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剥がれ落ちるように書きつける - 秘密結社「喫煙所」(第24通目)

この記事は、素直さと向き合おうとしているふたりが、答えのないことを問い続けていく文通マガジン『秘密結社「喫煙所」』の第24通目です。お互いの記事を読んで、文通のように言葉を紡いでいきます。

秘密結社「喫煙所」

タオさんへ

特定の誰かのことを書くとき、「顔の輪郭をなぞるように文章を紡いでいく」という感覚が、タオさんにはあるのかもしれないと想像してみた。「似顔絵を描く」って表現、すごくおもしろいよね。

ヒロさんも日常的に書いているよね。そのときはどんな感覚なんだろう? 書くことに関して思うこと、考えていること、感じていることがあったら、自由につらつらと書いてみてください。

書く時に感じることとは?- 秘密結社「喫煙所」(第23通目)

ありがとう。確かに小論文みたいだ笑

まず、自分が好ましいと思う文章は、「孤独」という深い海に潜って書いたような印象を受けるものだった。きっと本人としては、自分のためではあるが、自分だけのためではなくて、誰かのためという気持ちもなくはないという感じではないかと思っている。いきなり「誰かのため」ではないはず。

自分を深く見つめて、孤独の声を聞き、静寂とともに書いた文章は、その人にとって認めがたいほど素直であるはずで、誰にも見せずに取っておくこともできる。だけど、それを誰かに見られる場所に置くとき、何かしらの祈りが込められるんじゃないかな。

自分に酔った感じや他者からどう見られるかという目線が多い文章は、ほんとに、ほんとに好きではない。そういったラインは曖昧なんだけど、きっと見せる際の祈りに込められた、その人の孤独がどう形作られているかによって決まるのだと思っている。

「こんなこと思ってしまったみたいです」と自分自身で途方に暮れている。その場所に"すとん"と存在してしまっている。そういった気持ちで、その場に置いておくような文章は、自身の孤独を探求している過程を一緒に見ているようで、ほんとに好きだし、その美しさに救われるような気持ちになる。

そういった好きな書き手たちは、『「損するぐらいの気持ちで」「自身の全てを投げるように」「誰にも言えないようなことを」「世界と差し違えるように」「殺す気で」書くのだ』とそれぞれ表現していた。

なんとなく共通点がありそうだけど、「等身大の自分を曝け出す勇気を持つ」というニュアンスでは、この言葉を受け取らなかったんだよね。

ただ、自身の素直さというものは、ときに目を背けたくなるようなもので、それを誰かに見てもらうという認識があると、その素直さから生まれたものを歪めようとしてしまう。だからこそ、深く潜っていけばいくほど、ただそこにあったものを書く。書くしかないという気持ちになるのだと思うから。

書くことは、自身が剥がれ落ちるように、「書く」というよりは「書きつける」という作業であるように思う。

あるとき、自身がどうしても"とっておきたかった"ものが、失われてしまったと感じることがあってね。

芥川龍之介は「自分は文学を、つまり創作を自分の一生の仕事として選んだが、そう決めて、東京の町はずれを歩いていたとき、雨の水たまりがあって、電線が垂れさがり、紫の火花を出していた。そのとき自分は、他の何ものを捨てても、この紫の火花だけはとっておきたいと思った」と言っていて、まさに自分は、この"紫の火花"を失ったと思った。

そのとき確かに、「望んだ形の自分は死んだのだ」と思った。遠い存在であった"死"というものを、初めて身近に感じた。それは死にたくなったとかではなくてね(なるけど)。望んだ形の自分は既に死んでしまった。どうしようもなく。だからこれからの自分は、望んだ形にならなかったという自分は、どうしても"とっておきたかった"ものを弔いながら生きていくのだと思った。

後日、自分で書いた文章を読み直したとき、「へーなるほどねぇ」と新鮮に感じるときがある。もちろん、なんとなく覚えているのだけど、そのとき の熱量は既に過ぎ去ってしまっているからだろうね。

そういうときを振り返ると、自身がそこに剥がれ落ちていると感じる。書くというより、「書きつけた」という実感が伴う。そのときの自分は死んでしまったが、確かにそこに宿っている。そう感じるときがある。

だから、書くことは救いでもある。そのときの熱量、感情、出来事を自分で書くことはできる。何を書くのか、書かないのか。本当のことを書くのか、望むことを書くのか。過ぎ去ってしまうものを、望む形の自分が死んでしまっても、書くことはできる。それはどれだけ救いになることだろうか。書くことが自分にとって大切なものになるなんて、微塵も思わなかったよね。

ずっと、雑記のような短い文章を日記に書いていた。どこにも出す予定はなく、自身で読み返すことも少ない。書いているという認識すらなかった。ただのメモだと。自分にとって書くことは、誰かに見られる「記事」として書くことと同意義だったから。

もしかしたら、書くことと見せることは全く別であるのに、まとめて考えすぎているのかもしれないよね。書くことは、書いてしまったらそこに存在している。たとえ、誰にも見られるものでなくとも、確かに存在している。

タオさんには伝えたけど、最近そういった雑記を写真と組み合わせて、細々と公開している。それが溜まってきたら、初めてZINEを作ろうとしている。

これを「公開する」という行為に、自身が納得するまで、すごく大変だった。理由は長くなるから割愛するけど。だって、自分にとって、剥がれ落ちるように書きつけた文章は、誰にも見せなくとも、そこに存在しているわけで、わざわざ見せる理由がない。見せるということは、やっぱり書くことからは独立しているんだと思う。

日記を書いてZINEにしている人が、「書くことは奉納」と笑いながら言っていて、確かに書いたものを公開するときは、人に届けたい気持ちより、何かに明け渡すというか、隙間のようなところに刺しこむような感覚があるような気がする。

書くと見せるは別であるからこそ、誰にも見られることのない文章の存在を認めたい、なかったことにしたくないと思う。でも、文章読むの好きだから、そういった文章はめっちゃ読みたいけどね笑

・・・

鍛えるも内的な深い探究だったりするんだろうか

好きな書き手が「書く」について言及しているのを読むと、ほんとに嬉しい気分になる。迷ったけど、やっぱりタオさんの「書く」に関することを聞いてみたい。インタビューにおける書くこと、普段の書くこと、そして書いたものを見せることについても聞きたい。てんこもりだけど、自由につらつらと書いてみてください〜

【今回の問い】

【今回の問いに対する返事】

【前回の問いと返事】

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