【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 後編 13
蝦夷が、口が利けるようになったのは、服を着替えさせ、彼が大きなくしゃみを一つした後だった。
「何があったのですか、父上?」
蘇我敏傍が訊いた。
「如何したもこうしたもないわい。痛い、もう少し優しくせんか」
蝦夷は、頭に薬を付けていた従者を怒鳴り散らした。
「何があったのですか?」
入鹿は、蝦夷を抱えて帰って来た従者に問うた。
「申し訳ございません、我々が付いておきながら……」
「全くじゃ。重臣会議は揉めるし、川には落ちるし」
「川ですか?」
「はい、帰り道、橋の袂に巫覡(かんなぎ)どもが屯しておりまして、大臣様にご神託があると、先を争って突進して参りましたので、我々も防ぎようがなく……」
従者は小さくなって答えた。
「それで川に落ちたのですか?」
「はい」
入鹿は笑った。
「笑い事ではないわい。あいつらめ、八つ裂きにしてくれるは」
「捨て置きなさい。どうせ、ご神託に名を借りた戯れ言ですよ。それに、川に落ちたぐらいで済んだのも従者がいたからですよ。お前たち、助かりましたよ」
入鹿は、従者に礼を言った。
従者は恐縮して出て行った。
「ところで、重臣会議はどうなったのですか? その口振りだと、上手くいかなかったようですが」
「おお、そうよ。上手くいかなんだ。あれほど前に、次は山背大兄でいくと言っておいたのに、いまになってあれやこれやと文句をつけよって」
「どんな文句です?」
「山背大兄では頼りないとか。斑鳩に籠もってばかりで飛鳥のことを知らぬとか」
どこかで聞いた話だなと、入鹿は思った。
「それで、対抗馬が出たのですか?」
「あ? ああ、まあな……」
蝦夷は言いづらそうだった。
「大后ですか?」
入鹿はずばりと言った。
「なぜ分かった?」
「いえ、山背大兄に対抗するとなれば、いまのところ大后しかないでしょう。それに、大后なら適任です」
「お前もそう思うのか? いや、実はワシの見たところ、面には出さんが、殆どの重臣が大后を大王にと思っているようじゃ」
「これはまた、えらく山背大兄は嫌われましたね」
「うむ、ワシが見ても、山背大兄は優柔不断なところがある。それに、政は顔じゃ。顔が見えぬ者を、どうして信頼できよう。大王といえども同じ。特に飛鳥では、自分の所領に近い場所の指導者を好むのが常じゃからの。山背大兄も、もう少し飛鳥に足を運んでもらえるといいのじゃが」
「なるほど、厄介なものですね」
「政は、そういうものじゃ」
入鹿は、改めて政府改革の意思を固くした。
翌日から、蝦夷は熱を出して寝込み、以後の重臣会議には入鹿が出席することとなった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?