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子育ては「贈与」か「等価交換」か ~しずかちゃんパパの言葉をもう一度~

私にとって今期最大のヒット書籍である「世界は贈与でできている」。

しかし、この中の「子育て」に関する記載には引っ掛かるものがありました。

子育ては「贈与で無償の愛」なのか、「反対給付のある交換行為」なのか。今回はこの観点で子育て・育児を考えてみたいと思います。

「世界は贈与でできている」の記述

同書の該当部分を抜粋・ようやくすると、以下の通りです。

・親は「愛」という形で子に贈与をする。
・「老後の面倒を見てもらおう」といった反対給付を期待してのものではなく、一方的な贈与であり、見返りを求めない、いわゆる無償の愛である。
・その「無償の愛」は親自身がその親から受け取った愛の反対給付であり、無から有が産まれた訳ではない。
・親が子に孫を求めるのは、「自分は正しい形で子供に愛(贈与)を渡せたのか?」という不安を「子が他者を愛せる主体になった」ことを確認することで、不安と義務から解放される。

この部分は「何故親は子に孫を求めるのか?」という問いかけから始まるパートですが、つまり子育てを「マイナス(負債感)からスタートし、それをゼロにする贈与行為」と定義し、それを図に表すと以下の通りになります。

正反対のスタンスを取る、しずかちゃんのパパ

映画「のび太の結婚前夜」を観たことがある方は、覚えておられると思います。しずかちゃんとパパの感動のやり取りを。

のび太としずかちゃんの結婚前夜、しずかちゃんはパパの部屋を訪れ、突如こう言います。

「パパ!わたし、およめにいくのやめる!」
「わたしが行っちゃったら、パパ寂しくなるでしょ。これまでずっと甘えたりわがまま言ったり。それなのにわたしの方は、パパやママになんにもしてあげられなかった」

それに対してしずかちゃんのパパが掛けた言葉が、本当に素晴らしい。この名言は要約できないので、そのまま載せることをお許しください。

「とんでもない!きみはぼくらに素晴らしい贈り物を残していってくれるんだよ。数え切れないほどのね。」
最初の贈り物はきみが生まれてきてくれたことだ。午前3時ごろだったよ。君の産声が天使のラッパみたいに聞こえた。あんな楽しい音楽はきいたことがない。」
「病院を出たとき、かすかに東の空が白んではいたが、頭の上は、まだ一面の星空だった。こんな広い宇宙の片隅に、僕の血を受け継いだ生命が今うまれたんだ、そう思うとむやみに感動しちゃって涙がとまらなかったよ。」
「それからの毎日、楽しかった日、満ち足りた日々の思い出こそ、きみからの最高の贈り物だったんだよ。少しぐらい寂しくても思い出が温めてくれるさそんなこと気にかけなくていいんだよ」

つまり、しずかちゃんのパパは、「無償の愛」を届けたかもしれないけれど、娘であるしずかちゃんからも贈り物を受け取っている、と言っています。図式化すると、こういうことですね。

「世界は贈与~」の著者である、近内さんとしずかちゃんのパパは完全に逆のことを主張しているように見えます。

どちらの主張も理解できるが、しずかパパでありたい。

ですが正直、どちらの主張もよく理解できてしまう自分がいます。

子供が泣き止まずにずっとあやし、抱っこしている時。土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになりながら保育園に送り迎えをしている時。自分の体調が悪くても、「あそぼー」と泣きそうな顔をしながら袖を引っ張られる時。

少なからず大変な想いをしながらも当たり前のように子育てをするのは、「娘のために」というだけでなく、「自分もそうして育ててもらったし」という負債感によるところも一定程度あると思います。

一方、娘が幸せそうな時。彼女が何かに一所懸命に取り組んでいる時。自分が何かに困っていると、彼女なりに精一杯助けてくれようとしてくれる時。自分に対する全力の愛を感じる時。

自分の中の何かが満たされている感覚がありますし、娘からの「贈り物」を受け取っている気持ちになります。

恐らく、その「贈り物」も含めた全ての事象をエネルギー量として定量化できるのであれば、

「娘のために使っているエネルギー量」>「娘から受け取るエネルギー量」

でしょう。なので、近内さんの言っていることも正しいと言えます。

ですが、私はこの右辺の部分をこんなに素敵に表現できるしずかちゃんのパパに憧れますし、どんなに小さなものでも「娘からの贈り物」に気付けるパパでありたい、と思います。

そして、結局は自分次第

娘からの「贈り物」を受け取るには

自分の子育てシーンを一つずつ切り取ってイメージしながら今回のNoteを書いていて、このことに気が付きました。

自分の心身が充実している時は娘からの「贈り物」を100%受け取れるし、そうで無い時は受け取れず、ひたすら義務感で行動している

自分の心身が充実している時は娘に100%向き合えており、また想像力も働いているので、彼女からの「贈り物」に気付き、受け取れます。

一方、そうでない時はどれだけの「贈り物」が目の前に届いていようとも、それに気が付けず、義務感のみでその瞬間を過ごしています。

つまり、娘がどう、とかではなく、常に自分の「在り方」が問われているのだと思います。

全ての対人関係にも繋がる。関係は自分から始まる。

そしてこれは、対子供だけではなく、全ての対人関係に言えることではないでしょうか。

そもそも、子供もあくまで「他人」であり「小さな大人」。対人関係という意味で大きな違いが生じる方が可笑しいのです。

人間社会に生きていれば、合う人、合わない人がいるでしょう。

また、日によっては「合う人だと思っていたけど、今日の発言・行動にはとてもイラっとした」ということもあるでしょう。

そうした時、つい相手起点で問題を考えてしまいますが、まずは考えるべきは自分。自分がバイアスを極力排除して相手と接しているか、自分は前向きな形で世界を観れているか。

相手の発言・行動に疑問を持つ前に、一回この質問を自分に投げかけることが、社会に生きる我々として求められているような気がしました。

終わりに

子育てNoteもこれで4本目になりました。依然として悩んでばかりの日々です。きっと世の中のパパ・ママもそうなのではないでしょうか。

答えが出る日は来ないでしょうし、そもそもそんなものは必要ではないのかもしれませんが、子育てを通じて自分の人生を考え続けること自体は意味があることだと思うので、今後も子育てNote、続けていきます。

来週は、アンパンマンについて書きたいと思います。
では、また来週。

細田 薫

https://note.com/hikarinosuke/m/m368d5fbb3c14


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