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対等を目指すのは"良いこと"なのだろうか? - 秘密結社「喫煙所」(第21通目)

この記事は、素直さと向き合おうとしているふたりが、答えのないことを問い続けていく文通マガジン『秘密結社「喫煙所」』の第21通目です。お互いの記事を読んで、文通のように言葉を紡いでいきます。

秘密結社「喫煙所」

タオさんへ

「対等」をどう捉えるか、最近は悩んでいる。

なるべく人とは対等に関わっていたいと思っていたし、それが関係性を築く上で、大切なことだと信じて疑わなかった。

だけど、あるとき、自分は「対等さ」に妙に固執しているんじゃないかと思ったんだよね。「肩書きや年齢、性別などのラベルに囚われず、とにかく対等である"べき"だ」と。目の前の相手よりも、対等さの実現ばかりに執着している自分に気付いた。

もちろん、お互いのラベルの違いで、どちらか一方が我慢を強いられるような関係性は望ましくないと思う。やっぱり、力関係のようなものを持ち込まず、お互いに尊重する相手として接していくような関係が好みなんだよね。

ただ、目の前の相手が積み重ねたものや背景などを見ないふりをしたり、フランクな関係だけを良しとしたりするのも、なんだか、人との繋がりの可能性を消してしまっているような気がしていて。

前にも言ったけど、対等を目指すということは、そこに存在するために、何か貢献させるような強制力となる側面があるのだと思う。最近聞いて納得した言葉を引用すると、「対等を求めすぎると、コミットを過剰に求めることに繋がりやすい」という部分。

確かに、結果的に"対等のような状態"になったら居心地が良いとは思うんだけど、「対等なんだから、あなたも協力しなさいよね」と、それぞれの温度や距離感を一定のラインまで強制させることになるならば、"対等を目指す"というのは、どうなんだろうと思ったよね。

対等というより、尊重みたいな態度は関わってくる気がするし、立場が違うことで、どのように関わるかはそれぞれ異なる気がする。気分にもよるだろうし。うーん、むずかしいけど、わりと簡単なことでもあるような。

というわけで、「対等」というものをタオさんはどう捉えている?

無茶振りになってしまった気もするから、対等に関するイメージとか、なぜ対等性みたいなものが重要だと思ってしまうのか、理想的な人との関係性など、ざっくりで良いから聞けたら嬉しい!

・・・

食の排除性には自覚的でありたい。「良かったらどうぞ」は叶わないかもしれない

本を読むときは、今読みたくてたまらない本、読書会など優先的に読みたい本、疲れていても読みやすい本(小説、エッセイなど)、むずいけど長時間移動とかならがっつり読めそうな本とか、同時並行で読んでいて、本を読むときの気分によって本を変えている。それをずっと自然にやっていて、意識したのは最近だった。もちろん、この分け方は変わったりする。でも、「今読みたくてたまらない本」が最近は多すぎて、幸せなのか、苦しいのか、よくわからないまま読み続けている。タオさんの本の読み方も気になるな。

【今回の問いに対する返事】

【前回の問いと返事】

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