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英語力に少し自信がついた? / 視点のお話

渡英してからの簡単な振り返り

イギリスに来て、2ヶ月が経とうとしています。

早かったのか、長かったのか、正直よくわかりませんが、色々起きて、気持ちが上向きなときも下向きなときもありました。

ちょっとだけ、振り返るとこんな感じです。

<ネガティブだったこと>
・いきなりタクシーにぼったくられる(数十カ国は旅行行ってるのですが…)
・入居する自分の部屋がめっちゃくさい(掃除&ファブリーズでなんとか抹消…)
・大学のシステムにトラブルがあり、いろいろちゃんと整備されていない。教室すらまともに確保できていない授業もある(現在進行形)
・久しぶりの学校。授業の受け方がわからない
・大量の教材。英語読解力の低さにうなだれる
・授業で話される英語がよくわからない。なんでわからないのかわからない
・このままで大丈夫かと不安になる
・寒い。暗い。なにかと濡れてる
・結構重たい風邪を引く
・アパートの火災報知器がしょっちゅう鳴る。
 早朝だろうが、深夜だろうが、風邪で寝込んでいようが、毎回外に出される
・荷物が間違った住所に届く
・住居費がきちんと引き落とされず、督促メールが届く(心臓にわるい)
・ポンド円が一向に良くならない(ずっと心にのしかかっている)
・家族と離れて寂しい

<ポジティブだったこと>
・学びの内容が面白い。これ面白い、と思う論文にしばしば出会う
・クラスメイトが超多国籍で、あまり国籍に偏りがない(インド、中国、欧州、北米、東南アジア、中東、アフリカ。南米だけいない。なお、イギリス人は全体の10%弱)
・その中でも日本人は自分一人である(私にとっては、これが非常に嬉しい)
・みんないい人・いいキャラ(風邪ひいてたら、いろんな人が薬をくれた)
・話しかけたアメリカ人クラスメイトと仲良くなり始める。グループワークも一緒
・その結果、授業中、”ネイティブゾーン”の席に割と常に座れている
・自分が企画した”パブ会”が、クラスメイトの中で常習イベントとして定着し出す
・仕事で培った力が課題やグループワークで色々活かせる
・課題を期日よりだいぶ前に終わらせられた。その勢いでちょっとだけ一人旅へ
・旅先で訪れたクラスメイトのおすすめ市場と、勢いでとった音楽ライブが最高
・たまたま出会った現地人と友達になり始める
・夜は長いけど、朝日・夕陽は綺麗。雨は毎日だけど、晴れも毎日
・楽しんでる姿を家族に見せると、喜んでくれる。みんな元気に暮らしている

こう書き出してみると、なんだかんだ自分は楽しんでいるな、と感じます。
自分を褒めてあげよう。結構頑張ってるって。

前より少し英語力に自信がついた

さて、今日書きたいのは、最近感じた気持ちの変化についてです。それは英語を学ぶ中で感じた、自分の英語力への自信の変化です

記載したように、この2ヶ月間わたしは英語というものに苦しんできました。
というか、もちろん、今も苦しんでいます。

少し補足すると、私はネイティブ話者でも帰国子女でもありません。
10年以上前にワーキングホリデーを経験したこともありましたが、社会人になり英語を話さなくなってからは、頑張ったTOEICもぼろぼろに点数を下げた始末。
今回の留学にあたり、再び数年に渡り英語に真剣に取り組み、IELTSの要件スコアはなんとかクリアしましたが、自分の英語力に自信があるかというと、到底そんなものではありません。

でも、渡英して2ヶ月が経って、少しだけ自分の英語力に自信がついてきました。

なぜか?自分でも不思議だと思うのですが、英語が伝わるような実感が増したわけでも、記憶に定着している単語が露骨に増えたというわけでもありません。

それは言うなれば、「英語学習に対する視点」が変わったからだと思っています

こんな会話を、インドネシア人のクラスメイト(アメリカの4年制大学を卒業済)としました。彼女の英語はスピードという観点ではネイティブ並みに流暢ですが、イントネーションには独特のインドネシアなまりが強くあります。

友人:エディンバラへの旅行楽しかった!
自分:良いね!エディンバラで何してきたの?
(旅行の思い出話をひとしきりした上で)
自分:そういえば、エディンバラの英語ってどうだった?
友人:うーん、私にとってはそんなに難しくなかったかな。マンチェスターの英語とかの方が難しいかも。Reiは、どんな英語が一番フォローしやすいの?
自分:それはやっぱりアメリカ英語だね。一番聞き慣れてるから。
友人:あぁ、じゃあちょうど私の英語ってことね!

んん?

Excuse me.
「私の英語」ということは、自分の英語がアメリカ英語だと思っている?
いやいや、あなたの英語がアメリカ英語なら、もっと聞き取れているよ・・・。

ちょっとだけモヤっとした思いが自分の自分の心に湧き起こりました(笑)
誤解しないでいただきたいのは、決して彼女の英語が下手とか、彼女がむかつくとか、そういうことが言いたいわけではありません。むしろ、彼女は向上心も自立心あって尊敬できる人間なので、だからこそ一緒にいると思っています。

ただ、この会話を通じて、ふざけんなっ!と思う感情と、さらにその裏にある自分の思考に気がつきました。

(あれ?もしかして自分は、アメリカ英語とか、もしかしたらロンドン英語とかに関していえば、結構理解できると思っている・・・?

振り返ってみれば、アメリカ英語・イギリス英語が理解できない時、もちろんスピードや発音によるときも沢山あるのですが、一番やっかいなのは「文脈」でした。
カトリックの習慣にまつわる話、アメリカの大学入学時に新入生が経験する”洗礼”の話、特定の地域にしか存在しない昆虫の生態の話など。思い起こせば「知らないよそんな話!」というような話に、より一層多くの”ついてきていない自分”がいるのに気がつきました。

文脈とは本当にやっかいで、一度わからないと、あとの会話全部わからない。単語もその文脈特有の単語が出てくるし、あーもう何がわからないのかわからない、という形で思考がストップします。

ただ、逆を言えば、文脈さえ理解できれば、多少そこに知らない単語が出てこようとなんとなく言っていることはわかるし、理解を確かめるような質問を途中挟みながら、なんとか自分を会話にしがみつかせることができる気がするのです。

一方で、別の地域の、別の種類の英語というのは、性質が少し違います。知っているはずの単語すら違って聞こえるので、ついていくのはなかなか大変。
これが何か一つの主流の言語だったら、まだ”耳を慣らす”こともできると思うのですが、私のクラスの場合、非常にたくさんの国籍の方がいるので、常にアクセントの交通渋滞状態です。実際、講師の先生もしょっちゅう生徒の質問を聞き逃したり、聞き返したりしています。

そんなことわかりきった事実じゃないか、と思われる方もいるかもしれません。
ただ、私はこの線引きを「頭ではわかって」いても、実際に目の前でいろんな英語がごちゃ混ぜで会話される中、しかも「とにかく全てを理解しなくては、単位を落としてしまう!」というプレッシャーの中で、身体感覚としてうまく区別することができていませんでした。

でも、前述した何気ない会話を通じて、「文脈を理解していないとはこういうことか」「自分がわかっているのはここか」ということが感覚的に理解できてきた気がしています。
その結果、多種多様な発音の理解はレベルが高すぎるので、別に今は頑張って理解する必要ないでしょ、と割り切ったスタンスを取れるようになってきました。

こんなスタンスが取れてくると、目の前の「敵」が一つ減ったような感覚で、自然と自分の英語力に自信がで出てきました。その自信を持った状態で望んだグループワークでは、自分の発言にも少し自信が宿っていた感覚があり、以前よりも皆がわたしの英語を理解してくれているという感覚すら覚えました。

出来ている部分に気がつく

これが今回わたしが記載しておきたいと思った、
「視点に気づく」「視点が変わる」ことに関する経験です。

視点を変えることのパワー

今回の視点が変わったという経験、言い方を変えれば、「物事のいいところ」を「実感を持って捉えられた」ということなのかな、と思っています。

心理学の中では「物事のいいところを捉える」ということ、すなわち、コップに水が「もう半分しか残っていない」と捉えるのではなく「まだ半分もある」と捉えることは、よい生理状態を保つ上で一定意味ある対処の仕方とされているようです。

わかりやすいところでいれば、すごく重たい病気を抱えたときのような、慢性的なストレスがかかっているような状態の時。人はこのようなときに、この「解釈のし直し」を多くするようで、そのことがポジティブな感情を生み出し、生理的な良い影響を生む効果があるようです。

また、すこし違った観点のことを記すと、「解釈」だけではなく、実際に「行動」をしていくことも同様にに気持ちにポジティブな影響を与えるそう。
なかなか難しい状況の中でも、その中でできる範囲で目標を見つけ、それに向けて動き、すこしずつ近づいている感覚、あるいは、物事をコントロールできている感覚を得ていくことが、ポジティブな感情を生み出し、ストレスによって枯渇してしまったエネルギーを再び補充してくれる可能性があるそうです。

個人的にはなんとなく経験値として、わかる気がするのですが、皆さんはどうでしょうか。

こと今回の私の英語のケースに関して言えば、おもわぬきっかけが、再解釈を産み、それがありがたいことに身体感覚を伴っていたということなので、かなり”棚ぼた”感のあるラッキーなものだとは思います(笑)。

視点を変えるを生み出す

この「視点を変える」を意図的に、そして自然に生み出せたらいいな、としばしば思います。

意図的であり、自然である、という矛盾する感覚が個人的にはポイントです。

無理にポジティブに考えなきゃ、なにがなんでも行動しなきゃ、というのはやめた方がいいと思っており、というのも、それは自分の心や体に嘘をついていることになるので、かえって物事を悪化させてしまう可能性もあると思っているからです。

その意味では、ゆっくり自分の時間をかけながら、あるいは、誰か信頼できる人の助けを借りながら、少しずつ「解釈」や「行動」の違いを生み出していく、というのが、いいのかもしれません。

そういう認知・行動の仕方からら実際にエネルギーをもらえる可能性があるんだ、そう思うだけで、そこに救いがあるような感じします。

わたしの場合、インドネシア人の彼女のお陰で、ある種の再認識を自分の語学力に対してできたわけですから、視点に気づかせてくれた、インドネシア人の彼女には、感謝しないとですね。

最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。良い一日を。

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