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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 2

 翌朝、早くに満徳寺を発った。

 懐には、おさえの綾取りもしっかりと入れてある。暇なときに解いてやろう。

 朝靄がゆっくりと流れていくなか、惣太郎は足早に急ぐ。着物がじんわりと湿っぽい。

 道々、父が受けもっている離縁について反芻する。

 話はこうである。

『ことの起こりは、いまから3年前のことだ。春のことだったかな、花畑に菜の花が咲いておったのを覚えておるから、きっとそうだ。うむ、ワシの頭もまだまだ大丈夫だな』

 父上、いいから先を続けてくださいと思った。

『おはまという女が駆け込んできた。板橋で政吉(まさきち)という亭主と暮らしている。この政吉というのが、どうしようもない男でな』

 板橋宿の客相手に、茶屋をやっている。

 といっても、政吉は店にでない。おはまにやらせている。それでも、一応は表向きの仕事がある。という言い方をすると、裏もある。それも、かなり難のある裏だ。

 その辺り一帯のやくざ者をまとめている。宿泊客相手に賭場を開いたり、宿や茶店に用心棒代と称して金を脅し取ったり、挙句に酒を飲んでおはまを殴ったり、さらにこの男、他にも妾が三人いるとかで、全く駄目な亭主というのは、どこも似たり寄ったりだ。

 そんな生活に堪りかねたおはまが、満徳寺に飛び込んできてもなんら不思議はなかった。

 女が涙ながらに話すのを訊いて、宋左衛門は、

『これは、熟縁するのは難しいだろうと思った』

 すぐさま、組頭と大家を呼び出した。親は亡くなっていないという。

 2人は飛んでくるなり、どうにか復縁しろと、おはまを諭した。それが、少々脅迫染みたところがあったので、ふたりを注意し、どういう理由(わけ)か問うてみた。

 随分答え辛そうだったが、しつこく訊くうちに重たい口を開いた。

『相手が悪かった。政吉の後ろについている相手が』

 政吉の胸には、つねに十手が差さっていた。

『十手持ち? 岡っ引きですか』

『北町同心が十手を預けておったのだ。〝すっぽんの政〟といってな、一度食いついたら放さないと、奉行所では重宝しておるそうだ。知っての通り、寺社奉行所と町奉行所は犬猿の仲』

 格としては寺社奉行が上だが、こと町人相手となると、江戸の良きも悪きも知り尽くし、隅々まで蜘蛛の巣のように網を張り巡らせている町奉行のほうが、一枚も二枚も上手である。

 大家や組頭も、十手持ちには逆らいたくない。

 鈍い光物を翳しながら、女を説き伏せて来いなんて言われれば、従うしかないということだ。

 それでも、大家と組頭としてはどうなのだと問うと、公言しないとの約束のもと、離縁したほうがおはまにとって善いと思うのですがと述べた。

『ワシは、離縁に向けて働きだしたのだ。だが……』

 本来なら、妻方の身内に夫方と交渉させるのが筋である。

 しかし、おはまの一件に関しては無理だろう。

 それではと、直接夫を呼び出すことにした。

『参りましたか、政吉は』

『来るはずもあるまい。満徳寺のご威光もなんのそのだ。まあ、そんなことで靡くようでは、やくざ者など束ねてはおれんだろうがな』

 仕方なく、〝お声掛り〟として、寺社奉行所に頼ることになった。

 奉行所も、速やかに取り上げてもらえたのだが………………、ここで難問が持ち上がった。

『何事かありましたか』

『うむ、相手が北町に訴えでたのだ』

 妻が寺内に駆け込めば、その管轄は寺社奉行となる。が、それよりも早く夫が町奉行所に妻に不義理があったと訴えでれば、取調べのために、管轄は町奉行所になる。

 これでよく揉めると言う。

 寺社奉行としては、町奉行よりも格式が上だという誇りと、面子がある。寺側としても、寺内の一件は寺内で処理するという寺法と、町方への軽蔑がある。寺役人としても、自分のこれまでの努力を無にされるような介入は迷惑である。

 一方、町奉行は町奉行で、日ごろ下に見られている僻み根性と、寺社への対抗心がある。四宿内の町人に関しては、町方の領域だ、寺社方が手を出すな、という自負もある。与力や同心、十手を受ける岡っ引きも、普段、坊主や神主から不浄役人と軽視されることへの鬱憤もある。

 寺社方も、町方も、はじめから妥協する気なんてさらさらない。当事者のことなんてそっちのけで、どちらが管轄すのかで争うのだから、必死で駆け込んできた妻や、どうしても女房を取り戻したい夫にしてみれば、迷惑な話だろう。

 できることなら、そう言うことを回避したいのだが、

『おはまの一件では、ワシの不徳の致すことで、こうなってしまった』

 別に、父の責任ではないのだがと、惣太郎は思いながら、町奉行所は何と言ってきたのだと問うた。

『おはまが寺に駆け込むよりも前に、政吉から北町に対して不義の訴えがでておるとな』

『それは真実(まこと)ですか。どうも怪しい気まします。満徳寺から呼状がきたので、慌てて訴えを出したのではないですか。それに、大家や組頭からは、妻が不義を働いていたなんて、そんな話はなかったのでしょう』

 ないと宋左衛門は断言した。

『それに関しては、大家や組頭に何度も問いただした。政吉が他に女を作るのなら分かるが、おはまは考えられない、あんなに酷い男にも良く尽くしている、女房を取り戻すための誣告ではないかと言う」

 おはまも再三に渡って取調べたが、天地神明に誓って不義など働いていないと言う。

 しかし、政吉は女が浮気をしているという。それを目撃したという男もいるとまで言いだす始末。

 その男は誰かと問えば、それは教えられないの一点張り。

『どうせ、自分の子分に嘘を言わせているのではないですか』

『だろうな。あるいは、町方と口裏を合わせているだけかも知れん』

『しかし、幾らなんでも、町方の同心がそこまでしますかね』

『するさ、なんせ訴えの日付を誤魔化すぐらいだから』

 町奉行所の主張は、夫の訴えは妻よりも一日早いので、吟味の権利は町方にあるというもの。

 それは絶対にありえないと、寺社奉行所は主張する。おはまのほうが早かった、政吉は満徳寺からの呼び出しで、慌てて訴えをだしたのだと。

 が、町奉行は証拠があると、書面を見せる。

『まあ、書面なんて幾らでも書きなおせるものだ』

 夫が訴えを出した時期と、妻の不義理の有無で、おはまの一件は揉めに揉めた。

 最終的には、それぞれの御奉行が相対して話し合うことになった。

『それで、結果は』

 宋左衛門は、ふうっと疲れたようなため息を吐いた。答えとしては、それで十分だった。

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