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はしのはなし 日本橋 補遺 ─とある建築家の反逆─

 先日、日本橋の獅子と麒麟の阿吽について記事を書きましたが、参考資料のひとつである『東京の橋 水辺の都市景観』(伊東孝)にて「妻木の苦心に詳しい」と紹介されていた『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』(長谷川堯)を後日読んでみたところ、阿吽の反転とも符合する面白い解釈が展開されていたので補遺として記事を書くことにしました。
 思想や芸術も絡んだこの辺りの建築史は私も十分にかみ砕けていないので、あまり読み易い文章ではないかもしれませんが悪しからず。
 ※以後本文内では『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』を『都市廻廊』と省略し、同書からの引用は"太字"とします。


『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』

 同書は建築史家、建築評論家である長谷川たかし 氏による昭和50年(1975年)刊行の建築論評であり、ルネッサンスや新古典主義を足場に展開した、いわば正史ともいえる近代建築の群れが形作る都市の中に、ゴシックをはじめとする「中世主義」的建築の影を見出そうとするものです。
 "中央集権的な近世近代国家への反感の背面として、自治的都市と美しい田園を持つ「相互扶助」的な西欧中世社会への愛着をみることができる。"(P.19)、"中世主義にせよ東方主義にせよ西欧文明の直接的な継承者たる近世近代国家が体制的な故郷あるいは美学的環境とするルネッサンス以後の古典的世界に対する<異郷>を求める心の動きが、思想として有機的に昇華されたときに結晶したものであった"(P.35) といった表現からも分かるかと思いますが、近代国家へのアンチテーゼとして日本の芸術と建築に展開した中世主義的思想を考察したものであり、これは "日本橋の頂上を想像力を拉致するような現代文明が飛ぶ──あの傲慢で無神経で醜悪としかいいようのない高架自動車路が、そのような夢想をその端緒から破壊しきることであろう。"(P.56) というような戦後社会への批判にも繋がっていきます。
 著者自身の強い問題意識というバイアスには注意すべきですが、ゴシックを再評価したジョン・ラスキンの思想が日本に導入されてからの動向や、近代の文化人たちが記した江戸という<異郷>への憧憬を土台に展開される一連の考察は非常に魅力的なものでもあります。

 余談ですが、著者の長谷川堯は俳優の長谷川博己さんのお父さんらしいですね。そういえば某N局のファミリーヒストリーでもそんな話があったような…

前回のおさらい

さて、先日の記事では

・日本橋の意匠は建築家 妻木頼黄の監修である。
・日本橋の獅子や麒麟は道路側から見た阿吽が一般的なものとは逆である。
・川側から見た場合には一般的な阿吽のレイアウトとなる。
・そうした経緯について妻木が証言した史料は(架橋時の記念誌を含め調べうる限り)確認できない。

といった情報から、阿吽のレイアウトについて幾つかの考察を述べていきました。 今回はこのうち「川から見た場合には一般的な阿吽のレイアウトになる」「妻木はレイアウトの経緯について証言を残していない」の2点に注意しながら『都市廻廊』を読み進めてみます。

長谷川が見出した日本橋の正面性と中世主義

 長谷川は『都市廻廊』にて日本橋とその意匠を監修した妻木にも中世主義的(≒反近代的)思想を見出していきます。
 日本橋は架橋当時に幾つかの批判があり、その中には早稲田大学建築科の主任教授 佐藤功一の"水に向いて居る方にまで花崗岩の立派な切石を惜気もなく使つてあることなどは、たしかに無駄な費用であつて (中略) 浮いてくる金を以て比較的寂しい橋の両袂を飾るやうにした方が遥に得策であった" (P.57)といった痛烈なものもありました。 しかし長谷川はこの批判こそ妻木が密かに計画していた「川側から見た日本橋の正面性」を意図せず発見したものだと指摘しています。
 長谷川は妻木が何故密かに川側の正面性を重視したのかについて、木下杢太郎の"電車や汽車のはためきに覚醒せしめられた陸の東京が、其間に入り込んで来る幾許いくつかの溝渠を通じて流れてくる昔のにほひ"(P.60)といった表現に示される、「陸上時代ともいえる近代」と「水上の中世(≒日本における近世江戸)」という対立的な文脈を下敷きにしながら、旗本の子として江戸に生まれた妻木と、佐賀藩士の子として生まれた辰野金吾の確執を取り上げ、"田舎者"によって作られた近代都市東京への蔑視と、奪われた江戸への憧憬の表現として日本橋では"橋の上を通る人や電車や車のために意匠を考えているようにみせながら、実は反対に河面の側からすべての意匠的な統合が目ざされていた" (P.67) という解釈を展開します。

呪詛、あるいは反逆

 長谷川は続けて"「新しい東京の起点」になるべきアーチ橋を、非常にアイロニカルな記念碑にしようとしていたにちがいないのだ"(P.68) と述べ、"明治に打倒されたはずの時代と文化の壮大なモニュメントを秘密裏に構築"(P.69)したものであると日本橋を評しています。 長谷川も『都市廻廊』では阿吽の反転には言及していませんが、これらの考察は「川から見た場合には一般的な阿吽のレイアウトになる」「妻木はレイアウトの経緯について証言を残していない」という状況のどちらにも説得力が持たせられます。 長谷川の言う通りだとすれば、阿吽という伝統的かつ儀式的な正面性を密かに川の側に持たせたのも、近代東京に対する半ば呪詛にも近い反逆の表現だったのかもしれません。

おわりに

  とはいえ、結局のところ妻木本人は何も証言していませんし、長谷川の考察も明確な証拠があるものでは無いので私のこの解釈も結局のところ無根拠な空想でしかありません。 ただ、近代が抱えた歪みや人々の苦悶は多くの文学に江戸や中世ヨーロッパへの憧憬という形で確かに表れており、日本橋の獣たちは今日も不思議な姿で東京を睥睨しています。 妻木の真意は彼ら以外の誰にも知りえないものですが、そういった密かな呪詛も起こりえた時代には違いないのかな、と私は思います。

───またまた余談ですが、国会議事堂の設計に王手をかけながらも辰野ら主流派の建築家達によって表舞台から引きずり降ろされ、後世の評価では「権力を嵩に着る悪辣な建築家」と描かれがちな妻木に対して長谷川は"芝居の中の明智光秀のような(中略)悪役的イメージを固定されてしまったのだ"と同情的な見方をしています。
 そんな長谷川もまさか自分の息子が大河ドラマで明智光秀その人を演じるとは、そして光秀の悪役像に一石を投じることになるとは夢にも思っていなかったでしょうね。


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