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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#立花道雪

立花 道雪の 名言

立花 道雪の 名言

「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」

今日は立花道雪の名言から一つ。
この言葉は主君の大友宗麟が家臣にペット(猿)をけしかけて遊んでいると聞いて、立花道雪が主君に説教した言葉です。
主君のペット(猿)だから何もできなかった家臣達。しかし立花道雪は違いました。主君があらわれるまで待っているとペット(猿)が道雪に近寄ってきていたずらをはじめます。道雪はそのペット(猿)を鉄扇で叩き殺すのです。道

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高橋 統増(立花 直次)

高橋 統増(立花 直次)

生誕は1572年。死没は1617年。
父は高橋紹運(たかはし じょううん)。母は斎藤鎮実(さいとうしげさね)の娘。次男であり、長男は立花宗茂(たちばなむねしげ)。
幼名は千若丸。
大友義統の諱を貰って統増(むねます)と名乗る。
兄、宗茂が立花道雪(たちばなどうせつ)の婿養子となったため、高橋家の嫡男となった。
長男、宗茂をベタ惚れした立花道雪が娘誾千代の夫にと婿養子を希望。
高橋紹運も嫡男、宗茂を

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宗麟と芝浜

宗麟と芝浜

宗麟「困った。困った。」

作者「どうしたんですか?」

宗麟「何年か前の話なんだけど、正室のイザベルが、毛利軍が攻めてきて大変だから、早く起きて戦へ行っておくれ。もう十日も戦休んでるじゃないかってことがあったんだよ。」

作者「毛利元就が筑後に攻めてきたんでしたっけ?あの頃の毛利って大内軍を破り、イケイケでしたもんね。」

宗麟「毛利って嫌いなんだよね。不戦条約結んだのに攻めてくるし・・。銀山よ

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超最強 立花宗茂

超最強 立花宗茂

大友家の家臣で唯一大名家になり、取り潰しにあい。徳川家において復活した大名です。立花道雪に次いで好きな武将です。戦国最強武将の一人でしょう。

脚色して描けば、間違いなく大河ドラマ化できる武将です。

生誕は1567年、今の豊後高田市あたりの高橋紹運の長男として誕生。幼名 千熊丸。後に弥七郎。結構、改名が多く(18回ほど)。この方の人生もまあまあ節目の多いものなのだと窺えます。没年が1643年で7

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老黄忠 立花道雪

老黄忠 立花道雪

さて、いろいろ大友家臣を紹介していますが、立花道雪こそ大友宗麟の家臣では随一の武将でしょう。

生誕は1513年。死没は1585年です。73歳の生涯を戦場に預けた老黄忠です。(老いてますます盛んという意味です。)

立花道雪といえば、雷を斬りつけて半身不随になった。娘に家督を譲った。義理息子が立花宗茂。武田信玄から訓えをこう手紙きた。などなど。

実際に輿に乗って出陣した記述があるのは1570年の

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才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

大友家の武将紹介で吉岡長増さんの後に紹介する武将となると臼杵鑑速さんでしょうか。生誕は1520年。死没は1575年。とされています。宗麟より10歳くらい歳上ですね。55歳くらい生きたのですね。大友一族の流れを持ち、大友義鑑、宗麟と二代に仕えた武将です。加判衆を務めて、豊後の三老にまで列せられています。主に外交方面で活躍しています。室町幕府との交渉、毛利との交渉、島津との交渉と大友家の外交方面を担当

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立花道雪と雷切

立花道雪と雷切

立花道雪は九州は豊後国の戦国大名、大友宗麟の家臣です。1513年から1585年とありますから72歳まで生きた武将です。14歳で初陣。この時の活躍から彼は「鬼」と呼ばれるようになります。それから32歳くらいの時に家で休んでいるところを落雷にあいます。その時にとっさに手元にあった太刀「千鳥」を振り下ろし、落雷の中にいた雷神を切った。と言われています。この時の後遺症で彼は半身不随になります。本来なら引退

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娘に城を譲った武将

娘に城を譲った武将

大友宗麟の重臣、立花道雪は矢傷を負って脚が不自由でした。ですが彼は輿に乗り、腰に鉄砲をはさんで敵に立ち向かう猛将でした。

彼には一風変わったところがあり、同時代人も驚くことをしました。

それは娘に家督を譲り、立花城主にしたこと。

娘の名前は誾千代。後の立花宗茂さんの奥さんになります。宗茂さんは婿養子だったんです。怖い父と家督を継いだ嫁さんに挟まれて大変だったようです。誾千代さんは腰元に鉄砲の

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