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ジェンドリン博士を訪ねたときの回想

このnote記事は、20年近く前にニューヨークへ行き、ユージン・ジェンドリンに会ってきた思い出をつづったものです。ジェンドリンにお会いした際にインタビューをして彼の哲学的背景をお聴きすることができました。以下では、まず、ジェンドリンと初めてお会いしてどんな印象を持ったかを書きます。加えて、ジェンドリンとどんなことをお話したかを書きます。

かいつまんで言うと、ジェンドリンという方の印象は、さすが「フォーカシング」や「辺縁で考える (TAE)」の創始者、相手が感じていることをすぐ言葉にするようにとせっつくことなく、ゆったりと「待ってくれる」人、そんな印象の人でした。また、インタビュー時の話題は、ジェンドリン若き日の哲学的主著のことと、その主著の背景のことでした。


インタビューに至るまで

TAEのワークショップがニューヨークのギャリソン・インスティテュートにて開催されたのは、2004年、メープルの葉が真っ赤に染まった頃のことでした。

この公式記録動画の中で、講師のユージン・ジェンドリンやナダ・ルーの後ろを日本風にお辞儀しながら部屋に入ってくるのが当時の私です。

ワークショップの3日目、講師の一人であるカイ・ネルソンさんへ「ジェンドリンにインタビューしたいのですが」とお願いをしました。するとカイはこう答えてくれました。「可能だと思う。あなたがこのワークショップに来ることは事前にジェンドリンに伝えてあるから。すぐにインタビューを手配しようと思う」

その結果、4日目に30分間のジェンドリンへのインタビューが実現することになりました。ジェンドリン若き日の主著『体験過程と意味の創造』を読むことが自分のライフワークと決めてからはやいくとせ、思えば彼と哲学的な議論をしたいという願いがようやくかなったわけです。

就寝前に歯を磨いていると、参加者の一人、フランス・デペステレにばったり会ったので、自分の気持ちを打ち明けました。「明日の夜、初めてジェンドリンと一対一で話すので緊張しています」。フランスは私にこう言ってくれました。「大丈夫、彼はとてもフレンドリーだよ」。その言葉で私はとても安心したのでした。

一夜明けてワークショップが始まるとき、いつもどおり会場に現れたジェンドリンさん。が、この日はなんと、まっすぐ私の方に向かってきて、みずから握手を求めて来られたのです。「こんにちは。今晩7時に」。そう言われて私はとても感激しました。


インタビューは、まず私が“気がかりを置いていく”作業から

夕方7時になって通訳のクリス・ホンデさんと一緒に約束の部屋へ行きました。持って行ったのは、『体験過程と意味の創造』の原書、それと、自分がほぼ徹夜して作ったメモでした。メモの内容は、ヴィルヘルム・ディルタイ、チャールズ・パース、ジョン・デューイなどの過去の哲学者の著作から文章を引用してジェンドリン哲学との影響関係をチャート式に図解したものです。

部屋に入ると、ジェンドリンはまた温かく迎えてくれました。「邪気のない笑顔」とは、今回のワークショップで同行した福家公子さんのジェンドリン評です。まさにその言葉がぴったりといった感じでした。

ゆったりとソファに腰掛け、落ち着いたところで、私からこう切り出しました。「ドクター・ジェンドリン、あなたにこうしてお会いし、お話できる日を心待ちにしていました」

「(にっこりと)どういたしまして」

「ただ同時に、ここに来ることにある種のためらいも感じていました」と言い、私は続けてその理由をいくつか、気がかりを置いていくように話し始めました。「私、『体験過程と意味の創造』を愛読し続けていて、その自分なりの理解を今回は聴いていただきたくてここに来ました。でも実は私、哲学の学位も心理学の学位も持っていないんです」

私がこう言いたかったのにも理由があります。『体験過程と意味の創造』(Gendlin, 1962/1997)は、そもそもジェンドリンが、心理療法家としての実体験に基づいて書き上げ、シカゴ大学の哲学部へ提出した博士論文 (Gendlin, 1958) が元となっている本だからです。

でも、ジェンドリンは、「学位は関係ないよ」と、さらりと言ってくれました。

「そういってくださると助かります。ただ、あなたは『TAE序文』においてこう書かれていますよね。『もしそれがはっきりした事柄であれば、私はこう言う。「このことのためにおまえは用無しだ。図書館ですぐに手に入るのだから」』(Gendlin, 2004, p. 1; 2018, p. 282; cf. ジェンドリン, 2004) と。そして世界中からその呼びかけに応じてここに多くの方々が集まっている。でも、私、大学図書館員です。仕事が終わると書庫にもぐり、あなたの論文と過去の哲学書とを付き合わせてきました。すでに過去の人が言ったはっきりしたものを切り取ってきて書き並べ、そしてあなたの前に今こうして置いている。これって、あなたがワークショップの参加者に対していちばん望んでいないことかと思われたのですが」

するとジェンドリンは、「私だって最初は図書館に通いつめることから自分の研究をスタートしたんだよ」。その口調は、気にすることはないよ、と言っているように受け取れました。

「そうだったんですか。ただ、まだ自分の中には引っかかるものがあります。私はあなたの著作のうち、初期のものしかきちんと読み込んでいません。最近の著作である『プロセスモデル』は、今回のTAEワークショップの副読本ですよね。でも、『プロセスモデル』は半分も読めていないんです。あなたとしては、自分の古い著作や過去の哲学者との影響関係を掘り返されるよりも、あなたの哲学のより新しい部分や、よりオリジナリティのある部分に注目してもらうのを望んでいることかと思ったのですが」

するとジェンドリンは、「いつだって私はその本 [=『体験過程と意味の創造』] に戻ってきている。そして、考えを練り直している。その本だけを読み続けてくれてもかまわないんだよ」

この返事がまたうれしかったこと。『体験過程と意味の創造』は、TAEという現在の実践と深くつながっているという確信が自分の中にありましたから。それに、自分の英語力ではこの本を読むだけで何年もかかっていて、それだけで手一杯でしたから。


ステップ・バイ・ステップで

さきほどの言葉を聴き、TAEワークショップのさなかに彼が繰り返し言っていたことが重なってきました。「TAEは14のステップがあるけど、進み方は人それぞれ。全部をやろうとしなくていいから、ステップ・バイ・ステップで」

いつかは私も、『プロセスモデル』を読めるようになりたいけど、ステップ・バイ・ステップ、自分のフェルトセンスが納得するペースで彼の著作を読み進めればいいんだなと思えました。


言葉にできなくても感じている「何か」

「ただもし、あなたから今『で、だから何なんだ (And so what)? このメモについてどう感じているかが聞きたいんだが』とたずねられたとしたら、即座に言葉にできないかもしれないんです」

するとジェンドリンはこう返してくれたんです。「でも、『何か』は感じているんでしょう?」

思ってもいなかった言葉が返ってきて、一瞬面食らいました。が、言われてみるとなるほど、いかにも著作を通して知ってきたジェンドリンさんらしいお返事です。そう、確かに「何か」は感じているからこそ、僕はこの人の著作を読み返してきたんだった。


「読む」ということ、著作とその背景との行ったり来たりはフェルトセンスを介して

続けて彼は、『体験過程と意味の創造』を指差しながらこう言ってくれました。「それに、その本を読むと、過去の哲学者の本が面白く読めるでしょう?」

私は机をぽんっと軽くたたきながら、こう言いました。「そうっ、そうなんです!そのこともお伝えしたくてニューヨークに来たんです。この本をよりよく理解したいと思って、哲学的背景を調べてはきました。でも、すると逆に、この本を読み続けるうちに過去の哲学者の著作が生き生きと読めるようになってきたんです。例えば、ジョージ・ハーバート・ミードの著作!」

ここで言うミードとは、20世紀前半にアメリカで活躍した哲学者のことです。ミードのお弟子さんであるチャールズ・モリスという人の教え子に当たるのが、ジェンドリンなのです。また、ミードは社会心理学者としても知られています。

そこでこう話を続けました。「大学生時代、私は社会学を専攻していました。社会学部の学生にとって、彼の主著『精神・自我・社会』は必須文献でした。でも、当時はどうしても彼の用語、「役割取得」や「一般化された他者」になじめなかったんです。ところが、あなたの本のこの箇所を読んだら、ミードの著作が面白く読めるようになったんです」と言って、ジェンドリン本人の前で『体験過程と意味の創造』から次の一節を私は読み上げました。

我々の詩人は、ある感じられた意味、あるいは多くの感じられた意味を持っていて、そうした感じられた意味をシンボル化したいと願っている。既存のシンボルでは自身の感じられた意味をちょうど意味するものがない。従って、詩人はシンボルを新しい仕方で並べようとし、その結果こうしたシンボルが、読者の中に、もしくは読者としての詩人自身の中に、その体験を創造するのである。(Gendlin, 1962/1997, p. 117; cf. ジェンドリン, 1993, p. 144)

そして付け加えて、「これって、ミードの言う『有意味シンボル』のことですよね?」

ジェンドリンは大きくうなずいて、「そうそう、君の言うとおり。ミードのいいところに目をつけたね。ふつう、大学の授業では、ミードの著作の全く違うところばかりが教えられている。例えば、『主我 (I)』、『客我 (Me)』、『主我 (I)』、『客我 (Me)』、〔うんざりした表情で〕特に『客我 (Me)』のことばっかりが教えられている! だから、私は自分の授業では、過去の哲学者を取り上げるときには、二通りのことを教えることにしている。一つは、いわゆる哲学の教科書に書いてあるような、通りいっぺんのこと。もう一つは、その哲学者が本当に言おうとしたこと。教科書どおりのことも教えておかないと、学生が他の先生のところでテストを受けたときに困ってしまうからね。だから、君が今言ったことは、通常のテストでは書かないほうがいいよ。落第点を取ってしまうからね!」と茶目っ気たっぷりに言ってくれました。

うれしい返事でした。私が哲学書を、ただ丸暗記しているのではなく、自分のフェルトセンスで自分なりにたぐり寄せて読み込んできたことを認めてくれたわけです。いちばん認めてほしかったところでした。

ここで私なりに補足を入れます。上記のジェンドリンの『体験過程と意味の創造』からの引用文は、ミードの『精神・自己・社会』の中の次の一節が対応すると私は考えています。

わずか10語に満たない言葉でメッセージを表現しようとする場合、私たちは単にある意味を伝えたいと思うだけだが、詩人は本当に生きている組織、表現そのものにある情緒的な鼓動を扱う。…言語が言語であるなら、人は自分が何を言っているかを理解し、他人に影響を与えるように自分自身に影響を与えなければならない。(Mead, 1934, p. 75; cf. ミード, 2018, p. 276; 2021, p. 81)

私たち人間が他人に言うことは、私たち自身にも影響を与えます。これは「ライオンは、自分の唸り声によって、自分で気づくほどには怖がらない」(Mead, 1934, pp. 63-4; cf. ミード, 2018, p. 263; ミード, 2021, p. 69)のとは対照的です。ミードはこのような人間特有の表現のことを次にように「有意味シンボル」と呼んだのです。

ある人が発話した音声ジェスチャーが他の人のある反応を引き起こす場合、それを発話行為のシンボルと呼んでよかろう。また、ある人が発話した音声ジェスチャーが発話した本人の内に同じ反応傾向を呼び起こす場合、それを有意味シンボルと呼んでよかろう。(Mead, 1925, p. 272; 1964/1981, p. 288, cf. ミード, 1991, pp. 66; 2018, p. 59)

ミードの話題の最後に、私はこんなことも付け加えました。「『フォーカシング指向心理療法』の中で、あなたはこう書いています。『現在が過去に新しい機能、新しい役割を与える。新しい役割の中で、過去は異なって「切り取られる」』(Gendlin, 1996, pp.14-5; cf. ジェンドリン, 1998, p. 37)。この部分を読んでミードの著書『現在の哲学』に興味を持ったのを覚えています」

それを聞いてジェンドリンはにっこりとうなずいてくれました。

補足を入れましょう。『現在の哲学』には、次のような一節があります。

…なぜなら、過去は現在に向かって設定されなければならないからである。現在のただなかで創発的なものが現われると、過去は、創発的なものの観点から見直されざるをえず、異なった過去になるのだ。(Mead, 1932, p. 2; cf. ミード, 2018, p. 614)


ジェンドリン哲学、その奥行き

自分のコミュニケーション能力に自信がついたところで、よしそれならばと、『体験過程と意味の創造』の中で最も難しい章である「第5章: 普遍の原理:IOFI」をこちらから話題にしました。

「この本を読むと、19世紀から20世紀にかけてアメリカやドイツで展開された哲学との強いつながりを感じます。その一方で、そうした近年の哲学の知識だけで本書を言わんとすることをつかむのは難しくて、哲学史のより幅広い知識も読み手に求められていると感じています。例えば、あなたはこの本で、スザンヌ・ランガーを引用していますよね」。ここでいうランガーとは、20世紀中頃にアメリカで活躍した哲学者のことです。私はランガーの話題を続けました。「確かにこの引用は、彼女の有名な一対の用語、『シグナル』と『シンボル』とが対比されていますね」

人間の印象は、外界からのシグナルだけではない。それは常に、可能な印象を定式化するイメージ、つまり、このような経験 (such experience) の想念のためのシンボルでもある。(Langer, 1953, p. 376; Gendlin, 1962/1997, p. 184; cf. ランガー, 1971, pp. 621-2; ジェンドリン, 1993, pp.211-2)

「しかし、ランガーをわざわざ『普遍』を扱った章で引用していることに、大きな意義があると私は見ています。この文脈の中で引用したかったいちばんの理由は、むしろこの単語、『such experience』の『such』が使われているからではないでしょうか? 『such(このような)』とは、古典ギリシア語で言えば『トイオンデ』のこと。そして、第5章に頻出する『普遍的な (universal)』とは、古典ギリシア語で言えば『カトルー』のこと。つまり、ランガーの文章を通して、実はアリストテレスの時代から続いている哲学の伝統をあなたは見据えているのではないか。そしてその伝統を、あなたの『体験過程 (experiencing)』という発想を通してご自分なりに捉え直そうとしたのが、この『普遍』を扱った第5章なのではないかと推察したのですが」

つまり、「あなたは単にランガーのアイデアを利用しているだけではないですか?」と、やや意地悪に質問してみたのです。

すると、彼は「あー、『トイオンデ』、『カトルー』ね」と答えました。

なお、ジェンドリンは次のように付け足してくれました。「ただし、私はランガーを決して軽視しているわけではないよ。なぜなら、彼女は『経験 (experience)』ということについて非常に的確なことを述べた人だからね」

ここで私なりに補足を入れます。「普遍的な」という言葉を聞くと、「万物に共通で、決してゆらぐことのない」というようなイメージをもたれるかもしれません。それに、およそフォーカシングとは縁遠い言葉のような。もちろんこの語にはそういう意味もあるかもしれません。しかしながら、ここで言う「普遍的な」とは、「2つ以上のものに共通な」といった程度の意味なのです。

補足として、アリストテレスの著作から、その使用例を見てみましょう。

もし原理が普遍的 (universal) であるならば、それは実体ではないだろう。なぜなら、共通するものはすべて「これ (a “this”)」ではなく「このようなもの (a “such”)」を指すが、実体とは「これ」だからである。そして、もし共通の述語が「これ」と単一のものであるとすることが許されるなら、ソクラテスは多くの動物—自分自身と「人間」と「動物」になるであろう。(Aristotle, trans, 1941, p. 731; Bekker pagination, 1003a; cf. アリストテレス,1968, pp. 89-90)

[学問的な]知識は、知覚することを通して得ることができない。たとえ、能力としての知覚が「このようなもの (the such)」であって単に「この何か (this somewhat)」ではないとしても、人は少なくとも実際に「この何か」を、明確な現在の場所と時間において知覚しなければならない。しかし、あらゆる場合において相応に普遍的で真実であるものは、知覚することができない。なぜなら、それは「これ」ではなく「今」ではないからである。もしそうであれば、常にどこにでもあるものに適用される用語である「普遍的な (universal)」に対応しないであろう。(Aristotle, trans, 1941, p. 154; Bekker pagination, 87b; cf. アリストテレス, 1971, p. 704)

加えて、ランガーの有名な一対の用語、『シグナル』と『シンボル』の対比を補足しておきましょう。

お利口な犬にとって、人の名前はその人がいることのシグナルである。あなたが名前を言うと、犬は耳をピンと立ててその名前の主を探す。「ご飯だよ」と言えば、食べ物を期待して落ち着きを取り戻す。(Langer, 1957, p. 30; cf. ランガー, 2020, pp. 79-80)

私たちの語のほとんどは、シグナルという意味でのサインではない。語は物事について (about) 話すために使われるのであって、私たちの目や耳や鼻を物事に向けるために使われるのではない。…語はむしろ、不在の対象「について考える」あるいは「に言及する」という特徴的な態度をとるように仕向ける。このような能力において使われるサインは、物事の兆候ではなく、シンボルである。(Langer, 1957, p. 31; cf. ランガー, 2020, pp. 80-1)

シグナル的にではなく、シンボル的に使われる用語は、その対象の存在にふさわしい行為を呼び起こさない。私が「ナポレオン」と言っても、私が紹介したかのようにあなたはヨーロッパの征服者にお辞儀をするのではなく、ただ彼のことを思い浮かべるだけである。(Langer, 1957, p. 60; cf. ランガー, 2020, p. 130)


あくまで「実例に基づいた」パターン

そこでジェンドリンは、アリストテレスの師、プラトンにさかのぼって話を続けてくれました。プラトンの著作は、劇の台本のように「対話」形式で書かれています。例えば、対話の始まりでは、まず語り手のポレマルコスが「正義」の定義を述べます。すると聴き手のソクラテスが、「では、こんな場面でも今の定義は通用するか」と切り返す。こうした問答の繰り返し――論駁(エレンコス)――によって、語り手が本当に言いたいことをソクラテスが吟味してゆく (cf. Stephanus pagination, Vol. 2, 331e–336a)。そんな話を、プラトンの『国家』と、それに加えて『メノン』という著作から対話部分を引き合いに出してジェンドリンは語ってくれたのです。たまたまどちらの対話部分も私は読んだことがあったので、ジェンドリンが言いたいことがとてもわかりやすく伝わってきました。

そこで私は合いの手を入れました。「なるほど、対話の中で、実例を通してパターンも変わってくるということですよね」。私は、彼の話を聴いて受けた感じを自分の言葉で伝え返したのです。

するとジェンドリンは、「そうそう、実例を通して (through instances)。君の言うとおり! 通訳が入る前に私の言いたいことをわかってくれたね。まさにそうなんだよ」

ここでいう「実例」と「パターン」とは、TAEの中で繰り返し出てくる用語です。つまり、さきほどの「普遍」とはTAEで言うパターンに通ずるものがあり、TAEの中にもプラトンの対話法のようなことが実践的に織り込まれているのですね、と私は伝えたかったわけです。

私は彼に話を続けました。「ところで、今おっしゃったことは、すでにあなたの博士論文に書かれていますね。ところが、博士論文が『体験過程と意味の創造』として出版されたとき、その節が省略されてしまってるんです」。博士論文のコピーを私は彼に見せました。例えば、次のようなことが書かれています。

ソクラテスはしばしば、話し手が主張したことが本当は話し手の意図しないことを含意していることを示し、それゆえ話し手に自身の発言を改めさせるのである。(Gendlin, 1958, p. 21)

プラトンの『メノン』や『国家』を例に挙げると、弁証法とは、物事が互いに関連し合うプロセスであると言える。こうして発見された矛盾の結果として、新しい定式化がなされる。新しい定式化は矛盾を解決し、元々意図していた真の意味を反対の主張が保持するのである。(Gendlin, 1958, p. 22)

コピーを読んだ彼は、冗談交じりにこう言いました。「本当だ。ちゃんと書いてある。君の方が私より詳しいね。このことを著作目録の作成者、フランス・デペステレに伝えておいてほしい」

どうやら、出版に際しての省略は、彼の意図したことではなかったようです。


インタビューを終えて

時の経つのはあっという間で、約束のインタビュー時間30分が惜しくも迫って来ました。

「まだ、話したいことはあるようだね」と、ジェンドリンはちょっとすまなそうに、私の気持ちを汲み取ってくれました。次の面接予約者がノックして入ってきて、インタビューはひとまず終わりとなりました。

翌日になって、スタッフのカイ・ネルソンさんが、「ジェンドリンは、あなたさえ良ければ、今後もやり取りを続けたいと言っていたわよ」と彼の言葉を伝えてくれました。ああ、よかった、私なりに彼の著作を一生懸命読んできたことを認めてもらえたんだ、そう思えたときでした。

ワークショップも最終日になり、日本から来た皆さんも感想をと求められました。自分の話す番が回って来たとき、またも『体験過程と意味の創造』を片手に持ちながら私は次のように感想を述べました。

「4月にカイが日本に来たとき、カイと私の二人でジェンドリン哲学について話をしたのがきっかけで、このワークショップへの参加を彼女に招待していだきました。そのとき私は、『この本を理解するためにもぜひ参加したい』と応えました。今回実際に参加して、その目的はかなったと思います。ジェンドリンさんは、ステップの前半を解説されたとき、実例とパターンを行き来するという話の流れの中で『繰り返し起こること (recurrence)』という言葉をぽんと何気なく使われました。これが私にとってとてもわかりやすかったんです。あのときの解説を思い出しながら、この本を読み返してみます。きっと今までよりもっとよく読めるようになると思います」

私が言ったことを通訳が訳すと、ジェンドリンは私の目を見て「第5章のことだね」とこの公式動画に収録されているように言ってくれました。

さらに、ジェンドリンはにっこりうなずいてこう言いました。「そう。今、彼が言ったことがまさにその本の中に書いてある。『それ自身の実例、IOFI』と言ってね。でもまあ、ここでは専門用語は必ずしもみんなに覚えてもらわなくて構わないけどね」

コメントは、私の感想を会場の雰囲気の中にほどよく調和させてくれるものでした。

このようにして、ニューヨークでの私のワークショップ体験は終わり、日本に戻って来た次第です。


その後

彼にインタビューできたことは、私にとって最高のタイミングでした。なぜなら、私は当時、ジェンドリンが『体験過程と意味の創造』を書き上げるに至るまでの経緯を論文 (田中, 2004; 2005a)として執筆している最中だったからです。

それから7年が経ち、私は大学院に入って、『体験過程と意味の創造』についての博士論文 (田中, 2018) を書きあげました。博士論文の一部は、英語の書籍『Senses of Focusing』に寄稿しました (Tanaka, 2021)。

ようやく私は現在、『プロセスモデル』 (Gendlin, 1997/2018; ジェンドリン; 2023) や「パターンを超えて思考すること」 (Gendlin, 1991) といった彼の後期の著作の読解に取り組み始め、その成果をいくつかのnote記事 (田中, 2022a, December; 2022b, December; 2023, March) にするに至っています。

20年近く前のインタビューは今の私を形成するうえで、とても大きな経験だったと言えるでしょう。


付記

このnote記事は、「“待ってくれる”人、ジェンドリン:30分の幸福な面会時間を振り返って」 (田中, 2005b) を拡大したものです。ジェンドリンへのインタビューに際し、そのお膳立てをしてくださったカイ・ネルソンさんとクリス・ホンデさんにお礼申し上げます。


参考文献

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アリストテレス [著] ; 出隆 [訳] (1968). 形而上学 (アリストテレス全集, 第12巻). 岩波書店.

アリストテレス [著] ; 加藤信朗 [訳] (1971). 分析論後書 (アリストテレス全集, 第1巻). 岩波書店.

Gendlin, E. T. (1958). The Function of Experiencing in Symbolization. Doctoral dissertation. University of Chicago, Department of Philosophy.

Gendlin, E. T. (1962/1997). Experiencing and the creation of meaning: a philosophical and psychological approach to the subjective (Paper ed.). Northwestern University Press.  ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 筒井健雄 [訳] (1993). 体験過程と意味の創造 ぶっく東京.

Gendlin, E. T. (1991). Thinking beyond patterns: body, language and situations. In B. den Ouden, & M. Moen (Eds.), The Presence of Feeling in Thought (pp. 21–151). Peter Lang.

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Gendlin, E. T. (1997/2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル:暗在性の哲学 みすず書房.

Gendlin, E.T. (2004). Introduction to "Thinking at the edge". The Folio, 19(1), 1-8. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村里忠之・村川治彦 [訳] (2004). 「TAE(辺縁で考える)」への序文.

Gendlin, E. T. (2018). Saying what we mean: implicit precision and the responsive order (edited by E. S. Casey, & D. M. Schoeller). Northwestern University Press.

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Langer, S. (1953). Feeling and form: a theory of art developed from Philosophy in a new key. Scribner.  スザンヌ・ランガー [著] ; 大久保直幹 [ほか] 訳 (1971). 感情と形式:続「シンボルの哲学」, 2. 太陽社.

Mead, G. H. (1925). The genesis of the self and social control. International Journal of Ethics, 35(3), 251-77.  ジョージ・ハーバート・ミード [著] ; 船津衛・徳川直人 [訳] (1991).自我の発生と社会的コントロール. 社会的自我 (pp. 29-74). 恒星社厚生閣.

Mead, G. H. (1932). The philosophy of the present (edited by A. E. Murphy). Open Court.

Mead, G. H. (1934). Mind, self, and society: from the standpoint of a social behaviorist (edited by C. W. Morris). University of Chicago Press.  ジョージ・ハーバート・ミード [著] ; 山本雄二 [訳] (2021). 精神・自我・社会 みすず書房.

Mead, G. H. (1964/1981). Selected writings (edited by A. J. Reck). University of Chicago Press.

ジョージ・ハーバート・ミード [著] ; 植木豊 [訳] (2018). G・H・ミード著作集成:プラグマティズム・社会・歴史 作品社.

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田中秀男 (2005a). ジェンドリンの初期体験過程理論に関する文献研究:心理療法研究におけるディルタイ哲学からの影響 (下). 図書の譜:明治大学図書館紀要, 9, 58-87.

田中秀男 (2005b). “待ってくれる”人、ジェンドリン:30分の幸福な面会時間を振り返って. The Focuser's Focus: 日本フォーカシング協会ニュースレター, 8(1), 4-6.

田中秀男 (2018). フォーカシングの成立と実践の背景に関する研究:その創成期と体験過程理論をめぐって 関西大学博士論文.

Tanaka, H. (2021). Tapping “it” lightly and the short silence: applying the concept of “direct reference” to the discussion of verbatim records of Focusing sessions (with the English language supervision of A. Ikemi). In N. Kypriotakis & J. Moore (Eds.), Senses of Focusing, Vol. 1 (pp. 125-38). Eurasia Publications.

田中秀男 (2022a, December). 「環境#0」の祖先としての、デューイの「自然界」.

田中秀男 (2022b, December). ミードからジェンドリンに至るまでの「対象」理論:その類似点と相違点.

田中秀男 (2023, March). スザンヌ・ランガーと「~について (aboutness)」.

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