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【小説】宛先不明の愛「第三話」


 手紙は濡れていた。雨粒が落ちたみたいだった。もう乾いてはいたが、跡がくっきりとついてしまっている。わたしは、いつも通り、花さんの家に届けようとした。空は青々としていて、風が木々を揺らしている。ザワザワと葉っぱが擦れる音がした。

 花さんの家の前に行った時、わたしは、落とし穴に落ちていくような脱力感に襲われた。空き家の看板が建てられている。真新しい緑のインクで、不動産屋の電話番号も書かれていた。わたしは、手に持った手紙をやんわりと握った。迷子で泣きそうになっている子どもの手を握っているような気がした。どうしたものか。

 ペリッと、音がした。握った拍子に、手紙の封が剥がれてしまったらしい。体の芯が熱くなっていって、反対に指先が冷たくなっていく。冷えた指先で、便箋を取り出した。

 ひどい手紙だった。泣きながら書いたのだろう。あちこちに丸い跡がついていたし、文字は震えている。文章と文章の間が、時々不自然に途切れていた。一気に書いたわけじゃないのかもしれない。さらに言えば、一文字を書く途中でもペンを止めた跡がある。

 唯一、頭の奥底に残っている彼の表情からは想像できない。知性が消えて、痛みだけが残ったような文章だ。それでも、花さんを責める言葉は一つもなかった。花さんの幸せを願う言葉と、花さんがなぜ手紙を返してくれないのか察しているという話と、最後に、手紙を送るのをやめるという話が書かれていた。

 彼は、花さんが何を考えているのか分からなかったのだろう。何も語らずに消えていく己の彼女を、簡単に疑うような人ではないはずだ。

 わたしは、一言も言葉を交わしたことのない彼の存在が、心の中で膨らんでいくのがわかった。まるで花のつぼみが開いていくみたいだ。桃色の花だ。同時に、雪のように消えていきそうな彼を想像して、心が痛くなる。誰もいない銀世界で一人ぼっちになり、鈴を一度だけ鳴らしたような寂しさだ。

 頭が甘ったるい匂いを嗅いだ時のように麻痺していくのがわかった。止める術はなかった。違う、止めなかった。わたしは、郵便局に戻ると、この手紙を宛先不明として処理せずに隠し持つことにした。それから、帰り際に封筒と便箋を買った。

 家に帰ると、コートも脱がずに窓際の机に便箋を広げた。椅子に座って、卓上ランプをつけた。いつ飾ったかも忘れた造花が一輪、花瓶に挿してある。黄色い百合の花だ。花言葉はなんだっけ。

「あれ。どこから入ってきたのかしら」

 いつの間にか、便箋の上に落ち葉が横たわっている。何の木の葉っぱかも分からない。広葉樹の、雨粒みたいな形をしていた。茶色くなっていて、指で触れただけで崩れてしまいそうだ。

「昔の人は、葉っぱに手紙を書いていたんだっけ」

 いつの日か、誰かから聞いた曖昧な記憶が思い出された。わたしは、落ち葉を捨てられず、机の隅っこに置いた。

 次いで、視線を便箋に落とした。紙の向こう側に彼が見える気がする。今も頬を濡らしているのだろうか。そう思うと、いたたまれなくなって、引き出しから万年筆を取り出した。そうして、自分の名前を書いて……。

 何をしているんだわたしは。

「あぁもう。バレたらクビよ」

 立ち上がって、キッチンに行く。乱暴に棚を開けてガラスのコップを取り出した。シンクの蛇口を捻って、水を出す。冬の、凍りかけたように冷たい水だ。火照った体を落ち着かせるのにはちょうどいい。わたしは、一気に飲み干した。水が思ったよりも不作法に喉に入ってくるから、むせてしまう。水を床に吐き捨てた。コートも濡れしまった。ポケットからハンカチを取り出して、唇や頬を拭った。それからコート。最後に床だ。水が、ハンカチに吸い取られていく。

 わたしは、濡れたハンカチをただ、ぼんやりと眺めた。ハンカチの向こう側に、やっぱり彼がいる。心が強く彼を想っている。

「可哀想だっただけよ。良い人そうに見えただけよ。不憫だっただけよ。落ち着いた、素敵な人に見えただけよ」

 何かと理由をつけてみる。この理由さえなければ、わたしは、彼を気にしなくなるかもしれない。

「彼のために何かしたいと思わなかったら? 良い人だと知らなかったら?」

 こんなにも心を砕きはしなかったかもしれない。でも、わたしはもう、彼を知っている。見ないふりもできただろうに、わたしは彼に踏み込もうとしている。

 花を慈悲もなく摘み取るみたいに、心を整理しようとするが、どうもうまくいかない。恋とも、愛とも、言い切れない気持ちが心の中でたゆたっている。

 立ち上がって寝室の棚から、新しいハンカチを持ってくる。淡い桃色をしていた。わたしは、机に戻ると、万年筆を握った。

 やっぱり分からない。花さんになりすまして書く? それともわたしだってバラす? 

 何でもいい。彼が泣き止むのなら、なんだっていい。彼が今、一番求めているのは、花さんの言葉だ。きっと、そうだ。

 だから、わたしは記憶の中にいる花さんの言葉を、手紙に書いた。これからわたしは、花さんだ。偽りの恋人だ。甘ったるい言葉を便箋に並べて、封筒に入れた。淡い桃色のハンカチも一緒だ。それから卓上ランプを消した。外はすっかり暗くなっている。黄色い百合の造花が、月明かりに照らされながら、揺れた。


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