【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 7
その入鹿の言を、斑鳩宮の酒宴上で敏傍はほろ酔い気分で漏らしてしまった。
別段、本人に含むところはなかったのだが、これを聞いていた山背大兄の妻、舂米女王は激怒した。
「それは、山背様に大王の資格がないということですか?」
敏傍は、舂米女王の激昂に驚いた。
いや、その怒りに驚いたのは敏傍だけでなく、ともに酒に酔っていた連中も同様であった。
中でも、一番驚いていたのは山背大兄本人であった。
「えっ……、そ、それは、一体どういうことでしょうか?」
敏傍には、舂米女王が激怒した理由が分からなかった。
「山背様には、大王の資格がないのですかと訊いたのです」
舂米女王は、目を見開いて訊いた。
彼女は、昨今の大和一体に流れている噂を非常に気にしていたのだ。
それは、「大后様こそ、大王に相応しい」と。
女性の大王は前例があった。
しかも、額田部大王の36年間は非常に安定していた。
それに加え、夏の宝大后の奇跡である。
人々は、大王に仁徳とともに、神がかり的な力を期待していた。
舂米女王は、そんな民の声を大后待望論として警戒しており、その矢先の入鹿の発言だった。
これが、蘇我家以外の臣下の言葉ならば、彼女もそれほど怒りを顕わにしなかっただろうが、蘇我本家の、しかも、次の大臣になろうかという人間が言った言葉だけに、入鹿の裏切り行為だと舂米女王は思ったのである。
「いえ、そんなことはございません。次期大王には山背大兄しかいらっしゃいません」
「では、なぜ林臣は、大王には奇跡を起こす力が必要だと言うのですか?」
舂米女王は、なおも噛み付いた。
「それは、単に一般論として言ったまでのことで……」
「普段、そう思っているから、口に出すのでしょが。もしや、林臣は大后を大王に就けようと考えているのではないでしょうね?」
場は一瞬凍りついた。
「それは、ございません。兄は、いえ、林臣は、山背大兄の即位に尽力いたしておりますし、我が蘇我家は全力を挙げて山背大兄をお支えする所存です」
「その言葉、どこまで信じられるか。林臣のあの目は、何を考えているか分かりません」
「舂米、そのぐらいにしなさい」
これを嗜めたのは山背大兄であった。
「豊浦大臣も林臣も、我が家のために大変尽力してくれていますし、大王になれると信じています。そんなに物部臣(敏傍)を責めてはなりません」
「しかし、山背様、……もしや林臣は、大后と見せかけ、古人か葛城を大王にしようと考えているのではないでしょうね?」
舂米女王は、さらに責め立てた。
彼女の猜疑心に、敏傍には返す言葉もなかった。
「舂米、いい加減にしなさい」
ついに、山背大兄の声も大きくなった。
「止めませぬ、次の大王は山背様と決めたはずじゃ。それをいまさら、なぜ変えられようか。物部殿、豊浦大臣、林臣のご両人によく言っておきなさい。もし、約束を違えるようならば、両人の墓造りのために派出している我が家の人員を全て引き上げさせますと。宜しいですね」
舂米女王はそう言うと、勢いよく戸を開け、出て行ってしまった。
その後の酒宴は、白けたためにお開きとなった。
そして、敏傍は、重い足取りで宮を後にするのだった。
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