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存在の輪郭-ミッドナイトスワンを観て

心と体、どちらが自分を自分たらしめているのか?

心が自分を自分だと思うから自分なのだろうか?

それとも、体が、言い換えれば、物質的な自分が自分なのだろうか?

通常であればこのようなことは問うまでもないことで、大抵の人はあらためて考えてみたこともないだろう。

では、映画ミッドナイトスワンの主人公、トランスジェンダーの凪沙ならどうだろう?

彼女の体は男。しかし心は女。

私はどっち?

彼女は繰り返し自分に問いかけたことだろう。

これは正解のない問いだ。

ひとまず、彼女は彼女にとっての答えを出した。
心こそ私であると。

しかし、世間はそうはみない。
心は見えないからだ。
お前は体、つまり男だとみる。

そのつらさは想像し難い。

トランスジェンダーの皆が皆、つらいわけではないだろう。つらさがないところには生き甲斐もないという考え方もある。

しかし、あの衝撃のラストシーン…

凪沙のあまりに痛ましい姿を観たあとでは、その哀しい魂に激しく感情移入してしまう。

もう少し自分なりの感情移入を続けてみよう。

そもそも
女とは何なのか。
男とは何なのか。
誰かはっきり答えられる者があるだろうか?

答えとして、生物学的な特徴を挙げた者は、つまり体こそ性別だと考えているのであって、少なくとも彼女の回答とは相反する。

では、この生物学的な特徴を除いた、心としての女とは?男とは?

それは自明なことのようでいて自明ではない…

こうしてあらためて考えてみると、普段いかに性差について顧みることをしていないかが分かる。
男は男。女は女。
所与の条件としてあぐらをかいているのだ。

凪沙はきっと、私の数倍もそのことについて考えただろう。

何と悩み深きことか。

私は女なのか男なのか…
そもそも女とは男とは何か…

正解のない問い、答えのない問いこそが本質的な問いであり、それが人間の限界であり、存在の輪郭を画く、と何かの本で読んだことがある。

もしそうなら、私は凪沙によって、その痛ましい魂をたどることによって、輪郭線を一本描き加ええたのかもしれない。

この映画を観てよかったと心から思う。


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