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ルビ

ルビが横並びの文章の上を移動していく姿を見たことがある。
文頭にあった「黒」という文字に振られた「く」の字が、左から右に向かって書かれた文章の上を、バネのようにぴょんぴょんと跳ねていた。他のルビはどこへ行ってしまったか、それとも最初から「く」以外いなかったのか。ともかくも「く」にはその先に一文の平野が与えられていた。
最初少し躊躇していた「く」だが、意を決したように飛び跳ねながら先へと進み始める。「黒」の字は比較的平坦で助走としてはちょうどよさそうだ。
だが「く」にはいきなり難関が待ち構えている。「い」の上を飛び石のように移っていかなければ先へ進むことはできない。「黒」の右端でまた少し躊躇っていた「く」は力の加減を試すようにして数度はねた後、「い」の左側へと飛び移る。そして一度の着地ですぐ右側へ。さらにここも一息で次の「文」の字の左端へと到達する。「く」も少し気が抜けたのか、飛び移った勢いで「文」の飛び出た部分の手前まで行ってしまい、出っ張りに躓く。そのまま転がり落ちてしまうのではないかとハラハラしていたが、「文」と「字」の間は隙間があまりなく、また「字」の出っ張りに頭からつんのめるようにして引っかかって止まった。
慎重に立ち上がった「く」は出っ張りを飛び越えて次の文字に向かう。「の」はまるで油を塗った坂道のようにつるつるして見えた。「の」の頂点は少し右にあり、その手前に立つとそのまま手前に滑り落ちてしまう。かといって頂点を超えるとその先はほぼ崖だ。しかもその先には「上」が待っている。右側に伸びた平らな部分に乗ることができればよいが、先ほどの「文」程度の出っ張りで躓いたことを考えると…などと考えていると「く」は既に気持ちを固めたらしい。一気に蹴りだすと「の」の頂点少し先に見事着地し、足を滑らせることなく踏ん張りを利かせ、「上」の上を軽々と飛び越えて、「を」の左端へと着地を決めた。思わず拍手をしてしまう。少し照れた様子の「く」だが、今度は気を抜くことなく「を」の出っ張りには引っかからず次へと進む。
「ル」と「ビ」は文字ごとの距離が少し遠い。だが、「く」もこれまでの経験でだいぶ自信がついたようだ。先ほどよりも躊躇いはなく、「ル」の上をちょんちょんと飛び移り、「ビ」の点々にぶつからん勢いで飛び移る。先にある出っ張りは躓くのではなく、ストッパーとしてうまく活用することを覚えたようだ。
その後も順調に「が」「飛」「び」「跳」「ね」を飛び移っていき、「て」の上に着地した。はじめに飛び移った「い」が待っていた。もうすでに経験済みだからすっと行くのかと思ったが、だいぶ「て」の端で跳ね続けている。どういうわけかその跳ね方には少し哀愁が漂っている。その真意がつかめないまま、しかし覚悟を決めた「く」は「い」へと飛び移る。初めに移った「い」と同じように。しかし、今度は明らかな自信を持って。
そして、その先に待ち受けていたのは「く」だった。「く」が「く」の先端に飛び移った瞬間、ルビの「く」は本文の「く」に吸い込まれてしまった。何が起こったのか、最初私にはわからなかった。しかし、考えてみれば当然である。「く」のルビとして「く」は必要ないのである。だがそれでも、私は得も言われぬ郷愁を覚えた。
そして私ははっとして、本来の目的であるその文章を読み始めた。だが、今となってはいったい何の文章だったのか、さっぱり覚えていない。
だが私は間違いなく、黒い文字の上をルビが飛び跳ねていく様を見たことがある。

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