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『本の虫は裸でねむる』

 行きつけのバーの一番奥には、他のより数センチだけ高いスツールが置いてある。一つだけ高さが違うことに気づいたのは、そこに通い始めてから3ヶ月くらい経った時だった。店内には誰もいなくて、いつも通りマスターが「こんばんは」と言いながら、座ってほしい席を手で示す。座ってみるとそこは一段と暗かったが、穴の中のようで少し心地が良かった。他の席より高いスツールは、ちょうど足がぶらぶらする。こどもになったような気持ちであしをゆらしていたら、履いていたパンプスが脱げてしまった。ヒールが音を立てて、靴が床に落ちる。それと同時に、足が解放されてとても気持ちがいい。今日はこれでいいか。そう思って、オレンジジュースを頼んだ。

 お酒は得意ではない。バーに来るのは、この薄暗く、誰にも干渉されない空間が好きだからだ。
「あまりお酒を飲みたくないけれど、この空間にいたいのです。お金は、お酒の分だけ払いますから」
店に入ってきていきなりこんなことを言った私に、マスターは仄暗く笑ってこう言った。
「メニューに書いてあるお題だけお支払いいただければ、わたしは誰も追い出しませんから」

足を揺らしながら、ストローでオレンジジュースを飲む。サービスで出してくれたスナックをつまむ。親が仕事を終えるのを待っているこどもの気持ちになった。そしてだんだん、寂しくなってきた。そういう時は、本を読む。一番奥の特等席は本を読むのには暗すぎるけれど、少ない光で本を読むのが結構好きだ。好んで読む本も薄暗い話が多いからちょうどいい。今日はハーマン・メルヴィルの『書記バートルビー』を読んでいる。バートルビーが本当に何もしなくなってくるにつれて、自分の心にも大きな影ができる感じがする。それはとても苦しくて、バートルビーが宛先不明で戻ってきた手紙を捌いていた頃まで遡って鬱屈とした気持ちになる。こんな読書は、一つの自傷行為みたいなものだな、と思いながらオレンジジュースを飲む。

「暗くないんですか?」
話しかけられてハッとした。気づくと隣には男性が座っていた。今わたしが座っているスツールは一つだけ高いはずなのに、その人に見おろされている、と思った。
「暗いですけど、これが、ちょうどいいので、大丈夫です」
「そうですか。何か飲まれますか?」
「あ、じゃあ、オレンジジュースを」
「マスター、この方にはオレンジジュースを」
「あ、いや、あの、わたしにつけてください」
「そんな野暮なこと、言わないでくださいよ」

このバーには、ナンパのような手合いはいない。それが好きで通っていたのに、お気に入りの席を見つけたその日にこの仕打ちはないな。心の中で舌打ちしてしまう。ちょうどバートルビーが「何もしない方が良いと思う」と言い始めた頃だったから、わたしももう何もしたくなかった。新しいオレンジジュースも飲みたくなかったし、脱げたパンプスを拾いたくもなかった。

「差し支えなければ、何を読んでいるか伺ってもいいですか?」
「いえ…だめです」
「そうですか」
「はい、すみません」
「なんで謝るんですか?」
「知りたかったんですよね?」
「でも、教えたくないことまで知ったところで、何も面白くないので」

何もしたくないと思っていた割には、はっきりと「だめです」と言えた自分がなんだか面白かった。そしてあっさり引いた隣の男性にも驚いた。不快さと興味を同時に覚えるという、なんだか奇妙な感じがした。その奇妙な感じに引っ張られて、何もしたくなかったはずなのに、男性がご馳走してくれたオレンジジュースを飲み始めた。そして本を読み進めているうちに、男性はいなくなっていた。空いたスツールに思わず触る。そこにぬくもりはなく、その人が本当にそこに存在していたのか聞かれても自信がない。ただ、そこにないはずの存在にとても興味を惹かれたことだけはわかった。身体が勝手にパンプスを履いて、支払いを済まし、閉店直前のバーを出ていた。
バーを一歩出て、夜の空気に触れるとき思うことは、明日もがんばろう、とかじゃない。どうせ明日も、なんか生きているんだろうなという薄気味悪い予感だけ。

 あの男性のことが気になっていたのは確かだけれど、なんとなくバーからは足が遠のいていた。理由の一つは、職場が変わったことだ。部署異動で勤務場所が変わってしまい、行きつけのバーに行くためには定期圏を出る必要がある。お金というよりは、なんとなく億劫になってしまったのだ。もう一つは、あの男性に会いたいような、会いたくないような不思議な気持ちに折り合いがつかなかったからだ。

 新しい部署で仕事を覚えるのは大変だった。前の部署では考えられないようなミスをして、想像もつかなかった怒られ方をした。大人になってもおねしょをして、親に怒られるような、そんな居心地の悪さが頂点に至った日のことだった。ふと、あのバーのことが頭をよぎった。
まだ早い時間だったからか、一番奥の高いスツールが空いていた。
「こんばんは」
マスターのあいさつに時間の概念は存在しない。初めて会った時も、毎週通っていた時も、久しぶりに来た時も、夜のあいさつをしながら座ってほしい席を手で示す。
「じゃあ…なんか…薄めで甘いお酒ください…」
「かしこまりました」
確かに薄くて、甘いお酒だった。それでもなんだか頭がぽやっとしてしまい、その「ぽや」の中にお酒の名前は置いてきてしまった。その日は中島らもの『今夜、すべてのバーで』を読んでいた。一番好きな、霊安室でのシーンだった。バーのお気に入りの席、一番奥の仄暗さが、そのシーンととても合っている。人の心はほんとうにもろいのだと、今度はちゃんとオーダーしたスナックをつまみながら考える。ただ仕事で間違えて、こどもみたいに怒られただけで、死んじゃおうかな、とか考えてしまうのだから。

そう、その日のわたしは、もうほんとうに、何もかもどうでもよかったのだ。
たった、それだけのことで。

読み進めているうちに体に力が入り、肩が痛んできた。弛緩させるために大きく息を吸って、吐く。

「暗くないんですか?」

あの時と同じ言葉だった。あの人だ。名前も知らない、この世のものかもわからない、あの人だ。顔を上げると、確かにあの時の男性が目の前にいた。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ええ、まあ。」
「何、読んでるんですか?」
「え、ええと…」
「あ、言いたくなかったですよね」
「いいえ。今夜、すべてのバーで、です」
「そうですか。ありがとうございます。僕も好きですよ。中島らも」
「そうなんですね。わたしは短編が好きで」
「僕はエッセイも好きだな」
「ああ、わかります。でも、わたしお酒飲まないから」
「酔っ払って転ぶことがないからいいですよ、お酒を飲まない人は」
「確かに、そうですね」

令和の時代に、偶然バーで隣り合った人と中島らもの話ができるなんて、やっぱりフィクションみたいだった。この人の名前や、職業や、ほんとうの性別や、生まれたところや、通っていた学校や、聞いていた音楽より、この人がほんとうに生きているかどうかがとても気になって、触りたくなった。

「あの、」
「河岸を変えませんか?」
わたしの声に重ねるように、はっきりと提案をされた。
「え?」
「たとえば、もっと、お互いの話ができるようなところとか」
「ちょうどいいです。わたしもあなたのことを知るために、触りたいと思っていたところです」

人生で何度か、もう全てがどうでもいいと思った日があった。あの時は、ブックカバーをつけずに本を読んだ。裸で歩いているような気分だった。自分に対して乱暴をしている気持ちにもなった。わたしは、自分で自分の考えていることすら守ってあげられないわるい子です。でも、誰も声をかけてくれなかったし、誰からも乱暴されることはなかったし、結局普通に家でカップラーメンを食べて寝ただけだった。そのバーで出会った男性が初めてだった。自分が自分に乱暴していることを気づいてくれたのは。

それまで気づかなかったのだけれど、バーの目と鼻の先に一軒の少し古いラブホテルがあった。部屋の照明は薄暗いが、バーのあの席よりは明るい。部屋の中で一番明るいところに立って、相手の顔を見る。
「わたしが今読んでいる本を教えるということは、あなたとセックスしてもよいということです」
「そうだと思いました。だから誘いました」
「触ってもいいですか?」
「いいですよ。僕はね、体温が低いんです」

そっと触れた肌は、確かに少しひんやりした。だけど、確かにそこにいる、と思った。

その日のことは、ひとつひとつ覚えている。絵がうまければ、よれたシーツのシワまで再現できそうだった。なのに、あれからあの男性には会っていない。そこに確かにいた、という実感だけがずっしりと、低い体温とともに手の中に残っている。


久々の3000文字チャレンジ、ありがとうございました!
テーマは「本」。
「書きたいことを書く」のが3000文字チャレンジだと勝手に思っているので、好きな本を登場させてみました。

はじめて短編小説(?)で参加でしたー!

▼創作物まとめ

▼過去の3000文字チャレンジ参加作品

また機会があればやりたいです。
すてきなチャンスをありがとうございました!

いただいたサポートでココアを飲みながら、また新しい文章を書きたいと思います。