お金は人を変えるという話

どうも。東野京(ひがしのみやこ)です。
お金は人を変えるというフレーズは様々な所でまことしやかにささやかれていますが、私にも思い当たる記憶が存在します。

今回の記事では私の経験を基に、お金が暴く人間の負の側面について触れていきたいと思います。


父が亡くなった

それは私が小学3年生に上がる事でした。
二つ下の妹は小学校への入学を控え、父も母もそれをとても楽しみにしていました。

2月11日、夜も深く私は寝静まっていた頃の話です。
職場からの帰宅中、父が運転する乗用車と対向車線から右折をしてきたトラックとが正面衝突を起こしました。

父は変わり果てた姿となり、我が家に運び込まれてきました。
今思えば、この時点で助からない事が確定していたのだと思います。

病院ではなく、家に搬送されてきたという事は、治療のしようがないということを表しているのでしょう。
せっかくだから身内の傍で息を引き取らせてあげたいという優しさなのでしょうか。

変わり果てた姿の父は今でも脳裏に焼き付いてしまっています。
人によっては気分を害してしまう恐れがあるので子細には記しませんが、片脚がなくなっていたことが特に記憶に残っています。

加害者側が飲酒運転だったという事で、新聞やニュースにてそれなりに取り上げられたように思います。
葬儀には斎場に入りきらないくらいの人間が溢れていました。私にとっては憎くて仕方がない人間でしたが、他者にとってはそうではなかったようです。

私は心から喜びました。
これでもうボコボコにされたり、真冬の階段の踊り場に縛り付けられたりすることがなくなるのだと、これからは普通の暮らしが送れるのだと思っていました。

「お母さんを守るんだよ」
「お母さんを支えてあげてね」
周りの人々は口々に声をかけてきます。

この時は私が自分に出来ることを一生懸命にこなしていけば、
きっと上手くいくのだと信じていました。

人生がそんなに甘いものである訳がないのに。


パパとの暮らし

父の死後、母が外に働きに出るようになりました。
私は家事を担うようになり、それなりに上手く回っていたように思っていました。

途中から祖母も同居するようになりました。
家事については祖母も手伝ってくれるようになりましたが、祖母の料理が壊滅的なものだった為、料理は引き続き私が担当することにしました。

それから少しして、同居人が増えることとなりました。
パパと呼ばれていたその男は、元々隣のマンションに住んでいた友人の父親でした。

小学5年生の途中で、突如として逃げるように引っ越しをすることとなりました。
転居先は誰にも告げないようにと言われ、友人達と一切の交流を絶った状態で新居へと引っ越しを行いました。

県内の別の小学校へ転入したものの、二週間で再び転校をすることになりました。
隣の県へ住居を移し、新たな生活が幕を開けました。

今思えばどう考えても変なのですが、当時の私は何も考えられないまま状況に身をゆだねていました。

当たり前のようにパパは同居していました。
私と妹、祖母にはそれぞれの部屋があてがわれ、母とパパが同室となっていました。

母とパパとは飲食店を開業し、暫くは一緒に働いていました。
その後パパは常連だった中古車ディーラーの男性に近付き、中古車売買の事業を始めようとしていました。

母から金を巻き上げ、パパは蒸発しました。
私達は何も分からないまま、本来の家族での暮らしを再開しました。

中学を卒業後働こうと思っていた私を母は高校へ進学させてくれ、最終的には大学進学も後押しをしてくれました。
(入学から卒業までの費用は全て自分で工面しましたが)

当時は自身が置かれている環境の異質さに気付けていませんでした。
スマホがなかったこともありますし、アルバイト等で忙しく過ごしていたことも大きいかもしれません。


母の死

2011年4月11日、東日本大震災の混乱が終息しきっていない頃の出来事でした。
長らく関わりのなかった母方の親戚から突然電話がかかってきました。

「落ち着いて聞いてほしい。火事で〇〇(母の名前)が亡くなった」
叔父さんの声は機械のような冷たさで、淡々と言葉を紡いでいきます。

あまりに唐突な報せは現実味がなく、その時点では割と冷静だったように思います。明晰夢を見ているような、そんな気持ちでした。

バイト先に暫くお休みをいただくと連絡を入れ、地元へと帰りました。
焦る気持ちを抑え、出来るだけ平静を装っていたはずではありますが、正直ここら辺の記憶がありません。気付いたら都内から370km程度の移動が終わっていました。

よく分からないまま地元へ帰った所、家族が住んでいたはずの戸建ての借家は完全に焼け落ちていました。
私の部屋があった辺りには燃え残ったマンガの破片たちが散乱しており、これは間違いなく自分の家だった場所だと痛感しました。

妹は二階から飛び降りて何とか生き残り、母は変わり果てた姿になってしまっていました。

妹をどうするかという話になりましたが、親族は手を差し伸べてはくれず、私が引き取ることとなりました。
血のつながった親族として当然のことなのかもしれませんが、学生の身で妹を養うことに対しては特に誰も何も触れてはきませんでした。

その後特に親戚と連絡を取り合う事もなく、(それなりに苦労はしましたが)妹は社会復帰をして現在は無事に一人暮らしをしています。

この時は大学を辞めて就職するべきか真剣に悩みましたが、教授や友人などの支えがあって卒業までこぎ着ける事が出来ました。
(流石に大学院の進学は諦めました)

この時支えてくれた方々への恩は今でも忘れられず、この頃から自身も誰かに対して手を差し伸べられる人間でありたいと思うようになりました。


真実への気付き

ある時私は転職をすることとなりました。
転職先へは身元保証人の署名を提出する必要があり、父母のいない私は依頼先に困っていました。

父の兄である伯父に依頼することができたのですが、その際に伯父からは様々な話を聞くことができました。

当時、母のもとへは億単位の保険金(慰謝料)が支払われていたそうです。
しかし、母の死のタイミングでは1円も手元に残っていませんでした。

保険金の件で父方の祖父母と揉め、それがキッカケで疎遠になっていたようです。

これまで今まで目を背けていた様々な違和感の正体が私の中で実体化していきました。

母は近付いてきたパパに良いようにされ、手元に残っていた保険金の大半を食い荒らされたのだと思います。

私の記憶が間違っていなければ、私が高校生だった頃には手元にはまったくと言っていいほどお金がありませんでした。

家業となっていた飲食店は私が修学旅行に行っている間に廃業され、バイト代から貯めていた貯金で母に融資をしていた程です。

私はそれまで父の死後のお金がないという言葉を真に受けていました。
我儘も言わないようにして、本当は入りたかったミニバスも諦め、テレビやPCやコタツ等、欲しいものはアルバイトをして自分で購入していました。

これまでの努力は一体何だったのでしょうか。
私が本来受けるべき恩恵をどうして他の者達にかすめ取られなければならなかったのでしょうか。

私が弱く、何も出来ない無力な人間だったせいで、母も守れずにクソみたいな人生を歩むことになってしまったのだと思うと憤りすら感じます。

パパの息子たち、つまりは私の友人たちも、私の無力のせいで人生を狂わされてしまいました。
急に父が蒸発してしまった彼等も、きっと辛く大変な人生を歩ませてしまったに違いないでしょう。

お金は人を狂わせ、それによって多くの人々の人生が狂っていきます。
お金が憎くて仕方がないのですが、お金がないと自身も他者も幸せにできないというジレンマを抱えてしまいます。

お金がないと言われて育ったので、お金がない辛さは身に染みています。
しかし、お金があったとしても人生がめちゃくちゃになってしまう事があるということもまた、身に染みています。



おわりに

過去に同じような話を何度も書いているように思いますが、それだけ自身の中ではインパクトの強いエピソードなのだと思います。

事実は小説よりも奇なりという有名なフレーズもあるように、人生というのはそれなりに色々な出来事が起こってしまうものなのだと思います。

現実でも作り話だと疑われることがあるくらいなのですが、誰よりも作り話であってほしいと願っているのは当事者の私ではないでしょうか。

こういったエピソードの引き出しはそれなりに持ち合わせている部類の人間だと思うので、また何かしらの話で記事を書いていければと思います。

最後までお目通しいただいた方、ありがとうございます。
またどこかでお目にかかれたら幸いです。

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