性善説と性悪説とは大いなる人間社会の課題だった件
「性善説」と「性悪説」は「政治哲学」である
よく話題になる「性善説」と「性悪説」なんですが、
調べてみると結構深いことに気づきました。
この二つって実は「政治哲学」だったんですね。
そもそもこの二つは「儒教」の系譜である
「孟子」と「荀子」に由来しています。
ここで「子」という語句が出てきますが、
実は「○子」というのは、「○先生の教え」という意味なのです。
したがってたとえば「孔子」というのは
「孔先生の教え」という書物のことをあらわしています。
当然ですが、お弟子にあたる人が書き留めた「語録」である
ということです。
ですから、これらの書物は「子曰く」という言葉から始まるわけですね。
そもそも荀子も孟子も、
孔子の教えに系譜を持つ「儒教」の流れをくんでいます。
そして、儒教とは、国を治めるための政治哲学であったと言うわけです。
すなわち、群雄割拠していた当時の中華社会において、
君主は如何に国を治めるべきかという政治哲学であったわけです。
さて、孟子さんと荀子さんはどちらが先に生まれたかと言えば、
孟子さんの方が紀元前372年にお生まれですから、
紀元前298年生まれ(313年説もあり)の荀子さんは
はるかに年下ですです。
ジジイと若者の年の差くらいの隔たりはありますが、
いわゆる「諸子百家」の一翼であったと言うわけです。
すなわち、群雄割拠していた中華世界において、
いかに「国を治めるか」という哲学が求められていた時代だったのです。
現代社会は性善説と性悪説が並立する矛盾社会
まず、この思想の基本になった儒教から言いますと、
孔子さんは「仁」というものを人間社会の根本的な概念である。
と捉えました。
これは、そもそも人の心は
「慈しみの心によって動く」というものでした。
ですから、君主は民を慈しむことで政治が成り立つという概念です。
これを現代にうつしてみると、
日本国憲法の「前文」の一節が思い浮かべられるのです。
ここにはあたしたち「日本国民の安全」は
と述べています・これこそまさに
政治力学における「性善説」に基づくものです。
しかし、このように「憲法」に基づく、法体系にいるわが国は、
「法による支配」という、
言ってみれば「性悪説」に基づいているのです。
なぜこれが「性悪説」なのかという理由は、後に譲りましょう。
あたしたちの社会はこのように二元説では語れない、
言ってみれば矛盾の中において「社会」を形成しているわけです。
これは、少し掘り下げて考察していきましょう。
実に面白い課題が見つかりました。
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