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厳しさと優しさ、真に親身に関わりを持つと言うこと

こんにちは。
スクラムヒューマンパワー代表 日原 達仁です。

私の記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

10歳、ラグビーを始めました。
ルールもわからず、ボールを持てば無我夢中で走りました。
タックルされて地面に倒れても、ボールを離しません。
ラグビーでは、タックルされ倒れた場合にボール保持者は
ボールを離さなければなりません。
ラグビースクールのコーチに反則だと怒られ、
初めてこのプレーが反則だと理解します。

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高校に入学し、ラグビー部に入部します。
初めての試合でも、
ボールを持ってインラインゴールめがけてまっしぐらに突進し、
タックルを受けてボールを前に落としました。
反則でプレーが中断した瞬間、レフリーをしていた監督に、
「お前は次からボールに触るな!」と、間髪入れず殴られました。

振返って考えてみると、自分勝手なプレーはチームプレーに反しています。
ラグビーは、ひとりの力ではたかが知れています。

いろんな苦い経験や体験が、
その後の人生にとても大切なものであると感じています。
強烈な先生や先輩が存在し、それが正しいとされていた時代でした。
今では、当時みたいな教育をしたら、
何人もの先生が職を失ってしまいますけれど(笑)。

書店では「上手な叱り方」のハウトゥー本、
研修事業でもアンガーマネジメントの手法などが、
人材育成のトレンドの様です。
本来は、家庭で行う「躾」に相当するような部分です。
私は厳しい父親に叱られ、優しい母親に窘められ育ちました。
兄弟同士で遊んでも、兄貴が一番偉いという上下関係がありました。
昭和の時代の特徴でしょうか。
地域においても親身に、真剣に、
本気で厳しく関わってくれた大人たちが多かったように思います。

私の尊敬する大恩師、山梨県ラグビー協会名誉会長、上野敦夫先生。

御年90歳です。スクラムヒューマンパワーで、
上野先生のぶどう農園のお仕事を請け負うことになり
5年ぶりにご自宅へご挨拶伺いました。

私の顔をしばらく見つめ、「随分表情が変わった」と穏やかに仰いました。
1時間ほどお庭のテーブルでお話をしたでしょうか。
上野先生は、日川高校ラグビー部を強豪チームへと導き、
山梨県のスポーツの普及・強化に務めていらっしゃいました。
教師からも、教え子からも慕われ、
沢山の方々を社会に貢献できる人材へと育て上げました。
教え子には林真理子さんジャンボ鶴田さんなど、
ラグビー以外の著名な方もいます。

その上野先生も、少年時代は喧嘩に明け暮れ、
高校の卒業すら危ぶまれていたそうです。
上野先生の恩師、村田一郎先生から、
「日体大でラグビーをやるなら卒業させてやる」と告げられ、
「先生!ラグビーでもなんでもやります!」と留年を免れたそうです。

今でもラグビーへの情熱は残っているのか伺ってみたところ、
「日原、もうラグビーにはあまり関心がなくなってしまったよ。
   人間、欲がなくなると気持ちがいいもんだよ」と笑われました。
90歳。幾分お耳は遠くなられていましたが、
本質を見抜く眼力と包み込むような包容力は変わりません。
40歳も歳の離れた私の話を、優しいまなざしで聞いてくださいました。

「日原、ラグビーだけが人生ではない、その後の生き方、
   その後の人生の方が大切なんだよ」と、
上野先生の言葉ひとつひとつが深く染み、
その言葉の奥にはどんな思いがあるのかと感慨深く思いました

また、上野先生は、私の息子がラグビーをやっていることを
本当に喜んでくださいました。

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私の恩師である有賀健先生も、
上野先生に声をかけられてラグビーを始めたひとりです。
有賀先生は高校2年生からラグビーを始め、
日本代表にまで上り詰めました。

上野先生をはじめ、村田一郎先生、日川高校の名物先生たち。
人との出会いと、真剣な本気の指導。
時には今でいう理不尽な指導もあったかもしれません。
しかし、皆とても親身に関わってくださいました。

今の時代だからこそ、若者を厳しく育成し、
希望の架け橋になって欲しいと切に思います。
スクラムヒューマンパワーの人材育成は、厳しく、優しく、楽しくです。
父性も母性も、子供の気持ちも持って、精一杯取り組んでいきます!


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