5・6金曜-手記⑩-「suitable job」
結局私は 仕事とそれに類することをやって この休暇も終えるだろう。
そもそも、最近 仕事という概念に対して 違和感が強くなった。職業柄ということもあるかもしれないが……やっぱりそこは時代の変化が大きい。
私はスマートフォンを実はちょっとした賢者の石だと捉えている。
スケジュール管理、テキスト入力、表計算、金銭処理管理、コミュニケーション、娯楽、取引、クリエイション、勉強、買い物……
ご存知の通り我々の生活は最早スマートフォンありきで成り立っている。
さらにそれはパーソナライズされることで、手からも頭からも離れなくなり、そして それに適応しきれていない人々は『情弱』などと揶揄されるようにまでなった。
欲しい情報が、欲しい時に、ある程度の精度で手に入る。チャットGPTやAIもその類で、既に多くの人はYouTubeで日々の必要なニュースや、物事の考え方までを得るようになった。
まさにスマートフォンから我々に每日情報が『インストール』されているのだ。
その人を知るならその人ではなくその人のスマートフォンを見た方がよっぽど真実味がある。
私はそのことに対して、マトリックスやターミネーターで描かれているような終末思想を抱くことはないが 進歩すること自体への不安はある。
何か新しい技術が生まれ、それが一定のレベルに達すると指数関数的にその応用技術が一般社会に広がっていく。
その過程ではやはり小さくない変化の副作用……例えば混乱が起こるのは常だ。言葉を選ばずに言わせてもらうと、PCやスマートフォンが世に出回ったことで、この半世紀 世界は大きく変わった。そのことで実に多くの人がその恩恵に預かった一方で、実に信じられないくらいの人々が苦しむことにもなった。きっと認知すらされていないことも多いだろう。
誤解しないでほしいのだが、私はそれを否定する気はサラサラない。
どんな学問やレポートや本や芸術に触れてみても世の中はいつもそんなもので、それとの戦いと繰り返しだ。
それを否定するということは、今日から飲まず食わずで空気も吸わず排泄もしないと言っているようなものだ。
私は人間が進歩することをやめるという選択肢を取ろうするのは、現実的ではないと思う(そういう考え方もあるが)。
飛躍するようだが(コーヒーを飲んでぼーっとしていたら思考が進んで過程を忘れた)、私の現状の結論は“よりマシな手段を模索しながら進歩していく”だ。
おっ? 絶対「普通じゃん」って思ったな?
何事も『言うは易く行うは難し』だ。
「大谷翔平のような選手になる!」とは、誰でも言えても実際なれないだろ。
でもそれを口にしてもしなくても、そうなろうと努力することは 例え 大谷翔平にはなれなくても何かの役には立つし、何かはできるようになる。
そんなもんだろ、だから卑屈にならず、每日やれることをやろう。
のんびりとな。
おわり!
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