夕酌/takumi

都内在住。生活、音楽、考えることなど。

夕酌/takumi

都内在住。生活、音楽、考えることなど。

マガジン

  • ココアを2杯飲む

    彼らは眠れぬ夜にココアを2杯飲むんだ。 おかしいだろう。

  • 雑誌ヌガー Vol. 001

    • 6本

    音楽が生活の一部である人間によって作り出された雑誌です。

  • しりとりものがたり

    一人でしりとりをしながら、出てきた単語をもとに小さなお話を書いてみようという試みです。 とにかく書いて出すことを目標にしていますので、出来の良し悪しはご愛嬌。 隔週月曜に更新予定です。

最近の記事

長いよるが続く

眠れぬ夜は頭だけが高回転して、言葉にしていくことが全く追いつかない。眠りたいのに、どういうわけかどんどんと目が冴えていく。そして、どうせ忘れていく様々なことが頭の中を次々と通り抜けていく。気付けるかもわからぬ目印のように、今頭にあることを書けるだけ引き摺り出してみる。 ・大切に思う(思いたい)人たちが苦しんでいることに対して、色々と考えた結果何もできることがないこと ・誰しもが同じように考えることはできないことへの絶望と希望 ・言葉は万能であり無力、有益であり有害、与え奪う

    • 我々は特殊なことをしたのか?~国立駅前ドーナッツパークを振り返る~

      長い前置き先日、JR国立駅前にある旧国立駅舎にて行われたドーナッツパークというイベントに関わらせてもらった。イベント自体をなるだけシンプルにいうと、ドーナッツにまつわる様々なコンテンツを提供し、楽しんでもらうというものだった。ドーナッツの販売や紙粘土のワークショップ、リビングスペースの提供や本の交換、フリーコーヒー、輪投げ、天体ショーおよび天文学者の講演と幅広いコンテンツを3日間提供し、多くの人に楽しんでもらうことができた。 楽しいイベントを作るお手伝いができたということに

      • パイナップル

        暑い…。耐え難い暑さだ。いくらファンが回っているとはいえ、外気温が30度を超えている状態で、人一人分のスペースしかない着ぐるみの中は完全に蒸し風呂状態だ。ファンもあくまで着ぐるみを膨らませることが主目的であり、私に冷風を届けようなどという気は毛頭ない。挙句、重い。ご立派にも私の身長の1.5倍くらいある存在感の塊となったパイナップルの着ぐるみは、そのやたらと作り込まれてリアルな姿も相まってか、相当な重量で私の双肩に負荷をかけ続けていた。気まぐれを起こして何も考えず、町おこしイベ

        • ラッパ

          鳴り響くラッパの音が絶望的な朝を迎えたことを告げた。軽快なメロディとは裏腹にその音が意味するところは、重く苦しい。今日もいつもと変わらない朝を迎え、1日を何とかやり過ごし、生き延びて、夜深くにようやく布団に潜り込み、泥のように眠る。そしてまた再び明日の朝には同じラッパの音で目を覚ますこととなる。このような生活がいつまで続くというのか。心が安まらない。寝ている間もどこかでラッパの音がしている。夢の中で何周か同じルーティーンを繰り返している気さえする。だが、夢ではない朝のラッパの

        長いよるが続く

        マガジン

        • ココアを2杯飲む
          43本
        • 雑誌ヌガー Vol. 001
          6本
        • しりとりものがたり
          4本

        記事

          ゴリラ

          「だから申し訳ないんですけど、食べたことがないんですよ」 スーパーのレトルトカレーコーナーで私は何度目かの謝罪をした。ここにはいつも常備しているレトルトカレーのストックが切れていることを思い出し、その追加を買いにふらりと訪れただけなのだ。そのコーナーで面見せされているレトルトカレーの中から、いつものカレーを選ぼうとした時、ふとゴーゴーカレーのパッケージが目に入った。ゴリラの描かれた印象的なパッケージは、特に用がなくても目に入ってしまうが、少なくとも私の常備品ではなかったし、

          りんご

          おっかなびっくりしながら、上手な人の3倍くらいの時間をかけて、赤いりんごの皮を剥く。刃を入れるごとに皮が千切れ、時には身の部分を分厚く削り過ぎ、それでも指を切らないようにだけ慎重になりながら、りんごの皮を剥いていく。くし切りになって皿に盛られたりんごは、必死な人間に長時間握られていたせいか、せっかく冷やしておいたのになんだか生ぬるくなっている。もう一度、冷蔵庫に置いておこうかな、と一瞬考えるがすぐにやめる。そもそも、今まさにこのりんごが食べたくて、下手なりの皮剥きを始めたのだ

          初めてのZINE制作を振り返る

          2023年11月11日に東京流通センターで行われた文学フリマ東京37にて、初めて制作したZINE『ストレンジ シンクロニシティ』を初頒布した。文フリだけでなく、翌日に出たデザインフェスタ58、それ以外でも何かと最近こんなものを作りましたと話をしたときに買っていただけることがあって、本当に制作してみてよかったなぁと思っている。それだけでなく、音楽と記憶の奇妙なつながりについてを話すと、「ああ、わかるわかる」「あるある!」と話をしてくださる方がとても多く、それだけでもとてもうれし

          初めてのZINE制作を振り返る

          思いを伝える

          人生で一番駆け抜けた一ヶ月だったかもしれない。全ての週末に何かするべきことがあり、作り上げたものたちを届けるための日々だった。思うように届かなかったもの、思っていた以上に届いたもの、思いもよらぬところに届いたもの。どんなに小さな石でも水に落ちれば波紋が少しずつ広がっていくように、世に向けて放たれたそれらは少なからず色々なところに影響を及ぼしたはずだ。 自分が作ったものを誇るのが苦手だ。作った自分自身が手を行き届かせられなかった部分を知っていること。そもそも自己評価の高くない

          思いを伝える

          ここちゃ堂 2023年11月の活動予定

          大福22号とともにここちゃ堂というユニットを作りました。 「日々の暮らしを味わうユニット」をテーマとし、生活を少し彩るようなことをやったり、それを誰かに伝えたりする、そんな活動をしていきたいと思っています。初めての活動は文学フリマ東京37となりますが、別に文芸ユニットというわけでもなく、日々の生活そのものが活動とも言えます。なんでもありです。 11月から急に動き出したので、その活動のまとめと、出展予定の文学フリマおよびデザインフェスタにて頒布予定の作品について紹介したいと思い

          ここちゃ堂 2023年11月の活動予定

          手を動かす

          色々なものに手を出してきた。だが、どれも長続きはしなかった。どっぷりとその世界に浸かり、何かを作り続けるということができなかった。それはいつでも自分のコンプレックスだった。 久しく作ることに必死になり続けた1ヶ月だった。文フリに申し込み、文章はできたがそれをどうまとめたらいいかわからない。それを学ぶ機会を得て、学んだものを元にして作り続けて、試し刷りして、入稿して。別のZINEの文章を書いて、座談会を開いて、起こしてもらって、まとめて。その合間に書く手癖を付けるために日記や

          手を動かす

          ここに居続ける

          今の家に住み始めた年数からすると中途半端な時期だけど、意識的にここに住んでいるな、と思い始めてから約1年といった感覚があるのが9月だ。小鳥書房の良夜に初めて行って、そこからこの一年で本当に色々なことが起きた。それまで想像もしてこなかったような人付き合いと街との関わりが生まれ、そのことに随分と救われてきた一年だったように思う。 そしてちょうど1年経った今、また様々なところでこの街や、街の人たちとの関わりを深めているのは、なんとも偶然にしてはできすぎているという気がしてならない。

          ここに居続ける

          続ける、かかる

          「続ける」ことは一つネックではあるようだ。「続ける」ことを意識しない程に当たり前化してしまえばいいのだが、そうなるまでの間には大抵、意識的に「続ける」ことが必要になる。そこにはどんなに楽しいことでもそこはかとない義務感が生まれ、それがなんとなく嫌になる。嫌の澱が溜まり、やがてその澱の中に「続ける」ことが沈んでいく。たまにその澱から引き上げてみたりもするけれど、だいたいまたその澱の中に突っ込み直すことになる。 世の中にはそれに対処する本がたくさん出ていて、それを読めば一つ解決策

          続ける、かかる

          燃える炎を見る

          定期的に書き続けないと何かが鈍っていく。そんなことは何度も何度も繰り返していて、十分に分かっているはずなのに続けることは難しい。それでもせめて月に一回ここに書きつけること。それは自分に書き物をすることを課した以上、一つのいい枷なのかもしれない。 言葉を繰り返し交わし、言葉に救われたはずが、またも伝わらないことで苦しむことになった1ヶ月だった。自分がどっちを向けばいいか分からないまま、詳細を知られたくない気持ちと救いを求める気持ちを歪に重ねたまま放った言葉が、巡り巡って自分を

          燃える炎を見る

          他人に声をかける

          知らない人に声をかける、というのは人によっては本当に勇気の要る行為で、私は大抵の場面においてその勇気が出ない。きっとその人のためになることを自分が知っていても、やはり見ず知らずの自分から声をかけられるというのは、気味が悪いと思われてしまうだろうな、という気持ちが勝ってしまう。三十路を越えてもなおそんなことばかり考えて、考えているうちにタイミングを逸してしまうようなことばかりだったから、まさかもうこの傾向は変わることはないだろうと思っていた。 先日、小鳥書房でアイスコーヒーを

          他人に声をかける

          人に振る舞う

          仕事柄、人に何かを振る舞うという機会はほとんどなく、何かを作って食べたり飲んだりすることはごく限られた身内にだけ、ということがほとんどだった。それは実に気楽な行為で、自分が上手いと思えば基本それでよし、まぁ身内には外れたらごめん、で済む話だ。 これが不特定多数の、しかも大半は顔の知らない人となると話は変わってくる。できれば満足してもらいたいし、それに合うようにすこしでもできることをしたい。だが、誰でも満足するようなものだけを用意すればいいわけではない。逆にそれなら誰でもいい

          人に振る舞う

          二つを考える

          ぼんやりと考えていることが二つ。 一つは文章のこと。今住んでいる場所について。その場所にいることについて。そこにいる人について。なんでもないただの住人として、何を描き出せるのか。一つフックというか、重要なポイントは見つけたような気がする。だが、なかなかそこから先に広がる感じがしない。すごく重要なポイントではあると思っているけど実はそうではないのか、はたまた自分の気乗りする書き口ではないのか。自分のことなのに分からない。 もう一つはコーヒー。一時期は豆を悪くしてしまうんじゃ

          二つを考える