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ある8月の心地よい朝に

ここ最近は朝早く起き、読書をし、朝ご飯を食べ、大学に行き研究をするという習慣がなんとなくつき始めている。じめじめとした空気が鋭い日差しにかき消され、夏が来た。蝉の声がミシミシと聞こえる。朝窓を開けながら、本を読む僕にはいささか煩わしく聞こえるのだが、この声も7日だけのもので精一杯子孫繁栄のために頑張っているんだなと思えば、気にならなくなった。元気の良い小学生の声を聞きながら、今日も1日が始まる。自分も十年前ほどはあのように透き通った高い声で、楽しそうにしていたのかと思うと、今はとても落ち着いたなと思う。ふと、疑問が湧いてきた。昔は昔で、精一杯生きていた。今は今で精一杯生きている。今と昔がどちらが世いっぱい生きている? この問題に解答しようとすれば、屹度答えは出ないだろう。まるで、鶏が先か卵が先か。の問題の様に。また一匹蝉の声が増えた。こんなことを考えていると、そもそもそんなことを考えていること時代がおかしいと思うようになってきた。私は一人の名前をもった人間として生まれ、時間の連続性の中で常に存在し、何かしらの行動を行い、小さいながら何かしらの影響を世界に与えてきた。その過去の自分が今の自分と連続的に繋がっているのならば、今の自分というものは過去の自分の堆積物に過ぎない。そう思うと、過去の自分も可愛くなり、お前が昔頑張ったぶん、今日も俺は頑張るからな、そう思う様になった。


しかし、人は時として、過去の自分との連続性を切りたくなる。後ろをふと振り返ると、見たくない自分の姿なんてものは誰にでもある。しかし、心の記憶の壁に突き刺さるその記憶は、常に消えることなく心に突き刺さっている。その記憶が今の自分を悲しませ、時々自分の存在が哀しいもの愚かなもので作られたもののように感じる。だから、そんな過去とは一瞥して、新しい自分を作ろう。そう人は往々にして思うのだろう。

僕はそれが悪いとは決して思わない。だって世界にその人にしか分からない体験が人の数だけ存在しているはずだから。でも、僕はどうしてもその考えを好きになることは出来ない。なぜなら、過去の自分はどうしても心の壁に突き刺さっているからだ。そして、忘れたい思い出に限って深く突き刺さっているのだ。その思い出を無視していく作戦はある程度までは成功するだろうが、ふとしたときに、ちくちくと自分に襲いかかるに違いない。まるで、のどに詰まった魚の骨のように、取れそうで取れない、不快を常に感じるだろう。だから、決意しなければならないと思う。嫌な過去だって全部受け入れて前に進むための。それは屹度つらいことだ。自分がより、悲しく思えることだろう。しかし、悲しさの根源はここなのだ。ホースの先をいくら抑えたって、蛇口を閉めなおさなければ水はやがて溢れる。その蛇口はひどく堅く、さび付いている。でも蛇口を閉めなければ、水は溢れ続けるのだ。

決意はその作業を強く支える。きつい山登りのあとに山頂から見る景色が素晴らしいようにそして、山を登るんだという決意がきつい道のりを支えてくれるように。決意し、一歩一歩進むんだ。道中の小石や豪雨にも気をとめるな。まっすぐ進むんだ。痛くて、苦しいけども、進むんだ。そうすれば乗り越えられるはずだ。

記憶の壁に刺さっているもやもやを丁寧に抜いていく。         そして、過去の自分との連続性を抱きしめて、一緒に進む。


#夏の小話 #人生 #生き方 #幸福 #連続性 #過去 #現在 #自分

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