【エッセイ】自分の幸せは自分で決める。
人と会話をすることで
自分の脳内が整理されて
初めて自分の考えを自覚することがある。
今日は正にそれが起こった日だった。
度々私の記事に登場している後輩女子。
彼女との会話はなかなか刺激的だ。
刺激的過ぎて時々お互いに
何を話しているか
分からなくなる時もあるのだけれど。
*
本日の議題は
「伝えること」
と
「幸せ」
について。
タイトルを付けてしまうと
簡単に見えてしまうがとても深い内容だ。
(おそらく)
彼女曰く
察してくれの姿勢は良くないらしい。
何かが起こったときに
不満や意見を口にせず後から
自分はこういう感情だったのに
とか
あの時どうしてこうしてくれなかったのか?
と言われても困る。
そんなことは知らない。
他人の感情なんてわかるはずないのに、
どうしてそれを察して
正しい行動をとることが出来るだろうか。
思うことがあるなら言うべきである。
確かにそうだ。
私も最近このことを実感することが多々ある。
好きの感情も
嫌という感情も
こうして欲しいという希望も
全て言葉で発さなければ伝わらないのだ。
もちろんそれでも
伝わらないことだってあるだろう。
でも言葉にすれば
1%だとしても伝わる可能性はあるが
それすらしなければ確率は間違いなく0である。
分かっているはずなのに
私たちはそれが苦手だ。
*
謙虚で居ることや
自己主張しない事への美学
みたいなものが日本人の中には
こっそり存在しているように思う。
場の空気を乱してはいけない。
空気を読まなければならない。
察して先回りしなければならない。
それをやることこそが美しい。
確かにそれが必要な時もある。
社会の秩序を守るには
自己中心的に行動していてはいけない。
ただ、それだけが正解ではない。
たまには自己主張をしても良いし
わがままだって良い。
相手の気持ちが分からなくたって良いし
分かってあげる必要もない。
だって私たちは間違いなく
私達自身のために生きているのだから。
*
たくさんの人に囲まれた
社会の中で生きていると
本当の自分の意見がどれなのか分からなくなる。
自分の意見を殺して
他人に合わせ続ける。
他人の顔色を見て
機嫌を取ろうとする。
社会の常識に合わせて生きる。
好きな物
嫌いな物
正しい事
間違っていること
本当は全部自分で決めて良いはずなのに
いつの間にか誰かが決めた「普通」や
「幸せ」を追いかけていることがある。
最悪の場合そのことに
気が付かないで生きていることもある。
自分にとって本当に大切な物って
何なのだろうか?
*
他人が決めた常識の枠にはまって
自分の可能性を狭めてはいけない。
他人が決めた幸せを
自分の幸せと勘違いして生きてはいけない。
自分の「好き」と「嫌い」を
見失ってはいけない。
時々立ち止まって
本当の自分の感情がどれなのか
確認する時間が必要だと思う。
大切なものは持ったまま生きていける。
不要なものはどんどん捨てたって良い。
男だから
女だから
大人だから
子供だから
学生だから
社会人だから
自分で自分に言い訳をしないこと。
いつだって誰だって
何をしたってどこに行ったって
何を好きだって何を嫌いだって
良いはずなのだ。
そんなことを
教えてくれた
今日の会話
でした。
※散文すみません!
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