【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 14
2月に入って、百済・高句麗・新羅の半島三国が、大王崩御を弔う使者を送って来た。使者は、弔いの言葉や献上品とともに、百済・高句麗の政変の知らせを齎した。
朝鮮半島に、新羅・高句麗・百済の三国が建国されたのは、紀元前1世紀後半頃である(『三国史記』)。
最も早いのは新羅で、紀元前五七年に卵から生まれた朴赫居世(ぱくひょっごせ)が、居西干(ごそがん)(当時の辰韓の言葉で王)に即位した建国神話が残っている。ただ、中国の歴史書に新羅の名前が出てくるのが4世紀のことで、このため辰韓の斯盧(しろ)国が前身となり、356年の第17代奈勿(ねむる)王から新羅となったようだ。
新羅王は、朴氏、昔氏、金氏と続くが、我が国で推古・皇極の女帝が誕生したこの時期には、新羅においても善徳(ぜんとく)王・真(しん)徳(しんとく)王と2代続いて女帝が誕生している。
高句麗は、紀元前37年に、こちらも卵から生まれた高朱蒙(こじゅもん)によって建国されたという神話が残っている。実際は、紀元前1世紀頃に、現在の中国遼寧省と吉林省の省境付近にあった中国の玄菟郡が西に移動し、もとの場所に高句麗県を置いたのが始まりであるらしい。
高句麗は、国境を隋・唐と接していたため、常に大国と対峙しなければならなかったが、隋・唐いずれの攻撃も撃破している。
百済の建国神話であるが、紀元前18年に、高句麗の始祖である高朱蒙の息子温祚(おんじゅ)が、異母兄(高句麗王二代目、琉璃(ゆり)王)から逃れて建国したのが百済であるらしい。
百済建国には諸説があるらしく、その起源は謎に包まれている。
有力なものとしては、高句麗の将軍によって建国されたという説や馬韓の伯済(はくざい)国が前身であるという説もある。
百済は、古くから倭国との関係が深かった。『日本書紀』には、百済に任那(みまな)を割譲した記録や援軍を送った記録が見られる。また、舒明天皇の治世3(631)年に、百済は倭国に豊璋(ほうしょう)王子を人質として差し出している。
この後、百済は滅亡するのだが、その時の百済人の亡命先になったのが倭国であった。
三国は、常に侵し、侵される状況にあった。
そのため、三国はそれぞれ隋・唐や倭国と連携を深めていかなければならなかった。
これが、以後、大国のエゴに翻弄されていく半島の悲劇の始まりでもあった。
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