこそ、プラスを与えマイナスを避けさせる、そのためにこそ距離をとるわけです。これを「距離ゼロ」の考え方へ逆投影すると、大切な対象にプラスを注ぎ、マイナスを振り払うために近くにおく、手元においておく、という二類型をみることができるようになります。

さて、モロゾフはどうしたか。彼は自分の腕にヴァイオリンを抱え込んだ。距離ゼロに執着し決して離すまいとした。それゆえにこそ、モロゾフはヴァイオリンを失ったのです。ストラディバリウスに襲い掛かるマイナスを軽視したのです。一方で、風に奪われまいとしたブラック・ジャックは鞄を機内に残した。大切であるがゆえに距離をとった。しかしそれゆえにこそ、大事なときに手術ができないという苦悩を受ける。メス本体が自己を発揮するというプラスの機会を与えそこなったのです。

この二重の逆説的展開が、「本当に対象を大切にするとはどういうことなのか」という問いを、読み手に強烈に投げかけるのだと思います。そのように考えてみますと、モロゾフの箴言的セリフは一面的にすぎ、ブラック・ジャックの沈黙は、この渦巻く二重の対抗をひとり感受している孤独な姿のように思えるのです。


3 おわりに


手術は失敗した。世界中の人の心を潤し、慰め、癒してきたあのヴァイオリンと音楽家の指は、永遠にその関係性を絶ち切られてしまった。音楽はもはや聴こえない。

しかし物語の最後、現地の人が距離ゼロを象徴的なかたちで叶えてあげて、読む者に静かな感銘を残す。最終ページに添えられた言葉と絵は、また何と美しいのでしょうか。





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