【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 後編 18
「さあな。こればっかりは分からん」
犬甘弓削は、火の傍で片肘を枕に転がっていた。
「頭! 頭は何か聞いてないんすか?」
波多は、草衣之馬手に訊いた。
「さあな。ただ噂では、将軍たちもそろそろと考えとるらしいがな」
「それは俺も聞いた。こないだ謀反の罪で斬られた人がおったろう、あん人の曝し首の前で、秦将軍と狭井将軍が話しとるのを小耳に挟んだんやけど、もう限界やろうと言っとたで」
三山次麻呂が言った。
「限界って、何が限界やね?」
「いや、そこまでは分からへんが……」
兵士たちが取り囲む焚き火の方から、大きな笑い声が起こった。
どうやら酒盛りをしているらしい。
「また酒盛りして。禁止されとるのに」
物部百足は、兵士の輪の方を睨む。
「止めとけ、百足。あんなんと関わりにならん方がええ。何されるか分からん」
馬手は、百足を嗜めた。
「そやな、どうせあいつら、戦になったら戦わにゃいかんしな。それに比べたら俺らは楽でええな、荷方で。戦場に出んでええからな」
「でも、船で戦ったら漕ぎ手の俺たちもやられますよ」
黒万呂は、心配そうな顔つきである。
「阿呆、城を攻めるんやから、船なんて関係あらへんねん。全部終われば、俺たちは晴れて斑鳩に戻れるんやから」
「本当にそうやろうか……」
心もとない声を出したのは、孔王部小徳である。
「俺ら、本当に生きて帰れるんやろか?」
それは、誰もが抱いている疑問であるし、絶対に言ってはならない疑問であった。
「阿呆、帰るんや! 俺は、どないなことしても帰るで! 例え船がのうなっても、泳いで帰ったる!」
物部鳥は大声を上げた。
その声に、隣の兵士たちが一瞬顔を向けたが、また酒盛りが続いた。
「俺も帰りたいです、絶対に!」
黒万呂は、力を込めて言った。
「珍しいな、黒万呂がそないなこと言うなんて」
「女ですよ、こいつ、女がいるんですよ。操を立てた、なあ?」
孔王部宇志麻呂が笑いながら言う。
「ほんまか? そやから、難波津や長津で遊びに誘っても来なかった訳か。で、何処の誰や?」
次麻呂は面白がって訊いた。
黒万呂の耳が真赤なのは、焚き火のせいだけでない。
「それが言わないですよね、何処の誰だか」
「そうなんか? おい、弟成、お前、知っとるんやろ?」
「えっ、俺ですか? さあ……」
本当は知っていた ―― 八重女(やえめ)のことである。
―― そうか、黒万呂は、まだ八重女のことが好きなのか………………
だから未だに独り者だし、周囲が早く嫁を取れといっても、色々と託けてかわしていたのだな………………
「いいんす、俺のことなんか」
黒万呂は、枝木を火の中に焼べた。
「なんや、お前、照れてんのか? ははは、黒万呂の顔が赤いぞ。赤万呂(あかまろ)や、赤万呂になったぞ!」
波多の冷やかしに、一同から笑いが起こった。
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