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【小説】『おかえり』 4

「きみは欲しくないのか、お金」、俺は話を逸らした。

「別に」と、彼は即答した。

「別にって、じゃあ、将来どうやって生活するんだ。まさか、親のすねを齧って生きようなんて思ってるんじゃないだろうな」

「そんなつもりはありませんよ」、彼は慌てて首を振る、「卒業したあとまで、親に面倒を見てもらうつもりはありませんよ」

「それなら、やっぱり金が必要だ。金は、あって困るものじゃない。何をするにしたって、金は必要だぞ」

「でも、そんなに齷齪してお金を稼がなくてもいいと思うんですよ。一生お金のために働くなんて、まるでマネー・アニマルじゃないですか。僕は、そんな生活は真っ平です」

 エコノミック・アニマルなんて言葉が流行ったが、マネー・アニマルとはさらに辛辣だ。

「しかし、動物なんてみんな食べるために生きているようなものだろう。動物は、一生の大半を食べるか寝るかで費やすそうじゃないか。だとすると、人間も食べるためにはお金が必要なんだから、人生の大半をお金稼ぎのために費やすことのほうが、むしろ本来の姿だと思うぞ」

「でも、僕らは動物じゃない、人間です。本能のジレンマから逃れ、人間として生きていかなくてはならないと思うんです。サルの本能がそのまま進化したような欲望だけの資本主義から脱却し、人間を人間たらしめる精神主義社会を造っていかなくてはならないと思うんですよ」

「そいつは楽しそうな世界だな」

 俺は嫌味を込めて、〝楽しそうな〟に力を入れた。

 青年はその通りだと答えた。

「それで、きみは人間として将来どうしたいんだ、その楽しい社会を造るために」

「僕は大きなことをやりたいんです」

 また出た、抽象的な概念。そこに何の具体性も、実効性も伴っていない。曖昧な概念で現実から目を逸らそうとする。きみが何と言おうと、俺たちは〝堕落した資本主義〟の中で生きているのだ。大切なのは言葉じゃない。物だ、実効だ。

 きみはいったい何をしたいのかと、彼に問うた。

 しばらくの沈黙のあと、彼は口を開いた。

「絵ですかね。絵で、世界を変えられたらと思うんです」

 先程までの自信たっぷりの口調とは打って変わり、まるで下手な贋作師のように随分心細い物言いだ。

「迷ってるのか?」

 彼の顔が困惑したように硬直する。

「分かりますか?」

「そりゃ、きみよりも20は年食ってんだ」

「そうですよね」

 急に、ほっと安堵したように顔が緩む。気のせいかもしれないが、悩みを見抜かれて嬉しそうな顔をしている。

「バブルのときは、絵なんて一枚何十万、何百万、下手すりゃ何億で売れたけど、最近はサッパリだろう。借金の形に差し押さえられたり、売り飛ばされたりしてるらしいが、二束三文らしいじゃないか。やっぱり、将来絵だけで食っていくのは難しいんだろう」

「僕は、芸術を売り物にすのが嫌いなんですよ。純粋に絵が好きだから描いてるんです」

「じゃあ、何に迷ってるんだ」

 青年は答えなかった。

「まあいいや。それよりも、あそこで昼飯にしないか」

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