見出し画像

教師という仕事を選んだ若かった頃の自分ととっても感謝していること。

小さいころからちょっとほかの子とは違っていることが多かったようだ。
それは褒められた話ではなく、幼稚園の先生から、他の生徒さんで国立の付属小学校を受験する子がいるけど、

真弓ちゃんの方が絶対に合格する可能性が高いから、一緒に勉強する?

と、私のことを超絶嫌っていた先生から誘いがあったと聞いても、ふーん・・・、くらいの反応だった。
母は、どうもこの子は本が好きだし、勉強が好きだと思っていたようだった。

本人は、単純に、家で許されていることが社会では許されなさそうだったし、友達もできないし、先生にも嫌われていそうで、仮に勉強ができるのだとしても、もっとお友達とワイワイやっている方がよかった。
とはいえ、そもそも一人遊びが好きなタイプで、自分がやりたいことを提案しても、一緒に遊ぶ子たちには理解できないようなことであったりして、なかなかにお友達と遊ぶということは大変なことだった。

幼稚園時代は暗黒だった。
楽しいことなどなかった。
というのも、勝気で頭の回る母が、秘蔵っ子の私を預けるには、二十歳やそこらの先生を頼りなく思っていたし、我が子に何かあると感情的に怒っていたし、先生にもそれを言っていた。私から見れば、

ザ・元祖モンペ

であった。
先生も困っておられたのだろう。
私も後々教師として(学校現場については、最後から入り、サッサと三年で辞めたので、ゴマのままで終わったと思われるが。)、生徒さんの指導がうまく行かない原因に、かなりの部分、お母さまが大変というのがあるから、さぞや大変な母であったであろうことくらい容易に想像できる。
この母は私に対して過保護で困った。
自分自身の発想が違うこともあったのだろうけれど、母の言うことを聞かなければならない私は、ちょっとばかり不幸をしょっているような気分で、周りの子どもたちが許されることが自分には許されなくて、情けない思いをしていたものだった。

刃物は危ないから持ってはダメ。
自転車で交通事故に巻き込まれたらどうするの?

ということで、友達と遊んで、余計なことを学ばれるもの嫌だったようだ。

小学校に入ると、勉強ができたので、本当に楽だった。
母より年配の先生方にもってもらったので、幼稚園の先生とは評価が変わった。幼稚園の先生にとってはこましゃくれた子供であったろうが、小学校の先生にとっては少々生意気であったとしても、間違ったこともしないので、そうそう困るタイプでもなかったのだろう。

大阪市内で生まれ育った私が、小学校の二年の終わりに、京都寄りのベッド・タウンに引っ越すことになった。
市内の開放的な雰囲気とは逆に、おそらく閉鎖的な場所だったのだろうと思う。近くには大きな門を構えたお屋敷と、部落解放会館があった。
昔の地主と、水争いのあった地域らしい。
馴染めないまま、地主の息子&校長先生の息子という先生に小5の担任になられて私の人生は一変した。
その先生は、今思えば劣等感の強い人だった。
それを感じていたのだろう。
学級委員に選ばれたばかりの私は、その先生に近寄りがたくて、相手はちょっと照れ隠しに笑っただけで、

バカにして・・・。

と言うし、もう心身ともに凍り付いた。
弟さんがよくできたらしい。
どうもお金持ちであることを自慢するけれど、あまりご家族の中では出来が良いタイプでなく、優越感と劣等感を両方生徒にぶつける人だった。
学級委員の時には、ほかの先生から注意されたと言って、いきなり怒られたことがあった。正直やむを得ない日に仕方なくそうであったことは一日だけあったけれど、それを何日もだと言われて、自分が非難されたように思い、教室で友達と遊んでいたの私のところに来て、

○○、君、出欠の黒板、書いてないやろう!

といきなり怒りをぶつけられた。
その足で職員室に行き、事の次第を伝えたその後、

君も、自分がしたことでないことで言われて嫌やったやろうけど・・・。

と言うだけで、謝りもしなかった。
それ以後、私はその先生としゃべれなくなった。

もう一つ、私が友人にした表現を、

それはダメやねえ。脅迫やからねえ。

その日は土曜日だったので、日曜日は寝てばかりいて、月曜日に学校に行くのが嫌になった。
その先生と出会って、私はいきなりロングスリーパーになった。
精神的に疲れるようになり、それ以後、男性が怖くなった。
性的な意味の恐れではなくて、精神的な怖さであった。

その先生に怒られたくなくて、その余地を残すのが怖さに、勉強を始めた。ときは中学受験を思ってもいいころなので、塾にもいかず、とりあえず目指してみた。
ただただ勉強した。
もうほぼ逃げていたとしか言いようがない。
その先生とうまく行かないので、友達ともどうして付き合えばいいのかわからなくなってしまった。
それまでの、こうすれば○○・・・、みたいな自分の予想がことごとく崩され、何もかもわからなくなってしまった。

だから、正しく生きようと思った。
正しければ怒られない。

だから、私が、正しくなくて、やむを得ずしてしまったことを正直に話したときには、本当に嬉しそうだった。
今思えば、あの先生は、あれこれ後ろめたいことがあったのだろう。
だから、真面目に努力する私に、裏があるだろう、と探していたのだと今ならわかる。

勉強を始めた。
最初に手に取った参考書がたまたま国語のものだった。
国語に関しては、小二の時に、担任の先生から、母は、

真弓ちゃんは、文学の方に才能があるから、そっちの方面に進ませてあげて・・・。

と言われていたらしく、好きでもない国語は、できるらしいということになっていた。次に社会の参考書を手にし、こちらの勉強は本当に面白かった。そして数学、理科と勉強を始めた。

中学校は地元の学校だったが(そもそも受験はしなかった。)、周りと合わない私は、相変わらず勉強に逃げていた。
私のような子もいるんだ・・・、と隠しながらも、誰かにわかってほしいという思いだけはもち続けた。

中三の頃、なんだか担任を初め、学年団の先生方が私を理解してくださっているのを感じ始めた。友人とも付き合いやすくなった。
もしかしたら、勉強のできる人に会えば、理解し合える人がいるのではないか?と思い、ある高校を目指した。

noteにも何度も書いているが、担任が、それこそ首を懸けて、という感じで、私を受験させてくださった。
美術が圧倒的に成績が足りなかった。
学年団は全員反対だったのに、私立を併併願させて、万端の準備をさせて、どうなってもいいという状態にさせてくださった。
どうも、私の生活態度から、こいつはいけると思ってくださったようだった。

忘れもしないある夕方。
掃除当番だったけれど、掃除をする暇がなく、なぜかみんなが帰ってしまったので、全部はできないけれど、せめて自分の分として廊下だけ掃いておこうと思ったのだった。

何の策略もなく、廊下の掃除をしたけれど、それは職員室から見える位置だった。そんなことに頭の回るタイプではなかった。
その次の日、担任から、

昨日、ありがとうな。疲れたやろ?一人で掃除して・・・。

と言われたので、

廊下だけですよー。私、掃除当番やったから。

と言ったことが、そう思わせたようだった。
人生にはタイミングというものがある。

その頃、結構好きに生きていた兄や妹に比べて、私は変に優等生の子どもらしくない娘として父には映っていたようだった。
何かに、兄はともあれ、妹は、

子どもらしい。

と褒められていた。
その後、文学などやっていてある講義で先生が話されるのを聞いたときに、

あ、それだ!

と思ったけれど、子どもというのは、その実、相当に残虐である。

三島の『午後の曳航』や、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったか、『悪霊』だったかに、子どもが残酷であることを書いている場面がある。
もちろん、人間を深く描かせたら、とんでもない人だから、あちこちでドストエフスキーは書いているだろう。
本当に、子どもが残酷でなく、天使のように純真だなんて、誰に言えることだろうか?
それなりに利害関係に敏感で、うまく立ち回る術を心得ている子どももたくさんいる。
一見こましゃくれて見える子どもの方がその実お人好しだということはよくある。

私はこましゃくれてもいなかったし、何もしていなかったけど、おそらく計算があると思われがちだったのではないか?と思う。

あるカウンセラーのン人と話したことがあった。
目上の男性が苦手だと話したのではなかったかな。
そのときに、自分が男性に対するのと女性に対するのとでは態度が違うと話した。
それは、男性にの方が態度が優しくできないし、言ってしまうけど、どこか女性にの方が強いことは言わないし、むしろ優しく気を遣っていることに気付いていたからである。もしかしたら恐れていたのかもしれない。

そのことに対して、男性のカウンセラーは、

女性からは、計算、と思われるやろね。

と言われて、

エッ!?

と思ったけれど、来し方を思い出して、ああ、そうかもしれないと思わされた。自分に、それを計算と思う心情はわからないけれど、そう思われていたかもしれないことはわかる。
それに女性を守りたいだなんて、上から目線なのだそうだ。

とりあえず、担任の先生のおかげで、定員割れやら水疱瘡に掛かったりやらで、なかなかにドラマのある私の高校受験は終わった。

超絶進学校には、勉強はたくさんあっても、話し合える、理解し合える友人はいなかった。というより、だいたいにおいて、自分のできていないところばかりを成長させようとするので、合わないところばかりに身を置き、苦行のような日々が続いた。
その対象となる人々についてもさんざんnoteに書いてきた。

なぜか現役で大学に入学したが、それまでに、とんでもない優等生時代も、とんでもない劣等生の時期も過ごした。

真面目に思い詰めて、数学の先生から、

よその学校に行ったら、平均かそれ以上は取れるんやから。

と慰められたが、それはその後の人生では、数学については、どこに行っても、

数学、得意ですか?

と聞かれたり、数Ⅲの教養講座では、居並ぶ理系の先生方を差し置いて喜んで聞いてしまい、その講師の先生とはすっかり仲良くなってしまったりしたから、そうなんだろう。

大学もそれはそれはとんでもない活動をしてみたり(自宅生で通学距離もあるのに、とんでもない部活に入った。)、勉強は楽だったけどよく勉強していたらしい。というのは母の言である。

私は理解してほしかった。私が悪い人間なのか、おかしな人間なのか、それともいい人なのか、間違っていないのか?精一杯生きているから、周りのことも考えているから、誰かに理解してほしかったのだ。

だからこそ、人を理解することに、小さいころから努めてきた。
人と違うこと、もしかしたら、それは周りの人から見たら、いいことに映ったり、強く見えたりすることであったとしても、自分はそんなことよりも違う性質でいる方がよかった、ということも含めて、誰かと心通じる方がよかった。

だから人に関心があった。
文学部で、国文学を専攻していたけれど、心理学の授業はできるだけ取った。
人を理解したかった。
それを自分の専門を通して、人とつながり、人を理解したかった。

たまたま、全寮制の学校の高校部の教諭として採用された。
生徒の指導、精神的なことに重点を置かれた学校だったので、国語の教師としての研鑽をもっとしたくはあったけれど、人を理解するという面では、本当に嬉しい職場だった。
仏教を基とする宗教学校だったから、

あなたの○○は・・・。

などと辛らつな言葉で指摘されることもあったし、そう言われたことをあれこれやってみると本当にそうだった、ということも多かった。
若かった頃は純粋だったけれど、あれこれ人生経験を踏んだ今となっては、その言葉そのものが、それぞれの利害に絡んでいたこともあっただろうこともわかる。
でも、こちらとしてはありがたくいただいておいた。
真面目に考え過ぎて、自分を追い詰めてしまったこともあれば、その時に教えてもらったことで救われたことも多かった。

特に結婚生活で学ぶこと、子育てについては大きかった。

何より、人を理解するということに重点を置いていたし、自分の表現をどうする?という点にも重点を置いていたから、今思えば私にとっては最高の場だった。

高校野球で名が通り、たくさんのプロ野球選手を輩出した高校である。
その在り方を語るとき、どんな方向からでも語ることはできる。

でも、ある事件があったとき、大学の先輩でもある先生が、もう退職されているにもかかわらず、いろんな関係者の言葉がある中で、

関係者としてお詫びします。

と潔く書いておられたのが印象的だった。
自分の手を離れた一人の人間。
かつて教師として関わったことについての責任と詫びを心を込めて書いておられた。
私は関わったわけではなかったが、泣きたかったし詫びたかった。
それほど学園が大事だった。

さっきも書いたけれど、何かあったときの語り方などいくつもある。
文学概論の授業で、尊敬していたI先生が、虚構についておもしろく語ってくださっていた、その授業で、私は虚構の性質について考え、自分自身もおもしろくレポートを書いて、先生もそのレポートを読み応えのあるものとして評価してくださった。

虚構。

何かを見て、誰かが語るとき、どうしても、誰かにとっては虚構であることの性質を免れないのだと思う。
主観は人の数だけある。
一つの恋愛をめぐっても、誰が関り、誰が思われ、誰が思っていたなどと言うことは、なんとでも語ることができる。

嘘をつくわけではない。
でも、お預かりする生徒さんの、良いところを見つめ続けて、そればかりを見続けたとき、それはいつか自分にとっては虚構ではなくて、真実になる。その真実を追いかけ追いかけ、しんどくなる自分と闘いながら、それでもあきらめずに指導する。
もちろん、指導が入っていなくて、言葉は悪いけれど、裏切られていることを知ってしまったときには、倒れそうにもなる。それでも、その子のまごころになんとか訴え続けて、期待する。期待するから裏切られる。
期待というより、任せる。
自分の仕事をした後は任せる。
その人に任せる。

その任せるというところに修業がある。
思い通りにするのではない。
自分の仕事を全うしようとしながらも、後は任せる。
そうできる自分になる力を着けようと一生懸命になる。

それから、目の前の生徒さんに誠意を尽くすこと。
それは私なりの徳を積む方法である。
親の仕事など死ぬまで永遠である。
でも、子どもたちの人生は、子どもたちのものである。
それこそお任せである。
私たちの力が及ばないところでも、なんとか周りと協調して生きて行ってほしいし、何だったら、自分たちからも助けるだろうけれど、子どもたちも周りの人に何かあったら助けられる人でいてほしい。
私がしたことが周り回って私の、もう大の大人ではあるけれど、子どもたちにも回ってほしい。

人は一生修行。
死ぬまで修行。
親であることも一生。
それならば、私の場合、適性としても、教師が、最も修行させてもらえるし、努力の仕方も、ある程度方向性がわかり、それでも人が相手であるので、一瞬たりとも気が抜けないという点で、本当にありがたく魅力的な仕事である。
それも専門は大好きな国語。
でも、今は自分で教室を主宰しているので、なんでも教える。だから一生学ぶことができ、生徒さんと共に成長できる。

加えて、経営者でもあるので、経済ともつながっている。
いろんな人と関わることができる。
勉強するのに退屈しないし、人間としての幅も広げていただける。

素晴らしい仕事に巡り合えたものだと思う。

#この仕事を選んだわけ

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。