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ダイバーシティとSDGsの本質を【自然と多様性】≠【人工と均一性】の構造で考えてみる

自然はもともと多様性に満ちているが、人工的な都会空間では均一化の力学が働いている

桜島はいつ大噴火するかわかりませんが、毎日のように噴火を続けています。
南海トラフ地震がいつ起こるかもわかりませんが、地震は毎日起こっています。

屋久島になぜ縄文杉があるのか?
白神山地に行けばなぜブナの木があるのか?

日本にはたくさんの温泉が湧き出ています。
山々の間には川が流れ、やがて海に流れると魚たちが泳いでいます。

今私は自然とは何だろうということを説明しようとしているのですが、実は説明などいらないのかもしれません。

富士山がそこにある。これが自然です。

今風に言うと「そこにある」ですが、昔から多くの人が自然をおのずからしかり」という言い方で「そこにある」というニュアンスを理解してきました。

富士山がなぜそこにあるのかということを科学的に解明しようすることにも興味はありますが、富士山がそこにあるということに、どれだけの日本人がドラマを見てきたかということに、私はワクワクします。自然にはドラマがたくさん満ち溢れています。

富士山にもドラマがあります。ナイアガラの滝にもドラマがあります。もちろん、華厳の滝にも白糸の滝にもです。それはもう、自然のドラマは多種多様で無限にあります。

また、「おのずからしかり」という場合、生物多様性のことを言ったり、常に変化し続けながらも絶妙に生命のバランスを保っている「動的平衡」(福岡伸一先生の術語)のメカニズムを表現したりすることもできます。

私の心臓も「そこにある」ものです。私が意図して作ったものではなく、あまりできのいいほうではありませんが、気づけば私の身体に勝手に居座っていました。この私の心臓の細胞は、子供の頃のものはひとつも残っていませんが、今でも動いてくれています。常に細胞が動的に入れ替わりながらも心臓という自然体の平衡を保ってくれているのです。(動的平衡)

地球そのものが超生物のように動的平衡を保っていると、地球システム科学の世界では言われます。地球も「そこにある」自然なのです。地球に暮らす人間ももちろん「おのずからしかり」で、いつ生まれていつ死ぬかも全くわからない無計画な自然の存在です。それになぜ地球に住み着いたのと、その目的を人類に問うても誰も明確な答えをもっていません。

昔から日本人は人間も自然の一部であり、自然と共生しているというアニミズム的自然観をもっていました。その自然観は「生かされているという感覚」にも通じます。

「生かされているという感覚」に対するのは「生きているという意識」と「生きるという意思」です。意識や意思は、目的と計画性を大切にし、理性的に秩序立てて動くことを美徳とするものです。こうした態度は「人為的」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、私はあえて「人工的」だと言い換えたいと思います。

そして私は「人工的」な営為としての象徴的産物は都市だと感じています。都市は無秩序に自然発生的にできたものではなく、計画をもって人工的に作られたものです。さらに都市空間に暮らす人々は、感情的な振る舞いを時として嫌い、理性的な態度をよしとして、秩序正しく生きることを是とします。

それはともかく、今ではグローバル化の動向もあり、世界中あらゆるところで同じような都市空間が人工的に作られてきました。およそ都市と呼べる空間はどれも均一です。

ニューヨークも東京も上海も同じように、微動だにしないビルが立ち並び、車は網の目を這うように移動し、地下鉄はモグラよりも忙しく走り回っています。そこに住む人々は、スタバでコーヒーを飲み、ジムに通って体を動かし、たまにビルの谷間にある公園でゆっくりします。こういうライフスタイルはどの都市でも同様に見受けられるものです。

そして、感性よりも意識が重視される理性的な都市空間ではあらゆるものが均一化します。意識は理解できないものを許容することを苦手としていて、わけわからないものを無視したりもします。そして多様で複雑な差異を捨象し抽象的な意味やコードを好みます。これが均一化の思考的なメカニズムです。多様性を受容することとは真逆のメカニズムです。

どの都市に行っても、張り巡らされた道路のわきにビルが林立していて均一化された同じような景色です。そこでは、虫も住処を失い、野生の動物も姿を消し、生物多様性が失われています。

また、機械論的自然観から発展してきた都市の「神話」のもと、都市の人々は都市の時空のルールで「生かされる」ことが当たり前となり、都市のパーツとして機能するようになります。言語も標準化され、田舎者も都会の顔をするようになり、マイノリティがマジョリティの中に埋もれていきます。人も均一化の流れに抗えないのです。

このように都市空間では均一化の力学が働いています。昨今ダイバーシティが叫ばれる背景には、都市空間がもつ均一化への力学に対する警鐘があると私は見ています。ダイバーシティが語られるのは、田舎ではなく、都市圏で顕著なのではないでしょうか。

ところで、自然豊かな田舎でない限り、都市空間にいると自然と共生しているような感覚を得ることは難しく、逆に自然と対峙してしまう。なぜなら都市空間は自然の破壊のうえに成り立っているからです。もはや自然は人にとって仲間ではないのです。

さらに言えば、機械論的自然観は、自然と人を二元論的に分けるデカルトの考え方がベースとなっていて、地球環境をコントロールし、地球資源を採取していいのは人間だけだという人間中心主義の科学哲学的な「神話」が生まれました。この「神話」はキリスト教の神学とも関連が深く、現代人の「科学技術信仰」にもつながっていて、この「神話」には人をして自然と対峙させるのは「不自然」だと盲目的に考えさせない「魔術」のような働きがあると私は考えています。

ちなみに、地球資源開発や宇宙開発を視野に入れたときに、人間は自然の上位にあるという考えがすでに自分の頭のなかにあるとすれば、「科学技術信仰」の信者の資格があるかもしれません。

ともあれ、未来都市はますます人工的な空間になるのではないかと思います。

落合陽一さんは、デジタル空間も「自然化」してリアルな世界となる「デジタルネイチャー」の時代が到来すると提唱しています。私は「おのずからしかり」という自然観を大切にしたいので、「デジタルネイチャー」理論には違和感を覚えています。ですが、この理論に「ダーウィニズム的な発想」を取り入れて、考え方を拡張することで「デジタルネイチャー」理論に一応の理解を示すことができるなとも思っています。

デジタルネイチャーについての解釈はともかく、都市空間において、空気・緑・水などの本来的な自然が人工的なシステムの上で扱われるようになっているのも事実です。SDGsの取り組みもすばらしいとは思いますが、自然が人工的なシステムの上におかれている以上、SDGsの取り組みも本質的な解決にはならないと私は考えています。

このままAIの指数関数的な進化のように、人工的なシステムをベースに加速度的に都市開発が進んだらどうなるかをイメージしてみたくなりました。

未来都市の上空からの夜景 by DALL·E 3

未来の電力消費のすさまじさ(めっちゃ電気を使ってるだろうなというのは想像できます)についてもイメージを描きたいという目論見もあり、AIで「上空から眺める灯りの絶えない未来都市の夜景」の画像を生成したらこんなのが出てきました。この画像に「緑とか水など自然豊かで住みたくなるような生活空間」というプロンプトを追加した方がよかったかなと思いましたが、AI初心者なので、かなり恣意的な画像になったことはご容赦ください。

私は海と山に囲まれた鹿児島の田舎への移住を予定しているので、この画像のような都会に住んでいる自分をイメージすることはできないのですが、自然は人間がコントロールできるものだという科学哲学的な「神話」の功罪を問い直し、おのずからしかり」という自然観と自然との共生という価値観を大切にできたらいいなと感じています。

また、自然は人間がコントロールできるという考えは、自然と人間を分離させ、自然を人間の「外」のモノとして捉えることに成功したからに他なりませんが、自然を人間の「内なるもの」として捉え直すような科学的思考におけるパラダイムシフトも必要なのかもしれません。




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