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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 31(了)

 年の瀬が迫ったころ、巷では飛鳥の鼠が大量に北へと移動しているという噂が広がった。

「ワシも見たで、何百匹という鼠がぞろぞろと走り去っていくのを」

「ほんまけ?」

「ほんまじゃ! 気持ち悪うてな」

「なんやろうか? また地揺れとか、大水とかやろうか?」

「いや、もしかしたら宮遷しかもしれへんど」

「またか? 今度はどこや? また難波か?」

「鼠は北へ向かってたんや、難波は西や。すると、北の方は……」

「北に、宮を造るところなんてあんのけ?」

「最近淡海ちゅうでっかい池のほとりに、なや色んなものを建てとるらしいからな。もしかしたら、そこかも知れへんで」

「淡海なんて、あんな辺鄙なところに宮を遷してどないすんねん? 飛鳥が一番やないけ?」

「お偉いさんの考えとることなんて、ワシ、知らんがな。どうせ、方角が悪いとか、場所が悪いとか、そんな理由やろう」

「そんな理由で宮遷しされたら敵わんな。また人を出せとか、稲を出せとか言われるんやろうな」

「全く、ワシらは奴婢以下やな」

 と、人々は陰口を叩いた。

 奴婢は道具のような扱いだが、衣食住はある程度保証された。

 一般の人は、人としての権利は保証されるが、重い税と気まぐれな天候に、明日生きていけるかそれさえ定かではなかった。

 人々が懸念したとおり、年が明けて宮遷しの命が下った。

 案の定、人を出せ、稲を出せである。

 斑鳩寺からも何人か寄越せと言われ、寺法頭の下氷雑物が張り切っている。

 さすがに、これ以上は無理だと寺司の聞師が言うのだが、「お国のためだ」「お国のだめだ」と連呼されると、反論しにくい。

 挙句に、

「今回の宮遷しは、百済移民に新しい土地を当たるためでもあるのですよ」

 と、言われると、もともと百済とのつながりのある斑鳩寺から人を出さずにはいられず、また10人ほどかき集めて、近江へと送り出した。

 大伴氏からも人員を出すことになった。

 兵士を何人か送り込むことになったが、八重女と毎日のように逢瀬を交わしている黒万呂は、今度は手を上げることはなく、指名されないように小さくなっていた。

 が、何のいたずらか、当たってしまった。

 大津に、なぜ自分が近江に行かなければならないのかと抗議した。

「なんでって……、命令やからな」

 大津は、こいつは何を言ってるんだという顔だった。

「いや、俺は大伴本家の警護がいいっす」

「お前……、この前は筑紫に行きたいとか言ってなかったか?」

 いつの話だ。

「兎も角、これは命令だ、近江へ行って来い。大国さま直々の命令だ、それだけお前を買っているということだ。それとも、何かあるのか? 女でもできたか?」

 黒万呂は一瞬顔を引き攣らせ、「いえ」と引き下がるしかなかった。

 正直に女ができたといえば、大津のことだ、考慮してくれるかもしれない。

 だが、相手は今や貴人……しかも、表向き大伴家の娘だ ―― むかしは奴婢であったとしても、そんな娘と結ばれたなどと分かれば、どんな目に合うか分からない。

 一生会えなくなることだってありうる。

 それなら、ここは我慢して近江へ行き、頃合いを見て戻ってくるしかないだろう。

 ずっと近江へ行っていろということでもないし、今までだって死ぬ思いをして飛鳥に戻ってきた。

 今度も………………

 そう思って、黒万呂は八重女に近江行きを打ち明けた。

 当初は嫌がるかと思っていたが、女は意外に素直に受け入れた。

「仕方ないわ、それが私たちの宿命ですもの。誰かの命に従わなければならない……」

 八重女は、そういう人生を歩んでこなければならなかったのだ。

 それは、黒万呂も同じ。

 いや、奴婢という存在が、そうだった。

「でも、大丈夫よ。黒万呂はきっと帰ってくる、そうよね、きっと……」

 女は、潤んだ瞳で見上げる。

「ああ、きっと戻ってくる。俺は絶対に戻ってくるで。そやから、待っててくれ、誰のものにもならず……」

 黒万呂は、八重女を抱きしめながら、空を見上げる。

 女との新たな人生を思い描きながら………………

(了)

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