【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 6
先月まで、草木の根っ子が腐るほど雨が降り続いたのに、6月に入ってからはぱったりと止んでしまった。
当初は、そのうちに雨が降るだろうと思っていたのだが、田が干上がり、ひび割れた大地が顔を出す頃になると、ようやく事の重大さに気が付いた民が、神社に牛馬を献上したり、河の神に祈って雨乞いをしたりしたのだが、効き目はなかった。
このままでは今年の収穫が減り、自分たちの生活が危ないと考えた群臣たちも、蝦夷と相談し、百済大寺の南庭に仏と菩薩、そして四天王像を安置して、多くの僧侶たちに大雲経を読ませ、雨乞いをした。
しかし、空はますます青く澄み渡り、大地は赤く乾いていくばかりであった。
蘇我敏傍からこのことを聞いた蘇我入鹿は、
「そのような戯れ事を」
と言うのであった。
入鹿は、こういった非現実的なことを信じてはいなかった。
祈って雨が降れば、大王など必要はないと。
人間が、神の業である天候を左右することはできない。
だから、多くの民が飢餓に苦しまないように、大王や臣下が人民を統制して田の開拓や用水路の増設、収穫の配分・保存を決めていかなくてはならないのだ、と信じていた。
8月になって、誰もが今年は大不作だと思い始めていた頃、突如として、5日間に渡り雨が降り続いた。
民は、恵みの雨だといって喜んだ。
そして、ある噂が大和一帯を駆け巡った。
これは、大后様のお陰だと。
噂の詳細な内容は、旱を憂慮された宝大后が、8月1日に南淵の川上に行幸し、跪いて四方を拝み、天を仰いで祈ると、雷が鳴り響き、大雨が降ったというもであった。
これを聞いた民は、「至徳の大后様だ」と言って、万歳と褒め称えた。
またも、敏傍からその噂を聞いた入鹿は、
「そのような戯れ事を」
と言ったのであったが、敏傍は、
「なるほど、大王には、奇跡を起こす力も必要なのか」
と言う入鹿の独り言を、聞き逃さなかった。
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