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初めてのオフィスビルの1階にあるコンビニのコーヒーマシンで自分で淹れるタイプのアイスコーヒーRサイズ税込100円

『故障中』
オフィスのコーヒーマシンのノズルの部分に付箋が貼られていた。延々と紙を吐き出し続けるプリンターの隣で、冷蔵庫はただ氷を溜め続けていた。コーヒーマシンは、毎回ドリップを行うエスプレッソタイプの高級仕様。毎日欠かさず飲んでいたコーヒー、淹れたてが無いと仕事モードにスイッチが入らない。自動販売機のものではだめだ。あれはコーヒーフレーバーの水だ。欲を言うと、キリマンジャロの強い酸味とあの香りが出る深煎りで、ロックアイスのアイスコーヒーが最高。これでは仕事にならない。どうしたものか。そういえばオフィスの1階のコンビニに、コーヒーマシンがあったような?マシンの上部にはコーヒー豆が入っていたような?
 一目散に1階のコンビニに行くと、あった。コーヒーマシンだ。マシンの上部にはコーヒー豆が見える。豆の種類はわからないが、毎回抽出するタイプ。どうやら他の人を見ていると、どこからかカップを持ってきて、マシンにセットしているようだ。店内を探すと冷凍庫の中に、味のついたアイスボックスと同じ形状で、透き通ったロックアイスが詰まったアイスコーヒー用のカップがあった。カップを透明なドアを開き、マシンの注ぎ口の場所にセットした。「アイスコーヒーLボタン」を押すと、ボタンが点滅し始めマシンががりがりと焙煎している音が鳴り響いた。高鳴る胸を抑え、しばらくすると噴射口から茶色い液体が吹き出てきた。
 しまった。カップのフタを開けていなかった。出張の時にホテルにあったコーヒーマシンは、カートリッジのフタを開けてはダメで、直接セットする必要があった。同じ要領だと思いこみ、フタのフィルムを剥がさずに、マシンにセットしてしまった。マシンのステージの透明なドアは、コーヒーを注いでいる間はロックされ開けることが出来ない。無残にもセロファンのふたの上に、貴重なコーヒーが注がれ続けている。フタのセロファンはコーヒーの熱で曲がりつつも、耐え忍んでいた。フタの上のコーヒーも表面張力で耐えていたが、遂にあふれ出し、透明カップの側面をチョコレートフォンデュタワーが溢れるようにカップを透き通った茶色に染めていった。マシンに並ぶ、オフィスの思われるおじさん達は、顔を真っ赤にし、私から目をそらしていた。
 プレゼンの資料にド詰めしてくる上司の尋問よりもだいぶ長く感じた注ぎ時間の後、ようやくマシンは止まった。茶色に染まったアイスボックスを取り出す。周りには拭くタオルもティッシュ類もないため、電子レンジの上に置いてあったメッシュの布巾でどうにか拭いたが、ただメッシュまでコーヒー色になっただけだった。マシンのステージではちょっとした土砂洪水が起きていた。手元とワイシャツを少々コーヒー色に染め、とりあえずマシンを他の人たちに譲った。おじさんたちもお互いに見合って譲り合っている。パリッとした真っ白なワイシャツが、腕を中心に泥しぶきをかぶり迷彩柄に変わっていた。
 誰かが通報してくれたのか、店員さんがペーパータオルを持ってきてくれた。茶色にまみれたカップを透明に戻し、仕切り直した。ヘタったセロファンのフタを剥がし、再度マシンにセットし、「アイスコーヒーLボタン」を押した。今度は間違いない。成功した。一回戦で少々溶け始めている氷山に、念願のコーヒーが注ぎ込まれていく。心の中で勝利宣言し、ガッツポーズを取った。しかしコーヒーがカップの最上部まで入っても止まらない。表面張力もむなしくあふれ出し、再びチョコレートフォンデュタワーになった。今度は満たされたカップ内側と、流れ落ちる外側が重なりあってタワーの色が濃くなっている。どうやらこのカップはLサイズではなく、Rサイズであったようだ。LとRを間違えるなんて、リスニングの試験じゃないんだから。コーヒーで浸された床面を革靴が滑り、取り出したコーヒーをドバっと1/4程被ってしまった。ワイシャツは迷彩柄どころか、茶色い軍服になった。
 満身創痍で負傷しながらもようやく完成したコーヒーを持ちレジに並ぶ。外側がコーヒーでまだ濡れ、拭き切れていないコーヒーをレジの台にそっと置いた。茶色く丸いカップの跡が浮かび上がった。レジ担当のアフロがちょっと伸びたバイトの兄ちゃんは、ずぶ濡れのリーマンを見て言った。
「…え?」
すかさず茶色い軍服の説明をする。
「…え?あー、ちょっとトラブっちゃって。アイスコーヒー1つ」
すかさず、被せる兄ちゃん。
「いや、先にレジで買ってから淹れるんですよ!そうじゃないと万引きできちゃうじゃないですか。次から気を付けてくださいねぇ。アイスコーヒーRサイズ税込100円になります。」
「あ、はい。気を付けます。。。」
コーヒーまみれのコーヒー愛好家のリーマンは、コーヒーのことなど何一つ興味がなさそうなバイトの兄ちゃんに叱られた。バイトの兄ちゃんは茶色い軍服には一切触れることがなかった。
 エレベーターに乗ると、皆帰還した兵士を避け、自動的にソーシャルディスタンスが保たれた。7階のボタンが一瞬茶色くなったが、指で左右に伸ばしてふき取り透明にした。デスクに戻るまでに視線を感じると「…勝ったんだ。俺は戦いに勝った。」と茶色い液体と共にまき散らしておいた。余計にディスタンスが取れた。茶色く染まった軍服を脱ぎ、ロッカーに置いてあったTシャツに着替え、長い長い戦いの末に「手に淹れた」戦利品を一口含んだ。おそらくアラビカ種の豆で、キリマンジャロの深煎りとは違い、サッパリとした甘口テイストだが口当たりは良い。これはこれで良い。
 勝利の余韻に浸るのもつかの間、上司からの着信があった。
「昨日の資料、スキャンして送ってほしいんだけど、至急よろしく!」
寂しそうに氷を貯め続けている冷蔵庫の脇で、プリンターは元気よく紙を吐き出し続けていた。止まったタイミングでスキャナー部分を開けると、スクリーンに付箋が貼られていた。
『故障中』


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