【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 18
冷たい風が吹き付ける。
雪女は、乱れた髪を直すこともせず、じっと大地を見下ろしている。
盛り上がった土が、大なり小なり連なっている ―― 奴婢たちの墓場である。
墓標もなく、ただ土竜の通り道のように盛り上がっているだけだが、その下には斑鳩寺で死んでいった家族や仲間たちが眠っている。
雪女は、その片隅の盛土の前に佇んでいた。
隣のよりも僅かに色が濃く、新しい ―― 数か月前に亡くなった母のものである。
つい先ほど、弟成のことを報告した。
そちらに行ったので、笑顔で出迎えてほしいと。
子どもの頃は、あんなに甘えん坊で弱々しかったのに、遠い国に行って頑張ったのだから、優しく抱きしめて欲しいと、褒めてやってほしいと。
―― そして、私自身は………………
「弟成の墓は造らないのですか?」
唐突に後ろからかけられた声に、雪女は驚きもせず、そして振り返りもしなかった。
それが誰の声か分かっている、寺司の聞師である。
「入る者がいませんから」
雪女は、そっけなく答えた。
夫の忍人は、弟成の墓を造ろうとしてくれた。
が、妻はそれを拒んだ。
入る者がいない ―― 遺体がない ―― と答えたが、雪女の心には、ひょっとしてまだ生きているのではないかという肉親としての想い………………執念みたいなものがあった。
「惜しい男を亡くしました」
と、聞師に言われたとき、それが弟成への最大限の敬意であり、残された家族への最高の弔いの言葉だろうとは分かったのだが、正直心が疼いた。
「生前、聞師様には良くしていただいたようで」
雪女は、振り返りもせずに言った。
「いえ、むしろ私のほうが学ばされたほうです」
「そう言っていただければ、あの子も喜ぶでしょう」
「そうですね。ただ、できれば生きて帰って欲しかった、彼にはどうしても聞きたいことがあったので……」
「聞きたいこと?」
と、ここで初めて振り返った。
聞師は、どこか思いつめた顔をしている。
「ええ……」
「それは?」
「それは……」と、しばらく考えたあと、彼方を見て、いや弟成の沈んだ白村江の方を仰ぎ見て、「その道が正しかったのかと?」
「その道……」と、雪女も同じ方を見た。
かさかさと、風が枯葉を転がしていく。
「私には……、難しいことは分かりません」と、雪女は目を伏せながら言った、「ただ、あの子が歩んだ道に間違いはないと思います」
「なぜ?」
「なぜって……、そう思わなければ、あの子が可哀想です」
雪女はしゃがみ込み、母の盛土をそっと撫ぜた。
「可哀想だけで……?」
「それでは、いけませんか? それが、家族としての想いだと、私は思います。元来私たち奴婢は、道なんてもの、ありませんもの」
聞師は、ぎっと眉を寄せた ―― それが恐らく反論するための準備だろうと雪女には分かったが、彼と議論するつもりはなかたし、到底議論するなど身分違いも甚だしいし、それだけの学もない、ただこれ以上話すのは億劫なので、急いで遮った。
「私は婢です、それ以上でもそれ以外でもありません。婢として生まれ、婢として育ち、婢として子を産み、婢として死んでいく。ただそれだけの存在です。ただ静かに、その流れの中で生きているだけです」
雪女は立ち上がり、大地に頭が付くほどお辞儀をしたあと、去っていた。
聞師は、その後ろ姿を黙って見つめた。
やはり後ろ姿が弟成に似ている。
『私は奴です! 奴には、奴の道があります!』と去って行った彼の後ろ姿に………………
―― それは違う!
それは違うぞ!
と、頭の中で繰り返すのだが、では何が違うのか?
それは、聞師にも答えられなかった。
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